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手応えを感じた。なぜならこの男性も、いくつかの船に纏わる事故を知っているからだ。けれどそれは、私の思い過ごしだった。男性は沈黙で答えた。語るべきことは何もないという意思表示だと、気づいた。
それよりも、目の前の機械に夢中。
「何をしているの?」
これには即答だった。
「あんたが思うより忙しくしてる」
それは、そうかもしれない。玄江は私たちを建物に招き入れるときも、不思議な装置を試すときも主導権を握っていた。とても重要なひと。そして、公平なひとだ。この冷静さは一歩引いた地点から状況を吟味し、機械のように制御するためのものだと私は思った。このひとに嫌われて彼の立場を悪くするくらいなら、諦めたほうがいいだろうか。
思い悩んでいると、玄江が口を開いた。
「ヴャチェスラーフは、乗らなかった」
名前を言われてもピンとこないけれど、これは彼のお兄さん、長谷のご主人の名前だ。名前を知っているほどには、関わっている。私は待った。続きがあると確信していた。けれどそれは、私にとって決して都合のいい話ではなかった。
「っつか、訊かないほうがいい。その事故でふたり死んだ。妹と、継母だ。特に継母の方は、あいつらにとって特別だった。抉るような真似は、するな」
玄江の手を借りてお兄さんに連絡をとるのは無理そう。でも私は諦めなかった。玄江が語ったのは、彼から聞いた話と同じ。主語がお兄さんだから“妹”と言っただけだ。つまり、私と同じ話を誰かから聞いている。相手が彼でないことは確かだ。
「だったら、あなたの意見を聞かせて」
玄江は一度手を止め、瞬きのあとで私を見た。とても静かな表情をしている。
「彼は自分がおかあさんを死なせてしまったのだと思い込んでいるんです。でも、覚えていないの。おかしいでしょう? 誰かが言ったのよ。たった5歳の子どもに、とても、ひどいことを」
「それが誰か知りたいのか?」
「いいえ。本当は何が起きていたのかを知りたい」
玄江の目がとたんに曇る。それは疑念だった。
「そんなの、ヴャチェスラーフだって知らねえよ」
「でも、誰が乗っていたかは知っているわ。きっと」
信じられないものを見るような目を向けられても、怯まない。私の頭がおかしいのだとすれば、それは今の発言どうこうではいのだから。
「子どもだけで航海するなんて無理です。乗り合わせた大人がいるのだから、その人物を手がかりに真相を明らかにできるでしょう?」
「あんたは、あの事故そのものを疑ってるのか?」
口を開こうとした私を、玄江が畳み掛けるようにして止めた。
「もし事実がひん曲がってたとして、それを知ってどうする。オリガの母親の死が何か暴かなきゃならないものだとしたら、あいつらの全部がぐちゃぐちゃになるぞ。ドミトリーに言うのか? 殺し合いをさせたいのかよ」
「違うわ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。驚きのせいで、私は一瞬で冷静さを取り戻した。
「言い方が悪かったわ、ごめんなさい。一部始終を見ていた人物からあらましを聞いて、事故を事故として伝えたいの。彼は確かめることもできなかった。もちろん、兄弟間の信頼は堅いものだと思います。でも彼は心を開けない。罪の意識を植えつけられているから」
「それくらい、やり過ごせる」
玄江の声がふるえた。
「私にはそうは見えないわ。絶望はひとを壊します」
「あんたが、開けようとしてる蓋は……」
言葉を選びながら、玄江は何かの考えに気を取られているようだった。けれど、的確な結論を迅速に投げる習慣があるらしく、こう言った。
「それだけじゃ済まなくなる」
曖昧だけれど、闇雲ではない。全てを内包している。私は頷いた。
「だから、誰が乗り合わせていたのか知りたいの。私があけて、私がしめます。あなたは心当たりがあるのね」
「待て」
毅然とした表情を取り戻し、玄江は私に指を向けた。
「俺の意見を聞きたいんだろ。じゃあこうだ。ほじくり返してあんたが死ねば今度こそドミトリーは破滅する」
「死なないわ」
「いや、死ぬんだ」
装置の件からも私の身体のことを知らないはずがないし、言っても差し支えないと思った。けれど、うろたえたのは私のほうだった。即答され、言葉に詰まる。あの装置を作れるというだけで、信憑性は高い。じろりと睨まれた。
「俺に言わせるな。とにかく、やめとけ。そばにいてやりゃあいいんだよ。ガキじゃあるまいし、トラウマより目の前の女のがいいに決まってんだろバカ」
「バカ……」
思わず動揺してしまう。
「自分がどんなポジションに立ったかよく考えろっての。あーもーめんどくせえっ」
ふいに玄江が椅子をすべらせ、モニターの下でスイッチを入れた。私からは画面が見えない。けれど、よく知った声が届いた。
《ヤマト!》
「なんだ」
不機嫌さを隠しもせず、玄江が答えた。
《ヤマト、まりえが遅い。迎えに──》
「行くな、バカ。トイレを出たあと反対に歩いて変に迷ったんだよ。ちゃんと懇切丁寧に誘導してる」
玄江が、たしかに、懇切丁寧な説明をしながら私を目で苛んでいる。下の名前はヤマトというらしい。ミーチャは嫌われていると言っても、名前で呼び合っているようだ。
《あのさ、化粧室にはないよね。カメラ、ないよね》
「ふざけんな?」
《ねえ、あるの、ないの。個室にだけないの》
彼は何を言っているのだろう。もちろん、私のプライバシーを案じてくれているだけで、変な意味は無い。おかしくなって、口を隠して笑ってしまった。
「お前の兄貴と一緒にするな」
「……」
いま何て?
