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《ねえ、まりえどの辺? 迎えにいく》
その申し出にとくんと胸がなる。けれど、彼の声に続きあのルートが喜々として叫んだ。
《私もニコラを迎えに行きます!》
「切る」
手早く機械を操作し、静けさが戻る。
笑っていることも、ここにいることも責めるように、玄江はじっとり私を睨んでいた。負の感情を見ないようにする訓練は小さい頃からしてきたけれど、喜びがこんなに扱いにくいなんて。
「笑い事じゃねーよ」
「ごめんなさい」
モニターに目を通しながら玄江が立ちあがり、部屋の奥に向かって歩いた。ちょうど機材の影になっていて見えない位置で、ガサゴソと音を立てている。細身だけれど、猟犬のよう。とても背が高い。
席には戻らずこちらに歩いてくる。手に小さな袋をふたつ、持っている。
「これ、イチカに」
コンビニで見かける、梅のお菓子だ。受け取りながら見あげる。彼ほどではないけれど、それだって見あげると疲れてしまう体格のよさだ。かすかに、上質な繊維の匂いがする。仕立てのいい服。暗いキャメルの革靴、傷ひとつない。
お金持ちね。
「バレてんぞ」
苛立った様子で、すでに私の手に渡ったふくろのひとつをつまみ、封を開ける。
「いいからおつかい頼まれろ。俺にわざわざ独語使うかよ。食え」
たしかに、ここに着いた直後彼らは流暢なロシア語で会話をいていた。彼は、私がこの部屋にいると思っている。すごい。ああだめ、嬉しい。
気持ちを紛らわせたくて、梅のお菓子を食べた。学生の頃以来で、生乾きの御餅に似た食感といい、特別美味しくは無い。けれど、あっと目を瞠った。あの飴と同じ味だ。
「もう大人しくしてろよ。守ってもらうのがいちばん大事な仕事ってときもあるんだから」
そう言って、私の目をのぞきこむ。心配するような、少し切なそうな眼差しは親密すぎて気恥ずかしい。口をおさえ俯くと、玄江はふらりと席に戻っていった。私も食堂に戻る頃合ね。袋のジップを閉じて身を返す。歩き出そうというとき、声がかかった。
「見た目より大胆だな」
ふり向くと、こちらを見てはいない。でも私に向けた言葉だ。あなたも見た目より優しいわ。そう心で告げてから、私は答えた。
「当然よ」
玄江の肩がぴくりと動いたのを見て、急ぎ足で離れる。この足は、まるで自分のものではないかのように軽くなってしまった。それに、私や彼の目は光るの。しかも梅味の飴でもとに戻る。嘘みたい。
怖いはずなのに、わくわくしている。生き生きとしているのだ。おかしくなってつい口に出した。
「夢だもの。主人公は、なんだってできるわ」
そう、たとえば、彼に愛される事も。
でも高望みしずぎだし、かえってドラマ性を欠いてしまう気がして、私は少しだけ足を速めた。
唐突に思い出す、この可能性は否定できない。
私はいま、白い部屋のベッドで縛られ、人生最後の映画鑑賞をしているだけ。そして、クライマックスが迫っている。ニコラやイチカのほうがよほどヒロインらしい役回りだ。早く戻らないと。
エレベーターで上昇する間、船のことを考えた。その事故には、暴いてはならない秘密があるかもしれない。いまよりもっと、彼を傷つけるかもしれない。私は何をするべきだろう。何をするために、この役は生み出されたのか。
何のために生きるのか。
箱が止まり、左右に開いたドアの隙間から太い腕が差し込まれた。彼の大きなてのひらが私の後頭部をつつみ、反対の手はドアを押し広げている。まるで、待ちきれないとでも言うように。
「まりえ」
引き寄せられるままに、彼の胸に顔を埋めた。あたたかい。ぬくもりは熱く、抱きしめる腕の強さも確かだ。夢とは思えず、少しだけ悲しくなった。
