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長谷夫妻と共にご主人の運転する車で劇場入りした私たちは、ろくな会話もできないまま離れ離れになった。通訳の野辺を演じるレフが、野辺として、引き続きポルトノフ氏が不在のため“なんとかして下さい”と問答無用でミーチャを連れて行ってしまったのだ。仕事だから仕方がない。
長谷のご主人は、警護に回ると言ってふっと消えてしまった。当の長谷は大あくびをして、とても暢気だ。彼女の楽屋は日高の隣なので、道のりは重なる。昨夜の出来事がまるで夢のように、普通の、忙しい舞台裏の風景。
けれど、現実は常に目の前にある。
険しい表情の日高が、扉の前で腕組みをして私たちを迎えた。おはようございますと口を開きかけたところで、無言のまま指で呼ばれる。そのまますっと中へ入ってしまったので、長谷と目配せをして後を追った。
「ごめんなさい」
入ると、雲田の仰々しい土下座に迎えられた。
呆気にとられている間に、日高が扉を閉める。背後で、長谷が息を呑んだ。
「申し訳ございませんでした」
雲田が言い募る。深刻さはまるでなく、慇懃さがかえってふざけているようにもとれた。まるで、朝帰りを詫びる酒浸りの夫みたい。それに、日高が彼とふたりきりでいるこの状況も変だ。昨夜このひとは、私の目の前でミーチャの頭に刃物をつきたてようとしていた。危険すぎる。
なにより、許せない。
後頭部にツンと違和感が走る。その瞬間、複数の視線に気づいた。開け放たれた窓の外から3つ、錐のような鋭い熱と、何か異様なざわつき。それとは別に、日高が歯を食いしばり、私を見つめている。窓の外に意識を集中した。
この感じ。
3人のうち、ひとりは、ミーチャだ。
日高は決してひとりではなかった。
「俺の任務は昨夜すべて完了し、ジナイーダによる叛乱と日本支部解体の関連性は極めて薄いという総意に達しました。よって、当調査隊は対象をマルス本部へと変更し、日本支部解体任務に対する今後一切の不干渉を明言すると共に、これまでおかけしたご迷惑と精神的苦痛を深くお詫び致す所存でございます。また、シ・ユィン個人は、祖父雲居仁美の遺志により、本来であればこの身を日本支部に捧げ尽力致したきところ、このような事態である為、元協会員の生活維持を含む“解体作業”のお手伝いをさせて頂きたく、この地に残ることをお許し願う次第であります」
床に額をこすりつけ口上を述べる雲田は、滑稽であるというだけでなく、どこか胡散臭い。このひとは信用できない。私はぽかんと口をあけ呆れていたけれど、長谷は違った。彼女は、ひっと一息すってから、ふるえる声でこう洩らした。
「じゃあ、ほんとは敵じゃない?」
「敵じゃない」
ふざけないでと叫びたくなったけれど、雲田は私より早く、長谷に肯定を示した。そんな馬鹿なと思う。このひとは昨夜、彼のお姉さんを火炙りにした。ルートやイチカ、日高のお兄さんだって火傷を負った。それなのに、これからは味方ですなんて、わざとらしい芝居がかった口約束を簡単に信じられるはずがない。
でも、
「よかったぁ」
長谷が弱々しく泣き始める。同時に、日高の鋭い視線が私に訴えかけてきた。
これは、お芝居。長谷の心を守る、お芝居だ。
だから、ミーチャたちが外に隠れ、雲田を狙っている。
私は小さく頷き、雲田が頭をあげないようにと願いつつ、気持ちを鎮めた。
いよいよ長谷がしゃくりあげ、子どもっぽい悪態をつき始める。雲田はどうやら、長谷が泣き止むまでお詫びの姿勢を解く気はないらしい。私は、やるべきことをした。泣きじゃくる長谷の背中に手を添えて、優しく、涙のおさまるのを待った。
雲田はその後の言動をとっても怪しい点はひとつもなく、役者として充分すぎるほど勤めを果たした。ラジオ番組へのゲスト出演や雑誌取材、テレビ中継なども喜々としてこなし、サービス精神旺盛な主役3人はメディアでも多く取り上げられ、活躍し、鮮烈な印象を残した。ポルトノフ氏は再び姿を現すことはなかったけれど、歌劇《Agnes Code》は大盛況のうちに幕を閉じた。
