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夏休みに男子生徒の補習授業

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じーじー、じー。みんみんみん。気の早い蝉が慌ただしく合唱の声を響かせる。
 吹き抜ける風が、窓際のレースカーテンを揺らす。エアコンのない教室。うだるような夏の日の、午後のこと。時限終わりのチャイムと、屋外に作られたプールから戻る、どこかのクラスのにぎやかな笑い声。

「──的場くん、聞いてる?」
「……え」

 不意にすぐ近くから、鈴の様な声が落とされた。はっと意識が現実に戻される。間近には整った女性の顔があって、わ、っと咄嗟に体を引いた。ギシリ、と椅子が音を立てる。

「え、じゃないわよ。先生の話聞いてた?」
「あ……すみません……」

 そうだ、今はまだ授業終わりの挨拶前だった。まったく、と呆れたように先生が息を吐く。

「今返した再テストも、赤点だったから。夏休みは特別補習よ」
「えっ!? 夏休みに……ですか?」
「そうよ、再テストでこの点数だもの。今のうちにしっかりしておかないと、卒業できないわよ? ……あぁ、あと聞いていなかったようだからもう一度言うけど」

 再テストも赤点だったのは、的場君だけだから。
 先生はとんでもない爆弾を落として、サッと背を向ける。それじゃあ号令、とやっぱり綺麗な声を合図に、一番前の席の日直が「起立」と告げた。
 でも、そんな声もどこか遠くに聞こえてしまうくらい。俺の思考は綺麗に停止していた。



「いいな~的場~!」
「……何がだよ」
「補習! 楠ちゃんとマンツーマンじゃん!?」

 やっぱりそういう話になるよな。
 授業が終わった途端に俺の席を取り囲む男子達の反応に、はぁっとため息を吐き出す。
楠ちゃん、こと楠木先生。この学校の男子生徒の憧れの的、英語教師。とにかく人目を惹く美人な人で、スタイル抜群。何よりも、生徒達とも友達のように接してくれる距離感。そんな先生と二人きりでの補習なんて、反応するクラスメイトは多いだろう。そりゃあもう、当然のごとく予想できる話。

「いいなぁ……美人な先生と二人での特別補習」
「漫画みたいな話だよな~? これをきっかけに恋が始まったりして」
「バカいうなよ。相手は教師だぞ」

 教師が生徒を相手にするわけないだろ。
 とても冷静に伝えながらも、その言葉はひんやりと自分自身の胸の中、柔らかな部分を刺していく。……そうだよ。教師と生徒の恋愛なんて、現実で成立するわけないじゃん。

「え~? 分かんねぇよ。楠ちゃんくらい可愛ければさ、間違いの一つや二つ……」
「じゃあお前が代わりに補習受けてくれよ」
「いやぁ。それは勘弁。夏休みまで学校来たくねぇよ」

 あっさりと見捨てる、友達甲斐のないやつら。
あははは、とにぎやかな笑い声と共に夏が深まる気配が落とされるのだった。


 ミーハー男子達の注目を一身に浴びる先生。楠木先生がウチの学校に来たのは、今年の初め。春が始まったばかりの季節だった。

『ここの桜、まだ散っていないのね』

 始業式の日、校門の大木を見上げた笑顔をはっきりと覚えている。偶然鉢合わせて、見慣れない人だと少しだけ不審に思って。けれど宙を舞う桜の花びらの中、彼女の姿はとても絵になっていた。
 その直後の始業式で、その女性が新任教師で、なおかつウチのクラスの英語も受け持つことが発覚したんだけど。
 あの日の衝撃は、きっと、どれだけ言葉にしたってその10分の1も伝わらないだろう。だからこそ、誰にも話したことはなかった。


 カツカツ、とチョークが黒板の上に白い文字を躍らせていく。規則正しい音と、同じくらい規則正しい整った字が次々に敷き詰められては消えていく。
 じんわり。夏も盛り、いやな汗がシャツを湿らせる。
視線の先、教卓では黒く長い髪を一つに結った先生がいて、こちらに向けられた白いうなじを、しっとりとした汗がつたっていく。