その申し出にとくんと胸がなる。けれど、彼の声に続きあのルートが喜々として叫んだ。
《私もニコラを迎えに行きます!》
「切る」
手早く機械を操作し、静けさが戻る。
笑っていることも、ここにいることも責めるように、玄江はじっとり私を睨んでいた。負の感情を見ないようにする訓練は小さい頃からしてきたけれど、喜びがこんなに扱いにくいなんて。
「笑い事じゃねーよ」
「ごめんなさい」
モニターに目を通しながら玄江が立ちあがり、部屋の奥に向かって歩いた。ちょうど機材の影になっていて見えない位置で、ガサゴソと音を立てている。細身だけれど、猟犬のよう。とても背が高い。
席には戻らずこちらに歩いてくる。手に小さな袋をふたつ、持っている。
「これ、イチカに」
コンビニで見かける、梅のお菓子だ。受け取りながら見あげる。彼ほどではないけれど、それだって見あげると疲れてしまう体格のよさだ。かすかに、上質な繊維の匂いがする。仕立てのいい服。暗いキャメルの革靴、傷ひとつない。
お金持ちね。
「バレてんぞ」
苛立った様子で、すでに私の手に渡ったふくろのひとつをつまみ、封を開ける。
「いいからおつかい頼まれろ。俺にわざわざ独語使うかよ。食え」
たしかに、ここに着いた直後彼らは流暢なロシア語で会話をいていた。彼は、私がこの部屋にいると思っている。すごい。ああだめ、嬉しい。
気持ちを紛らわせたくて、梅のお菓子を食べた。学生の頃以来で、生乾きの御餅に似た食感といい、特別美味しくは無い。けれど、あっと目を瞠った。あの飴と同じ味だ。
「もう大人しくしてろよ。守ってもらうのがいちばん大事な仕事ってときもあるんだから」
そう言って、私の目をのぞきこむ。心配するような、少し切なそうな眼差しは親密すぎて気恥ずかしい。口をおさえ俯くと、玄江はふらりと席に戻っていった。私も食堂に戻る頃合ね。袋のジップを閉じて身を返す。歩き出そうというとき、声がかかった。
「見た目より大胆だな」
ふり向くと、こちらを見てはいない。でも私に向けた言葉だ。あなたも見た目より優しいわ。そう心で告げてから、私は答えた。
「当然よ」
玄江の肩がぴくりと動いたのを見て、急ぎ足で離れる。この足は、まるで自分のものではないかのように軽くなってしまった。それに、私や彼の目は光るの。しかも梅味の飴でもとに戻る。嘘みたい。
怖いはずなのに、わくわくしている。生き生きとしているのだ。おかしくなってつい口に出した。
「夢だもの。主人公は、なんだってできるわ」
そう、たとえば、彼に愛される事も。
でも高望みしずぎだし、かえってドラマ性を欠いてしまう気がして、私は少しだけ足を速めた。
唐突に思い出す、この可能性は否定できない。
私はいま、白い部屋のベッドで縛られ、人生最後の映画鑑賞をしているだけ。そして、クライマックスが迫っている。ニコラやイチカのほうがよほどヒロインらしい役回りだ。早く戻らないと。
エレベーターで上昇する間、船のことを考えた。その事故には、暴いてはならない秘密があるかもしれない。いまよりもっと、彼を傷つけるかもしれない。私は何をするべきだろう。何をするために、この役は生み出されたのか。
何のために生きるのか。
箱が止まり、左右に開いたドアの隙間から太い腕が差し込まれた。彼の大きなてのひらが私の後頭部をつつみ、反対の手はドアを押し広げている。まるで、待ちきれないとでも言うように。
「まりえ」
引き寄せられるままに、彼の胸に顔を埋めた。あたたかい。ぬくもりは熱く、抱きしめる腕の強さも確かだ。夢とは思えず、少しだけ悲しくなった。
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