長谷のご主人は、警護に回ると言ってふっと消えてしまった。当の長谷は大あくびをして、とても暢気だ。彼女の楽屋は日高の隣なので、道のりは重なる。昨夜の出来事がまるで夢のように、普通の、忙しい舞台裏の風景。
けれど、現実は常に目の前にある。
険しい表情の日高が、扉の前で腕組みをして私たちを迎えた。おはようございますと口を開きかけたところで、無言のまま指で呼ばれる。そのまますっと中へ入ってしまったので、長谷と目配せをして後を追った。
「ごめんなさい」
入ると、雲田の仰々しい土下座に迎えられた。
呆気にとられている間に、日高が扉を閉める。背後で、長谷が息を呑んだ。
「申し訳ございませんでした」
雲田が言い募る。深刻さはまるでなく、慇懃さがかえってふざけているようにもとれた。まるで、朝帰りを詫びる酒浸りの夫みたい。それに、日高が彼とふたりきりでいるこの状況も変だ。昨夜このひとは、私の目の前でミーチャの頭に刃物をつきたてようとしていた。危険すぎる。
なにより、許せない。
後頭部にツンと違和感が走る。その瞬間、複数の視線に気づいた。開け放たれた窓の外から3つ、錐のような鋭い熱と、何か異様なざわつき。それとは別に、日高が歯を食いしばり、私を見つめている。窓の外に意識を集中した。
この感じ。
3人のうち、ひとりは、ミーチャだ。
日高は決してひとりではなかった。
「俺の任務は昨夜すべて完了し、ジナイーダによる叛乱と日本支部解体の関連性は極めて薄いという総意に達しました。よって、当調査隊は対象をマルス本部へと変更し、日本支部解体任務に対する今後一切の不干渉を明言すると共に、これまでおかけしたご迷惑と精神的苦痛を深くお詫び致す所存でございます。また、シ・ユィン個人は、祖父雲居仁美の遺志により、本来であればこの身を日本支部に捧げ尽力致したきところ、このような事態である為、元協会員の生活維持を含む“解体作業”のお手伝いをさせて頂きたく、この地に残ることをお許し願う次第であります」
床に額をこすりつけ口上を述べる雲田は、滑稽であるというだけでなく、どこか胡散臭い。このひとは信用できない。私はぽかんと口をあけ呆れていたけれど、長谷は違った。彼女は、ひっと一息すってから、ふるえる声でこう洩らした。
「じゃあ、ほんとは敵じゃない?」
「敵じゃない」
ふざけないでと叫びたくなったけれど、雲田は私より早く、長谷に肯定を示した。そんな馬鹿なと思う。このひとは昨夜、彼のお姉さんを火炙りにした。ルートやイチカ、日高のお兄さんだって火傷を負った。それなのに、これからは味方ですなんて、わざとらしい芝居がかった口約束を簡単に信じられるはずがない。
でも、
「よかったぁ」
長谷が弱々しく泣き始める。同時に、日高の鋭い視線が私に訴えかけてきた。
これは、お芝居。長谷の心を守る、お芝居だ。
だから、ミーチャたちが外に隠れ、雲田を狙っている。
私は小さく頷き、雲田が頭をあげないようにと願いつつ、気持ちを鎮めた。
いよいよ長谷がしゃくりあげ、子どもっぽい悪態をつき始める。雲田はどうやら、長谷が泣き止むまでお詫びの姿勢を解く気はないらしい。私は、やるべきことをした。泣きじゃくる長谷の背中に手を添えて、優しく、涙のおさまるのを待った。
雲田はその後の言動をとっても怪しい点はひとつもなく、役者として充分すぎるほど勤めを果たした。ラジオ番組へのゲスト出演や雑誌取材、テレビ中継なども喜々としてこなし、サービス精神旺盛な主役3人はメディアでも多く取り上げられ、活躍し、鮮烈な印象を残した。ポルトノフ氏は再び姿を現すことはなかったけれど、歌劇《Agnes Code》は大盛況のうちに幕を閉じた。
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