51 / 67
50 番の記憶
しおりを挟む
地下の旧棟はいつ来ても寒い。
いや、寒いのは温度のせいじゃない。誰も近寄らなくなった記憶の塊が、壁の隙間からじわじわ染み出してくる。
「……ここに、あったはず」
俺は資料室の一番奥、立ち入り制限を受けていた棚の暗証を解除して、分厚いデータファイルを一冊引き抜く。
本来なら、もう閲覧権限はないはずだった。けれど……何かに呼ばれるようにして、俺はここにいる。
『被験体記録:フラン(Ω)』
冒頭に、過去の俺の名がある。
ページをめくるたびに、静かに吐き気がこみ上げた。
脳波図。脊髄採取記録。精神適合曲線。
それは、医学でも研究でもなかった。——支配の記録だ。
「番制度の安定は、記憶誘導による刷り込みが最も効果的である」
「被験体N-02は人工的記憶埋め込み後、対象(A-04)に強い恋慕反応を示す」
A-04……レオンのコードだ。
じゃあ、俺がレオンを「番」だと思ってるのも——全部、操作された“反応”ってことなのか?
視界がにじんだ。指が震えた。
これは夢じゃない。全部、事実だ。
あのときジュリオが言った言葉が、突然よみがえる。
『ユリス。君が何を選ぶか、いつか自由に選べる日が来るように』
……自由。
それは、ずっと手の届かない幻想だった。
気づかないうちに俺は「番」制度に飼われていた。
恋すら、感情すら、与えられた檻の中でしか感じたことがなかったのかもしれない。
「じゃあ……俺の全部は、嘘だったってことか……?」
声が出た瞬間、急に涙が落ちた。理由もなく泣けてしまうことがあるのは、
脳のどこかが限界を超えた証だ
「じゃあ今の俺も、ただの脳のバグか?」
それでも、レオンの声や手の温もりは、嘘じゃなかったような気がして——。
「何をしてる」
背後から、静かな声がした。振り返らなくても、わかった。
「……レオン」
「勝手に入ったら問題になるぞ。そこ、制限区域だ」
「知ってる。だけど、知りたかったんだ」
声が少し震えたのが、自分でもわかった。
レオンは無言で俺の横に立ち、開かれた資料ファイルに目を落とした。
しばらくの間、ただ紙とホログラムの間で、沈黙が流れる。
「読んだのか」
「読んだよ。全部」
「……で、どう思った」
質問の意図がわからなかった。何を試されてるんだろう。
でも俺は正直に答えた。
「俺の気持ちが、刷り込まれたものかもしれないって……そう思ったら、
レオンのことも、自分の感情も信じられなくなった」
吐き捨てるような言葉じゃない。ただ、正直な告白だった。
怖かった。心の底から。
でもレオンは、驚かなかった。
「そうか。でも、それがどうした」
「……は?」
「俺は、お前が怒ってるのも、泣いてるのも、笑ってるのも、ずっと見てきた。
刷り込みかもしれない? なら、そんなもん、今この瞬間全部壊せばいい」
そう言って、レオンは俺の肩を引き寄せる。
俺の体が少し震えるのを、全部受け止めるみたいに。
「何に作られたって、お前は、お前だろ。俺は、そんなお前が好きだ。
それだけで、足りないのか?」
言葉の重みが、胸の奥に突き刺さった。
足りないどころか、もうそれ以上、何を求められるというんだ。
でもまだ、俺の中の疑問は消えない。
「……俺が、ほんとうに『自由に』選べるとしたら……お前を選ぶと思う?」
レオンは少し間をおいてから、静かに言った。
「選べばいい。選ばなければ、それまでだ。
でも、お前が逃げないなら、俺は何度でも言う。俺は、お前が欲しい」
俺は目を伏せた。心臓が、痛いくらいに脈打っていた。
こんなふうに、まっすぐに言われたのは、たぶん——初めてだった。
その夜、部屋に戻ってからも、資料の内容が頭を離れなかった。
けれど、最後のページでひとつだけ、奇妙な名前を見つけた。
『Project ARK:A-01 適合体アルク・イグナートゥス』
アルク……? あの、レオンの兄……?
