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10 カメロン侯爵夫人の美容法
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招待客が続々と見送られていく中で、フラムスティード伯爵家の馬車だけは裏門に回され、当主ではなく従僕と門番に急かされる形で退散したらしい。
もう二度と、モイラと顔をあわせる事はない。
幼馴染としての絆は喪われた。
美しい思い出は全て、汚れて、砕け散ったのだから。
私は父がアスター伯爵の招待を受けた事もあって、滞在が若干延びている。
そしてフラナガン伯爵家もまだ滞在していた。
カメロン侯爵立ち合いのもと、私とレニーの婚約解消手続きを進めているのだ。
汚らわしいレニーの事を考えただけで虫唾が走る。
「嫌な過去は忘れるに限るよ」
向かい合って長椅子に座るアスター伯爵が、紅茶のカップを置いて微笑んだ。
「恋には恋。君は人生を楽しむべきだ」
「ありがとうございます」
「池のボートで中州に連れて行ってくださるそうよ。楽しみね、オリヴィア」
母がいちばん浮かれている。
父と母はアスター伯爵の破廉恥な噂が根も葉もない作り話だと納得したようで、今ではすっかり信頼していた。
そして私も、親切で頼もしい伯爵に、少なからず心を寄せ始めていた。
といっても、信頼と感謝という類の感情だ。
「さて。そろそろ私たちも支度にかかりましょうか」
「はぁい!」
母が、浮かれている。
そして帰り支度を整えた頃、アスター伯爵が部屋まで迎えにきてくれた。
「日帰りは難しい距離だから、夕方前に出て夜に宿で一泊し、朝のんびり出発して夜までに帰るのが習慣なんだ」
「そうですか」
「平坦な道だから、行き来する分には楽しい旅だけどね」
「はい」
話しながら、私たち一家は侯爵夫妻の部屋へと案内された。
改めてきちんとお礼を言わなければならない。
とんでもない醜聞の渦中にいながら、泣いているうちにほとんど片付けてもらってしまった。その上、伯爵とその姉上には励ましてもらった。
だから今、笑顔になれる。
「さて、しばらくのお別れですよっと」
アスター伯爵が扉に手をかけ、私はドレスの襞を直し息を整えた。
背後で父も咳払いをし、母も私と同じ動作をしているのが音でわかった。
扉が開いた。
「エェーーーーオエオエオエオエオ」
「……」
カメロン侯爵夫人に、言葉を失う。
「やあ、姉上。と義兄上」
「やあ、シャロン」
アスター伯爵とカメロン侯爵は普通。
「エーーーオーーー」
カメロン侯爵夫人は両手で胸の上辺りを押さえ、ぐっと仰向いて天井に舌を突き出して首を晒して……うまく説明できないけれどエオエオ言っている。
「まあ」
母は楽しそうだ。
振り向くと、父は口を覆いあらぬほうを向いていた。
「ほら、ヴァレンティナ。デラクール伯爵家御一行が挨拶にみえたよ」
「んんっ」
夫には従順なカメロン侯爵夫人。
咳払いしてから、笑顔をこちらに向けた。
「ごめんなさいね。今日はしかめっ面ばかりしていたものだから」
「……」
だから、エオエオ……
「顔の、筋肉を、こう、活発に動かしておく事が、若しゃの秘訣なんでしゅのよ」
「まあっ♪」
唐突に百面相を始めたカメロン侯爵夫人を、母が真似る。
「笑ったら笑ったで頬に皴ができますからね。動かさないと」
「ハハハハハッ!」
カメロン侯爵しか言えない軽口に、アスター伯爵が爆笑している。
母をやめさせたいけれど、カメロン侯爵夫人が寄ってきて指南を始めてしまったので、そうもいかない。
「ああっ、なんだか顔がポカポカしてきましたわ!」
「そうでしょう? 朝夜と欠かさずなさる事をおすすめするわ。鏡を見ると違いがよくわかりますの」
「そして笑える」
「ハハハハハッ!」
母とカメロン侯爵夫人とカメロン侯爵とアスター伯爵は、楽しそう。
父は爆笑をこらえ、私は戸惑っている。
「ああ、ほら。姉上。オリヴィアが困っています」
「いいのよ、オリヴィアにはまだ必要ないんだから」
「お美しいわけですわ! カメロン侯爵夫人は美容の達人ですのね!」
「このほかに日中は4時間の器械体操をしておりますの」
「4時間!? 大変。真似できるかしら」
「まずは10秒から初めてみて。それが1分、5分、そして10分と延びていき、20分もできるようになれば勢いがついてもっともっとと延ばしていけますわ」
カメロン侯爵夫人は励ますのがうまい。
母はすっかり、目を輝かせて拳を握りしめている。
「おや、意気投合しましたな」
「雲梯を買わなくては」
カメロン侯爵に父が大真面目に答えた。
「さしあげますよ。いくつか使わずにしまい込んでいるのがあります」
カメロン侯爵は優しい方だ。
「だっていくつも取り寄せて使い心地を確かめなきゃ、お気に入りは見つけられないじゃあありませんこと?」
「まあっ、こだわっていらっしゃるのね! 素敵!!」
母はあちら側だった。
「でもいきなり雲梯は難しいのでは?」
「まずは目標にしてみて。日頃から簡単にできるのは階段ですの。暇を見つけては階段を上ったり下りたり上ったり下りたり。散歩より足腰に効きますわ」
「それならできそうですわ!」
「疲れはゆっくりお風呂で癒してくださいまし。ミルク風呂で」
「まあっ」
挨拶をよそに打ち解ける母とカメロン侯爵夫人を眺めていたら、ふいにアスター伯爵が優しい眼差しで私を捉えた。