「どう? 解けそう?」

 振り返る先生の視線が、まっすぐにこちらを射抜いていく。

「……この、最後の問題だけが……全然」
「どこかしら?」

 ひょいとノートを覗き込む先生の動きに合わせて、髪の毛が揺れる。毛先がすっと肌を撫でていった。

「ああ、ここはね、」

 至近距離にある先生の顔。たくさんのまつ毛がパチパチとその大きな瞳を覆う。
 この文法で、この単語の意味が……。先生の声が、右から左へと流れていく。渡されたプリントに、流されるままに英単語を書き込んでいく。
 それが、俺の夏休みの日常。
 きゅっ、きゅっ。赤いペンが答案の上をすべる。いくつもの円が描かれていく。二人だけの教室は普段と比べてとても静かで、通い慣れた教室なのにどこか異質な空間だ。教室の外からは部活動の生徒が元気に活動をしている声。

「うん、まぁここまで解けるようになれば補習したかいはあったね。上出来」

 はい、と返された補習プリント。
 さすがに100点満点とまではいかないけれど、平均程度には解けている。さすがに一対一で監視をされていればさぼるわけにもいかないから、今までよりは英文法も理解できた、と思う。おそらく、たぶん、きっと。

「はい、ご褒美」

 そんな非日常が日常となったある日、そういって先生は見慣れたアイスを差し出してきた。

「……何ですか、これ」
「何って、アイスよ?」
「いやそうじゃなくて……」
「夏季補習頑張ってるから、特別ね」

 ころころと鈴が鳴る。そんな笑い声。大学卒業をして教師になって数年目って言っていたけど、笑うといつも以上に幼く見える。
 二つあるアイスを1本だけ俺に差し出した先生は、もう1本を自分の口元に運んだ。
 しゃり、しゃり、しゃり。
 真っ赤なルージュを引いた赤い唇の向こう、咀嚼されていくアイスクリーム。つやつやと唇が光輝く。無理矢理に視線を外して、俺も同じように黙ってそれを口にするのだった。

じーじーじー、みんみんみん。
たった2週間の短い命を謳歌する蝉たち──その鳴き声に被せて、「そういえば」と、不意に先生が口を開いた。
美しい声に引っ張られるようにして、俺は机に落としていた視線を上げる。

「的場君は彼女、いないの?」
「……いないです、けど」

 俺の返事に、へぇと、先生の大きな瞳がさらに少しだけ大きくなる

「そうなんだ。意外。興味ないの?」
「別に……」

 興味がないわけ、ではない。ただ「好きだ」とか「付き合いたい」とか、そういう類の感情を抱ける相手が今、クラスメイトにはいないだけで。
 例えば嬉しい時とか悲しい時。日常の何気ない瞬間、真っ先に思い出すことが恋愛感情なのだとすれば。自分にとって、その相手は。
先生からの視線が何だかこそばゆくて、どうにも座りが悪い。

「……それじゃあ、先生がなってあげようか?」
「はっ? え、いや、いいです」

 意味を理解するよりも先に口をついた食い気味の返事。クスクスと先生が笑う。

「冗談よ。教師と生徒の関係だもの」

 さぁ、お勉強を続けましょうか。食べたアイスのゴミを袋にまとめて。先生が再度、黒板に向かい合う。クルリと、彼女のくるぶしまでの長いスカートが翻った。海のような青色は、先生によく似合っていた。

 あぁ、もったいないことをしたのかもしれないな。先生の後ろ姿を眺めながら、そんなことを思う。だからと言って、何と返事をするのが正しかったのかは分からないけれど。
 いっきに上がった気がする体温は夏の暑さのせいか、それとも別の何かか。

心臓の音は、ドキドキといつまでも鳴り響いていた。
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