資料は途中で打ち切られていた。隠蔽されている。だが、確かに制度の根幹に“彼”が関わっている。
俺はまたひとつ、深く潜る扉を開いてしまった。
でも、もう戻れない。
刷り込みでも、制度でも、何でもいい。俺は、自分の意思で歩きたい。
それがレオンを選ぶ道なら。
それが、自由の始まりなら。
——俺は、俺を選ぶ。
いや、寒いのは温度のせいじゃない。誰も近寄らなくなった記憶の塊が、壁の隙間からじわじわ染み出してくる。
「……ここに、あったはず」
俺は資料室の一番奥、立ち入り制限を受けていた棚の暗証を解除して、分厚いデータファイルを一冊引き抜く。
本来なら、もう閲覧権限はないはずだった。けれど……何かに呼ばれるようにして、俺はここにいる。
『被験体記録:フラン(Ω)』
冒頭に、過去の俺の名がある。
ページをめくるたびに、静かに吐き気がこみ上げた。
脳波図。脊髄採取記録。精神適合曲線。
それは、医学でも研究でもなかった。——支配の記録だ。
「番制度の安定は、記憶誘導による刷り込みが最も効果的である」
「被験体N-02は人工的記憶埋め込み後、対象(A-04)に強い恋慕反応を示す」
A-04……レオンのコードだ。
じゃあ、俺がレオンを「番」だと思ってるのも——全部、操作された“反応”ってことなのか?
視界がにじんだ。指が震えた。
これは夢じゃない。全部、事実だ。
あのときジュリオが言った言葉が、突然よみがえる。
『ユリス。君が何を選ぶか、いつか自由に選べる日が来るように』
……自由。
それは、ずっと手の届かない幻想だった。
気づかないうちに俺は「番」制度に飼われていた。
恋すら、感情すら、与えられた檻の中でしか感じたことがなかったのかもしれない。
「じゃあ……俺の全部は、嘘だったってことか……?」
声が出た瞬間、急に涙が落ちた。理由もなく泣けてしまうことがあるのは、
脳のどこかが限界を超えた証だ
「じゃあ今の俺も、ただの脳のバグか?」
それでも、レオンの声や手の温もりは、嘘じゃなかったような気がして——。
「何をしてる」
背後から、静かな声がした。振り返らなくても、わかった。
「……レオン」
「勝手に入ったら問題になるぞ。そこ、制限区域だ」
「知ってる。だけど、知りたかったんだ」
声が少し震えたのが、自分でもわかった。
レオンは無言で俺の横に立ち、開かれた資料ファイルに目を落とした。
しばらくの間、ただ紙とホログラムの間で、沈黙が流れる。
「読んだのか」
「読んだよ。全部」
「……で、どう思った」
質問の意図がわからなかった。何を試されてるんだろう。
でも俺は正直に答えた。
「俺の気持ちが、刷り込まれたものかもしれないって……そう思ったら、
レオンのことも、自分の感情も信じられなくなった」
吐き捨てるような言葉じゃない。ただ、正直な告白だった。
怖かった。心の底から。
でもレオンは、驚かなかった。
「そうか。でも、それがどうした」
「……は?」
「俺は、お前が怒ってるのも、泣いてるのも、笑ってるのも、ずっと見てきた。
刷り込みかもしれない? なら、そんなもん、今この瞬間全部壊せばいい」
そう言って、レオンは俺の肩を引き寄せる。
俺の体が少し震えるのを、全部受け止めるみたいに。
「何に作られたって、お前は、お前だろ。俺は、そんなお前が好きだ。
それだけで、足りないのか?」
言葉の重みが、胸の奥に突き刺さった。
足りないどころか、もうそれ以上、何を求められるというんだ。
でもまだ、俺の中の疑問は消えない。
「……俺が、ほんとうに『自由に』選べるとしたら……お前を選ぶと思う?」
レオンは少し間をおいてから、静かに言った。
「選べばいい。選ばなければ、それまでだ。
でも、お前が逃げないなら、俺は何度でも言う。俺は、お前が欲しい」
俺は目を伏せた。心臓が、痛いくらいに脈打っていた。
こんなふうに、まっすぐに言われたのは、たぶん——初めてだった。
その夜、部屋に戻ってからも、資料の内容が頭を離れなかった。
けれど、最後のページでひとつだけ、奇妙な名前を見つけた。
『Project ARK:A-01 適合体アルク・イグナートゥス』
アルク……? あの、レオンの兄……?
