『聖クロノア学院恋愛譚 』記憶を失ったベータと王族アルファ、封印された過去が愛を試すまで

るみ乃。

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43 静寂の奥、重なる名前

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 静けさが、耳にしみる。

 ここに来てから、何日が過ぎただろう。正確な時間感覚は薄れてしまったけれど、それでも日差しの角度や風の匂いが、季節が少しずつ進んでいることを教えてくれる。

 この施設は張り詰めた空気もない。ただ、白い壁と静かな時間。守られている、と言えば聞こえはいいけれど、正直に言えば、それは――逃げ場でもあった。ここで俺は、静かに、自分と向き合っている。いや、向き合おうとしているのかもしれない。

 俺は、何から逃げたのだろう。

 記憶か。過去か。誰かの期待か。それとも――レオンからか。

 あの日、彼に触れられた指先の熱も、囁かれた声の震えも、今でも胸の奥に残っている。

 無数の書きかけの手紙がひきだしにうる。封はしていない。する勇気が、まだない。

 けれどそれでも――。

 俺は、もう一度……あいつに会いたい…

 その問いを繰り返しているうちに、答えは徐々に形になりつつあった。

 そんな折、扉がノックされた。

「ユリス、入ってもいいかい?」

 控えめにノックされた扉の向こうから、聞き慣れたマルディ医師の声が届く。

「……どうぞ」

 返事をすると、ゆっくりと扉が開いて、白衣をまとった彼が姿を現した。いつもより少しだけ真剣な、けれど優しい目をしていた。

「えっ!マルディ先生…」

 彼はいつもより少しだけ真剣な、けれど優しい目をしていた。

「長い間、行方をくらましていて済まなかった。その間いろいろとあったようだな……調子はどうだい?」

 俺は小さく頷く。

「体は、問題ありません。……ただ」

 心のほうはどうかと聞かれる前に、言葉が続かなくなった。

 マルディ医師は俺の前の椅子に腰を下ろすと、少しだけ沈黙してから静かに言った。

「君の過去のこと……だいぶ思い出してきているようだね。あの夜のこと、フランのこと。ジュリオのことも…」

 俺は息を詰めた。

 この人は、知っていたのだ。ずっと前から。俺が"ユリス"として育つ前の、"フラン"だった頃の記憶。施設で過ごした日々。研究対象として扱われていた現実――。

「君を保護してから、あえて話すのを控えていた。記憶が戻っていないうちに、言葉だけで過去を押しつけることはしたくなかった。けれど今は……」

「全部、聞かせてください。俺の……俺が知らなきゃいけないことを」

 声が震えていた。けれど、逃げずに言えた。

 マルディ医師は一つ頷くと、ゆっくりと話し始めた。

「君の本当の名前は“フラン”。君は、十年前――七歳の時、あの施設にいた。希少なオメガとして、遺伝的に特異な存在だった。政府の保護下にあったが、その実態は、研究という名のもとに……閉じ込められていた」

 俺は静かに、頷いた。そこまでは、断片的に思い出していた。

「君には、仲の良い友人がいたね。ジュリオ。彼もまた希少なオメガで、年は上だったけれど、君を実の弟のように可愛がってくれていた。だが彼は……あの夜、アレクに無理やり、番わされてしまった」

「俺…見たんです。あの夜……」

「そうだろうと思っていた。君の記憶がそこで止まっているのは、あまりにも強いトラウマだったからだ。番うという行為が、君の中で『恐怖』と結びついてしまった」

 マルディ医師の言葉が胸に刺さる。

 以前、レオンと結ばれそうになったとき、身体が拒絶した理由。心は彼を求めていたのに、過去の恐怖が無意識に、それを否定した。

「……ジュリオは、その後、どうなったんですか?」

「彼は、火災の混乱の中で姿を消した。現在彼がどうしているかは……まだ話せない」

 言葉を濁したマルディ医師の声に、苦しさが混じっていた。

「君は、あの夜、私に連れられて施設を出た。火災は、意図的に仕掛けたものだった。君たちを解放するために、最後の手段として……だ」

「……そうだったんですね」

「それから君は、新しい身分と名前を得て、僕が開発中のオメガ性を制御し、ベータ性に近くなる薬を服用し、バースも“ベータ”として再登録された。記憶を失っていたのもあって、“ユリス”として自由を手に生き直すには、ちょうどいい機会だったのかもしれない」

 ユリス・フィオーレ。それが今の俺の名前。

 だけど、本当は――フランと言うなの男の子だった。希少オメガ。研究対象。実験体。

 そして……レオンの過去と、深く繋がっていた存在。

「君が最近、毎日手紙を書いてる聞いたよ。……レオンくんに宛てたものだね?」

 俺はうなずく。あの夜、どうしても自分の気持ちを言葉にしたくて書いた手紙。でも、まだ封をしていなかった。

「俺がレオンに惹かれていたのは、間違いないです。でも……俺が惹かれたのは、“彼のフェロモン”じゃなくて、彼のまっすぐな瞳で、優しさで……でも、それを信じる勇気が持てなかった」

「恐れは当然だよ。君は傷ついた。でも、君は今、それを乗り越えようとしている。それは、君の中に確かに“ユリス”としての時間があったからだ。そして、“フラン”だった君を、君自身が見捨てずにいたからだよ」

 その言葉に、知らず涙が滲んでいた。

「……俺、逃げたくないです。自分からも、レオンからも、過去からも。たとえ傷ついても、向き合いたい」

「その言葉が聞けて、嬉しいよ」

 マルディ医師が微笑む。

 俺は枕元に置いていた手紙を手に取り、そっと封を閉じた。

 まだ怖い。震えはある。けれど、今なら――届けられる気がする。

 どんな形であれ、今の俺が本当に望む答えを、レオンと向き合って見つけていきたい。

 過去は変えられない。でも、未来はまだ選べる。

 俺は、扉の向こうの光を見つめた。

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