「……」
励ましでもなく、言葉もなく。
ただ微笑んでいる。
それがなぜか、とても、嬉しかった。
もう二度と、モイラと顔をあわせる事はない。
幼馴染としての絆は喪われた。
美しい思い出は全て、汚れて、砕け散ったのだから。
私は父がアスター伯爵の招待を受けた事もあって、滞在が若干延びている。
そしてフラナガン伯爵家もまだ滞在していた。
カメロン侯爵立ち合いのもと、私とレニーの婚約解消手続きを進めているのだ。
汚らわしいレニーの事を考えただけで虫唾が走る。
「嫌な過去は忘れるに限るよ」
向かい合って長椅子に座るアスター伯爵が、紅茶のカップを置いて微笑んだ。
「恋には恋。君は人生を楽しむべきだ」
「ありがとうございます」
「池のボートで中州に連れて行ってくださるそうよ。楽しみね、オリヴィア」
母がいちばん浮かれている。
父と母はアスター伯爵の破廉恥な噂が根も葉もない作り話だと納得したようで、今ではすっかり信頼していた。
そして私も、親切で頼もしい伯爵に、少なからず心を寄せ始めていた。
といっても、信頼と感謝という類の感情だ。
「さて。そろそろ私たちも支度にかかりましょうか」
「はぁい!」
母が、浮かれている。
そして帰り支度を整えた頃、アスター伯爵が部屋まで迎えにきてくれた。
「日帰りは難しい距離だから、夕方前に出て夜に宿で一泊し、朝のんびり出発して夜までに帰るのが習慣なんだ」
「そうですか」
「平坦な道だから、行き来する分には楽しい旅だけどね」
「はい」
話しながら、私たち一家は侯爵夫妻の部屋へと案内された。
改めてきちんとお礼を言わなければならない。
とんでもない醜聞の渦中にいながら、泣いているうちにほとんど片付けてもらってしまった。その上、伯爵とその姉上には励ましてもらった。
だから今、笑顔になれる。
「さて、しばらくのお別れですよっと」
アスター伯爵が扉に手をかけ、私はドレスの襞を直し息を整えた。
背後で父も咳払いをし、母も私と同じ動作をしているのが音でわかった。
扉が開いた。
「エェーーーーオエオエオエオエオ」
「……」
カメロン侯爵夫人に、言葉を失う。
「やあ、姉上。と義兄上」
「やあ、シャロン」
アスター伯爵とカメロン侯爵は普通。
「エーーーオーーー」
カメロン侯爵夫人は両手で胸の上辺りを押さえ、ぐっと仰向いて天井に舌を突き出して首を晒して……うまく説明できないけれどエオエオ言っている。
「まあ」
母は楽しそうだ。
振り向くと、父は口を覆いあらぬほうを向いていた。
「ほら、ヴァレンティナ。デラクール伯爵家御一行が挨拶にみえたよ」
「んんっ」
夫には従順なカメロン侯爵夫人。
咳払いしてから、笑顔をこちらに向けた。
「ごめんなさいね。今日はしかめっ面ばかりしていたものだから」
「……」
だから、エオエオ……
「顔の、筋肉を、こう、活発に動かしておく事が、若しゃの秘訣なんでしゅのよ」
「まあっ♪」
唐突に百面相を始めたカメロン侯爵夫人を、母が真似る。
「笑ったら笑ったで頬に皴ができますからね。動かさないと」
「ハハハハハッ!」
カメロン侯爵しか言えない軽口に、アスター伯爵が爆笑している。
母をやめさせたいけれど、カメロン侯爵夫人が寄ってきて指南を始めてしまったので、そうもいかない。
「ああっ、なんだか顔がポカポカしてきましたわ!」
「そうでしょう? 朝夜と欠かさずなさる事をおすすめするわ。鏡を見ると違いがよくわかりますの」
「そして笑える」
「ハハハハハッ!」
母とカメロン侯爵夫人とカメロン侯爵とアスター伯爵は、楽しそう。
父は爆笑をこらえ、私は戸惑っている。
「ああ、ほら。姉上。オリヴィアが困っています」
「いいのよ、オリヴィアにはまだ必要ないんだから」
「お美しいわけですわ! カメロン侯爵夫人は美容の達人ですのね!」
「このほかに日中は4時間の器械体操をしておりますの」
「4時間!? 大変。真似できるかしら」
「まずは10秒から初めてみて。それが1分、5分、そして10分と延びていき、20分もできるようになれば勢いがついてもっともっとと延ばしていけますわ」
カメロン侯爵夫人は励ますのがうまい。
母はすっかり、目を輝かせて拳を握りしめている。
「おや、意気投合しましたな」
「雲梯を買わなくては」
カメロン侯爵に父が大真面目に答えた。
「さしあげますよ。いくつか使わずにしまい込んでいるのがあります」
カメロン侯爵は優しい方だ。
「だっていくつも取り寄せて使い心地を確かめなきゃ、お気に入りは見つけられないじゃあありませんこと?」
「まあっ、こだわっていらっしゃるのね! 素敵!!」
母はあちら側だった。
「でもいきなり雲梯は難しいのでは?」
「まずは目標にしてみて。日頃から簡単にできるのは階段ですの。暇を見つけては階段を上ったり下りたり上ったり下りたり。散歩より足腰に効きますわ」
「それならできそうですわ!」
「疲れはゆっくりお風呂で癒してくださいまし。ミルク風呂で」
「まあっ」
挨拶をよそに打ち解ける母とカメロン侯爵夫人を眺めていたら、ふいにアスター伯爵が優しい眼差しで私を捉えた。
「……」
励ましでもなく、言葉もなく。
ただ微笑んでいる。
それがなぜか、とても、嬉しかった。
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