資料は途中で打ち切られていた。隠蔽されている。だが、確かに制度の根幹に“彼”が関わっている。
俺はまたひとつ、深く潜る扉を開いてしまった。
でも、もう戻れない。
刷り込みでも、制度でも、何でもいい。俺は、自分の意思で歩きたい。
それがレオンを選ぶ道なら。
それが、自由の始まりなら。
——俺は、俺を選ぶ。
30
あなたにおすすめの小説
Endless Summer Night ~終わらない夏~
樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった”
長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
【完結】期限付きの恋人契約〜あと一年で終わるはずだったのに〜
なの
BL
「俺と恋人になってくれ。期限は一年」
男子校に通う高校二年の白石悠真は、地味で真面目なクラスメイト。
ある日、学年一の人気者・神谷蓮に、いきなりそんな宣言をされる。
冗談だと思っていたのに、毎日放課後を一緒に過ごし、弁当を交換し、祭りにも行くうちに――蓮は悠真の中で、ただのクラスメイトじゃなくなっていた。
しかし、期限の日が近づく頃、蓮の笑顔の裏に隠された秘密が明らかになる。
「俺、後悔しないようにしてんだ」
その言葉の意味を知ったとき、悠真は――。
笑い合った日々も、すれ違った夜も、全部まとめて好きだ。
一年だけのはずだった契約は、運命を変える恋になる。
青春BL小説カップにエントリーしてます。応援よろしくお願いします。
本文は完結済みですが、番外編も投稿しますので、よければお読みください。
オメガの僕が、最後に恋をした騎士は冷酷すぎる
虹湖🌈
BL
死にたかった僕を、生かしたのは――あなたの声だった。
滅びかけた未来。
最後のオメガとして、僕=アキは研究施設に閉じ込められていた。
「資源」「道具」――そんな呼び方しかされず、生きる意味なんてないと思っていた。
けれど。
血にまみれたアルファ騎士・レオンが、僕の名前を呼んだ瞬間――世界が変わった。
冷酷すぎる彼に守られて、逃げて、傷ついて。
それでも、彼と一緒なら「生きたい」と思える。
終末世界で芽生える、究極のバディ愛×オメガバース。
命を懸けた恋が、絶望の世界に希望を灯す。
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
塩対応だった旦那様が記憶喪失になった途端溺愛してくるのですが
詩河とんぼ
BL
貧乏伯爵家の子息・ノアは家を救うことを条件に、援助をしてくれるレオンハート公爵家の当主・スターチスに嫁ぐこととなる。
塩対応で愛人がいるという噂のスターチスやノアを嫌う義母の前夫人を見て、ほとんどの使用人たちはノアに嫌がらせをしていた。
ある時、スターチスが階段から誰かに押されて落ち、スターチスは記憶を失ってしまう。するとーー
僕のために、忘れていて
ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
この手に抱くぬくもりは
R
BL
幼い頃から孤独を強いられてきたルシアン。
子どもたちの笑顔、温かな手、そして寄り添う背中――
彼にとって、初めての居場所だった。
過去の痛みを抱えながらも、彼は幸せを願い、小さな一歩を踏み出していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる