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 窓を叩くその姿に、悟った。
 夢。これはやっぱり、私の、最期の、空想なのだ。

 秋月が椅子を蹴って立ち上がり、恋人の肩にふれ、短いけれど深いキスを交わした。悲壮感はない。ただの挨拶でもなく、どうやらエネルギー補充という感じを受けた。
 イチカとルートが続く。

「いい? 変身できないんだからね? 人間のままだからね?」
「ヤー」
「ドミトリー。何してる」

 呼ばれても、彼は私の手を握ったまま動かなかった。窓の外を見ると、その姿は消えていた。

 黝い肌、尖った顎に鋭い牙、後ろ向きに変形した腕には黒い翼があった。青い血管の走る、肉の膜、あれを翼と呼ぶなら。

 学生時代、特殊メイクのチームに参加したことがある。魅せられていた。人を超える命、命を越えた死。灰色の粘土から複雑で生々しい造形を生み出す指に憧れた。夏のホラーフェスティバルに向けての製作は、ガレージをひとつ借り切って毎日深夜まで及び、少し苦情もあがった。懐かしい。その後ショービジネスのスタイリストに道を定めたけれど、忘れられない。いまになって、妙に納得してしまう。あの頃、あのひとときだけが、死を見つめずに没頭していられたから、極彩色の絵画のように、鮮烈に、強烈に、この胸に食いついて離れないのだ。

「まりえ」

 思い出から、覚める。
 赤褐色の瞳が虚ろに潤み、口元にむりやり笑みを浮かべて、彼は私の顔をのぞきこんだ。

「君の体質では変異できない。だいじょうぶだよ」

 これが夢だとしても、彼の恐怖は本物だ。自分は変わってしまうという恐怖。そして、私を失うという恐怖。私は大胆に彼の頬を撫でた。彼は少し驚いて、瞳に生気を戻した。

「ありがとう。でも、怖くないわ」

 ひとつ息をつくと、彼は頬にあった私の手をつかみ、親指の腹にキスをした。

「早く片付けて、君とのことを考えないと」
「そうね」
「僕を嫌いにならないで」
「ならないわ」
「窓から離れてなきゃだめだよ」

 答えずに、ただ微笑んでいた。これは安請け合いできない。たとえ脇役でも、この夢は私のもの。こんなにあっさりした会話で彼と終わるなんて、あんまりだもの。まだ続きがある。たぶん窓の外に。これから起こる、出来事の中に。

 秋月に口悪くせかされ、彼は渋々と腰をあげた。その間に、私の手は何度も彼のキスを受けた。手の甲にするキスは誓い。今は違う。まるで、私の手が愛しくて仕方ない病にかかってしまったみたい。赤褐色の瞳が一度黒く塗りつぶされ、鈍い金色がじわりじわりと輝きだすのをじっと見つめていた。もし牙が生えても、彼は同じ優しさでふれてくれる。

「待ってるわ」

 彼は口の中でもごもごと何か言って、唐突に離れていった。イントネーションから、彼の国の言葉で独り言を言ったのだとわかる。大きくて逞しい、そして何より美しい彼の背中を見送った。胸がしめつけれられる。

 部屋には私とユーリアだけが残り、空調の音が存在感を増した。
 私は、あまり恐怖を感じていなかった。彼女も落ち着いている。玄江が言った、守られるのも仕事という言葉を思い出した。彼女が、ずっと守られてきたそのひとなのだろう。
 目があった。
 透きとおる翠の瞳が、とてもきれい。

「少し眠る?」

 やさしくおっとりとした日本語で気遣うように言われ、驚いた。けれど思い直す。彼女はれっきとした日本人で、秋月同様いまは事情があり西洋人のふりをしているという設定なのだから、日本語を話して当然だった。

「とてもそんな気にはなれないわ」

 そう返すと、彼女は認めるように微笑んだ。守られ、待つことが仕事という彼女から学ぶべき事があるだろうか。少し席が離れているために、会話が途切れても気まずさはない。彼女は彼の話にもこれまで登場しなかった人物で、外見と窺い知れる性格以外はなにもわからなかった。

 私は席を立った。彼女の視線がぴったりと追って来る。窓に手をつき、はるか下を眺めた。映画のよう。翼をたたんだ大きな男性が、彷徨うように徘徊している。ニコラを襲ったという、あれは“人間”。

「悲しそう」

 ふり向くと、ユーリアは無垢な表情で私を見つめていた。

「絶望が人を壊すの。正気でいた頃、どういう人だったのかしら」
「わからない。でも、頭がおかしくなっても罪は罪だから」

 口調とは違う辛辣な言葉に驚いて、私は彼女の表情を追った。すでに視線は外れ、彼女はテーブルの中心を見ていた。頬にかかる栗色の髪が鼻先に影をつくる。彼女はニコラと個人的につながりがあったのだから、許せなくて当然だった。

 何かを感じ下に目を戻す。吠えている。声が届かないけれど、慟哭にぽっかりとあけた口が虚空に向いていた。それで充分だった。胸が軋む。
 人間の姿に戻りたい、それしか考えられなくなり、子どもを襲う。やがて、私を襲うかもしれない。彼は私を守ると言ってくれた。でも、彼らを救う何かが必要だ。

 イチカに襲いかかる。ルートが阻み、秋月が銃のようなもので抗戦する。火炎放射器と拳銃を掛け合わせたようなものだと言っていたけれど、まるで魔法に見えた。かざすごとに、秋月の手は青い炎を噴いた。
 彼の姿はない。完全に包囲するために、姿を隠し位置を調整している。
 となりに彼女が並び、窓を撫でた。

「これ、割れなかった」
「頑丈なのよ」

 上の空で答える。

「私、ここで生まれたの」

 彼女の呟きに、ハッとして視線を戻した。
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