Apricot Candy ～黄金色の瞳は夜に濡れて～

106 Дмитрий

　なぜか姉は、禍々しいものを恐れるように瞳をゆらし、僕を見据えた。クラウゼヴィッツが攻撃をやめ、イチカはロザリオを握りしめたまま僕らを覗う。僕の中にあるのは、諦めだった。姉と敵対する決意を、したと思った。僕は馬鹿だ。姉はもうずっと以前から、僕を、切り離しているのに。

「ニコラは、生きてる。そうだろ、レザイキン」

　姉の腹に鼻を埋め、奴は、同じように僕を見る。
　僕だけが、醜悪な化物とでも言うように。

　クラウゼヴィッツが武器をおろしても、ムラヴィヨフは盾を続けた。だれも答えなかった。ただルートだけが、主の生存を証明する様に、期待に満ちた目を夜空に投げ続けた。
　その静寂を、破る。
　小さな金属がコンクリートで爆ぜるわずかな音を、だれひとり聞き漏らさなかった。爆弾か？　だが静かに一瞬で撒布されたのは、火ではなかった。かすかな霧が立ち込めたかと思うと、立て続けに銃声が轟いた。

　なぜだ。
　標的は、間違いなくクラウゼヴィッツひとりだ。だが、ありえない。つい最近でっちあげた若い牧師を、こんな島国まで追ってくる奴がいるはずない。８発の銃弾を避け、クラウゼヴィッツは湾曲しながら建物の方へ走らざるを得なかった。

　悲劇の中心で熱っぽく泣いていた姉も、それを守るムラヴィヨフも、まぬけなほど唖然としていた。それを言えば僕も同じだ。弾道を辿り、目を凝らした。イチカの遥か後方、私道へ続く並木の奥。イチカは目を瞠り、ふり仰いだ。

　ぬらりと、熱が舐める。逃げ場はなかった。霧はそのまま炎へと変わり、僕らの身体に絡みつき、肥大した。誰が叫んだのかわからない。僕も間違いなく声をあげた。炎に呑み込まれ、出口はない。目を開けてもただ橙色の膜があるだけだ。
　あまりの熱さが、首にかかる圧力を亡き者にしていた。僕は引きずられ、転がされた。

「服を脱げ馬鹿！」

　クラウゼヴィッツの声だ。上着を脱いだ瞬間、素晴らしい夜風が上半身を癒した。霧が発火したのだから、当然、燃えたのは濡れた服と、顔と髪だけだ。苦痛は激しかったが、裏返した服で頭をこすると火は消えた。もみくちゃにしているうちに上着の火も消え、それで腿と尻を叩いて僕の方は何とかなった。すぐ傍で、クラウゼヴィッツがイチカを抱え膝をついていた。イチカは服が黒く焦げ、髪も半分くらい短くなっている。可哀相に。

　クラウゼヴィッツがロザリオを引きちぎり、茂みの方へ投げた。確かに、ヤマトを待たなくても包囲は解ける。僕も倣った。

「少し我慢だ。よし、いい子だね」

　イチカの首から注意深くロザリオを抜きとり、クラウゼヴィッツはそれも茂みに投げる。

「ルートは？」

　イチカの声は落ち着いている。僕よりずっと質の高い訓練を受けたのかもしれない。当のルートは炎を挟んだ反対側で、壁に身体をぶつけ、こすりつけ、もんどりうって火を消していた。
　炎は、姉たちを焼いている。

「イーダ」

　駆けていた。
　この炎は消せる。ただの火だ。３人で固まってるせいで火達磨になっているが、ひとりずつ、それこそルートを真似てもんどりうてばどうにかなる。姉を引きずり出すことしか考えていなかった。レザイキンのように、まさか、死ぬつもりなのか。

「イーダ！」

　橙色の壁に腕を突き入れた瞬間、飛び退いた。熱さもあった。ただ、僕には、拳が突き出された。それは異様な皺模様の防護服に見えた。レザイキンの叫びが聞こえた。姉の悲鳴が聞こえた。戦慄が走る。そうだ。これは、怪奇現象ではなく奇襲だ。何者かが炎の中で圧倒的な攻撃をしかけている。縞模様の防護服で身を守りながら。

　誰だ。

「ドミトリー！」

　クラウゼヴィッツに呼ばれふり返った。彼はイチカを抱え、守らなければいけない。僕を通り過ぎた鋭い眼差しが、通用口を示した。炎から伸びた腕が僕を掴んだ。だが、包囲は解けた。僕は翼を広げ、跳んだ。