それよりも、目の前の機械に夢中。
「何をしているの?」
これには即答だった。
「あんたが思うより忙しくしてる」
それは、そうかもしれない。玄江は私たちを建物に招き入れるときも、不思議な装置を試すときも主導権を握っていた。とても重要なひと。そして、公平なひとだ。この冷静さは一歩引いた地点から状況を吟味し、機械のように制御するためのものだと私は思った。このひとに嫌われて彼の立場を悪くするくらいなら、諦めたほうがいいだろうか。
思い悩んでいると、玄江が口を開いた。
「ヴャチェスラーフは、乗らなかった」
名前を言われてもピンとこないけれど、これは彼のお兄さん、長谷のご主人の名前だ。名前を知っているほどには、関わっている。私は待った。続きがあると確信していた。けれどそれは、私にとって決して都合のいい話ではなかった。
「っつか、訊かないほうがいい。その事故でふたり死んだ。妹と、継母だ。特に継母の方は、あいつらにとって特別だった。抉るような真似は、するな」
玄江の手を借りてお兄さんに連絡をとるのは無理そう。でも私は諦めなかった。玄江が語ったのは、彼から聞いた話と同じ。主語がお兄さんだから“妹”と言っただけだ。つまり、私と同じ話を誰かから聞いている。相手が彼でないことは確かだ。
「だったら、あなたの意見を聞かせて」
玄江は一度手を止め、瞬きのあとで私を見た。とても静かな表情をしている。
「彼は自分がおかあさんを死なせてしまったのだと思い込んでいるんです。でも、覚えていないの。おかしいでしょう? 誰かが言ったのよ。たった5歳の子どもに、とても、ひどいことを」
「それが誰か知りたいのか?」
「いいえ。本当は何が起きていたのかを知りたい」
玄江の目がとたんに曇る。それは疑念だった。
「そんなの、ヴャチェスラーフだって知らねえよ」
「でも、誰が乗っていたかは知っているわ。きっと」
信じられないものを見るような目を向けられても、怯まない。私の頭がおかしいのだとすれば、それは今の発言どうこうではいのだから。
「子どもだけで航海するなんて無理です。乗り合わせた大人がいるのだから、その人物を手がかりに真相を明らかにできるでしょう?」
「あんたは、あの事故そのものを疑ってるのか?」
口を開こうとした私を、玄江が畳み掛けるようにして止めた。
「もし事実がひん曲がってたとして、それを知ってどうする。オリガの母親の死が何か暴かなきゃならないものだとしたら、あいつらの全部がぐちゃぐちゃになるぞ。ドミトリーに言うのか? 殺し合いをさせたいのかよ」
「違うわ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。驚きのせいで、私は一瞬で冷静さを取り戻した。
「言い方が悪かったわ、ごめんなさい。一部始終を見ていた人物からあらましを聞いて、事故を事故として伝えたいの。彼は確かめることもできなかった。もちろん、兄弟間の信頼は堅いものだと思います。でも彼は心を開けない。罪の意識を植えつけられているから」
「それくらい、やり過ごせる」
玄江の声がふるえた。
「私にはそうは見えないわ。絶望はひとを壊します」
「あんたが、開けようとしてる蓋は……」
言葉を選びながら、玄江は何かの考えに気を取られているようだった。けれど、的確な結論を迅速に投げる習慣があるらしく、こう言った。
「それだけじゃ済まなくなる」
曖昧だけれど、闇雲ではない。全てを内包している。私は頷いた。
「だから、誰が乗り合わせていたのか知りたいの。私があけて、私がしめます。あなたは心当たりがあるのね」
「待て」
毅然とした表情を取り戻し、玄江は私に指を向けた。
「俺の意見を聞きたいんだろ。じゃあこうだ。ほじくり返してあんたが死ねば今度こそドミトリーは破滅する」
「死なないわ」
「いや、死ぬんだ」
装置の件からも私の身体のことを知らないはずがないし、言っても差し支えないと思った。けれど、うろたえたのは私のほうだった。即答され、言葉に詰まる。あの装置を作れるというだけで、信憑性は高い。じろりと睨まれた。
「俺に言わせるな。とにかく、やめとけ。そばにいてやりゃあいいんだよ。ガキじゃあるまいし、トラウマより目の前の女のがいいに決まってんだろバカ」
「バカ……」
思わず動揺してしまう。
「自分がどんなポジションに立ったかよく考えろっての。あーもーめんどくせえっ」
ふいに玄江が椅子をすべらせ、モニターの下でスイッチを入れた。私からは画面が見えない。けれど、よく知った声が届いた。
《ヤマト!》
「なんだ」
不機嫌さを隠しもせず、玄江が答えた。
《ヤマト、まりえが遅い。迎えに──》
「行くな、バカ。トイレを出たあと反対に歩いて変に迷ったんだよ。ちゃんと懇切丁寧に誘導してる」
玄江が、たしかに、懇切丁寧な説明をしながら私を目で苛んでいる。下の名前はヤマトというらしい。ミーチャは嫌われていると言っても、名前で呼び合っているようだ。
《あのさ、化粧室にはないよね。カメラ、ないよね》
「ふざけんな?」
《ねえ、あるの、ないの。個室にだけないの》
彼は何を言っているのだろう。もちろん、私のプライバシーを案じてくれているだけで、変な意味は無い。おかしくなって、口を隠して笑ってしまった。
「お前の兄貴と一緒にするな」
「……」
いま何て?
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