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50 番の記憶
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地下の旧棟はいつ来ても寒い。
いや、寒いのは温度のせいじゃない。誰も近寄らなくなった記憶の塊が、壁の隙間からじわじわ染み出してくる。
「……ここに、あったはず」
俺は資料室の一番奥、立ち入り制限を受けていた棚の暗証を解除して、分厚いデータファイルを一冊引き抜く。
本来なら、もう閲覧権限はないはずだった。けれど……何かに呼ばれるようにして、俺はここにいる。
『被験体記録:フラン(Ω)』
冒頭に、過去の俺の名がある。
ページをめくるたびに、静かに吐き気がこみ上げた。
脳波図。脊髄採取記録。精神適合曲線。
それは、医学でも研究でもなかった。——支配の記録だ。
「番制度の安定は、記憶誘導による刷り込みが最も効果的である」
「被験体N-02は人工的記憶埋め込み後、対象(A-04)に強い恋慕反応を示す」
A-04……レオンのコードだ。
じゃあ、俺がレオンを「番」だと思ってるのも——全部、操作された“反応”ってことなのか?
視界がにじんだ。指が震えた。
これは夢じゃない。全部、事実だ。
あのときジュリオが言った言葉が、突然よみがえる。
『ユリス。君が何を選ぶか、いつか自由に選べる日が来るように』
……自由。
それは、ずっと手の届かない幻想だった。
気づかないうちに俺は「番」制度に飼われていた。
恋すら、感情すら、与えられた檻の中でしか感じたことがなかったのかもしれない。
「じゃあ……俺の全部は、嘘だったってことか……?」
声が出た瞬間、急に涙が落ちた。理由もなく泣けてしまうことがあるのは、
脳のどこかが限界を超えた証だ
「じゃあ今の俺も、ただの脳のバグか?」
それでも、レオンの声や手の温もりは、嘘じゃなかったような気がして——。
「何をしてる」
背後から、静かな声がした。振り返らなくても、わかった。
「……レオン」
「勝手に入ったら問題になるぞ。そこ、制限区域だ」
「知ってる。だけど、知りたかったんだ」
声が少し震えたのが、自分でもわかった。
レオンは無言で俺の横に立ち、開かれた資料ファイルに目を落とした。
しばらくの間、ただ紙とホログラムの間で、沈黙が流れる。
「読んだのか」
「読んだよ。全部」
「……で、どう思った」
質問の意図がわからなかった。何を試されてるんだろう。
でも俺は正直に答えた。
「俺の気持ちが、刷り込まれたものかもしれないって……そう思ったら、
レオンのことも、自分の感情も信じられなくなった」
吐き捨てるような言葉じゃない。ただ、正直な告白だった。
怖かった。心の底から。
でもレオンは、驚かなかった。
「そうか。でも、それがどうした」
「……は?」
「俺は、お前が怒ってるのも、泣いてるのも、笑ってるのも、ずっと見てきた。
刷り込みかもしれない? なら、そんなもん、今この瞬間全部壊せばいい」
そう言って、レオンは俺の肩を引き寄せる。
俺の体が少し震えるのを、全部受け止めるみたいに。
「何に作られたって、お前は、お前だろ。俺は、そんなお前が好きだ。
それだけで、足りないのか?」
言葉の重みが、胸の奥に突き刺さった。
足りないどころか、もうそれ以上、何を求められるというんだ。
でもまだ、俺の中の疑問は消えない。
「……俺が、ほんとうに『自由に』選べるとしたら……お前を選ぶと思う?」
レオンは少し間をおいてから、静かに言った。
「選べばいい。選ばなければ、それまでだ。
でも、お前が逃げないなら、俺は何度でも言う。俺は、お前が欲しい」
俺は目を伏せた。心臓が、痛いくらいに脈打っていた。
こんなふうに、まっすぐに言われたのは、たぶん——初めてだった。
その夜、部屋に戻ってからも、資料の内容が頭を離れなかった。
けれど、最後のページでひとつだけ、奇妙な名前を見つけた。
『Project ARK:A-01 適合体アルク・イグナートゥス』
アルク……? あの、レオンの兄……?
資料は途中で打ち切られていた。隠蔽されている。だが、確かに制度の根幹に“彼”が関わっている。
俺はまたひとつ、深く潜る扉を開いてしまった。
でも、もう戻れない。
刷り込みでも、制度でも、何でもいい。俺は、自分の意思で歩きたい。
それがレオンを選ぶ道なら。
それが、自由の始まりなら。
——俺は、俺を選ぶ。
いや、寒いのは温度のせいじゃない。誰も近寄らなくなった記憶の塊が、壁の隙間からじわじわ染み出してくる。
「……ここに、あったはず」
俺は資料室の一番奥、立ち入り制限を受けていた棚の暗証を解除して、分厚いデータファイルを一冊引き抜く。
本来なら、もう閲覧権限はないはずだった。けれど……何かに呼ばれるようにして、俺はここにいる。
『被験体記録:フラン(Ω)』
冒頭に、過去の俺の名がある。
ページをめくるたびに、静かに吐き気がこみ上げた。
脳波図。脊髄採取記録。精神適合曲線。
それは、医学でも研究でもなかった。——支配の記録だ。
「番制度の安定は、記憶誘導による刷り込みが最も効果的である」
「被験体N-02は人工的記憶埋め込み後、対象(A-04)に強い恋慕反応を示す」
A-04……レオンのコードだ。
じゃあ、俺がレオンを「番」だと思ってるのも——全部、操作された“反応”ってことなのか?
視界がにじんだ。指が震えた。
これは夢じゃない。全部、事実だ。
あのときジュリオが言った言葉が、突然よみがえる。
『ユリス。君が何を選ぶか、いつか自由に選べる日が来るように』
……自由。
それは、ずっと手の届かない幻想だった。
気づかないうちに俺は「番」制度に飼われていた。
恋すら、感情すら、与えられた檻の中でしか感じたことがなかったのかもしれない。
「じゃあ……俺の全部は、嘘だったってことか……?」
声が出た瞬間、急に涙が落ちた。理由もなく泣けてしまうことがあるのは、
脳のどこかが限界を超えた証だ
「じゃあ今の俺も、ただの脳のバグか?」
それでも、レオンの声や手の温もりは、嘘じゃなかったような気がして——。
「何をしてる」
背後から、静かな声がした。振り返らなくても、わかった。
「……レオン」
「勝手に入ったら問題になるぞ。そこ、制限区域だ」
「知ってる。だけど、知りたかったんだ」
声が少し震えたのが、自分でもわかった。
レオンは無言で俺の横に立ち、開かれた資料ファイルに目を落とした。
しばらくの間、ただ紙とホログラムの間で、沈黙が流れる。
「読んだのか」
「読んだよ。全部」
「……で、どう思った」
質問の意図がわからなかった。何を試されてるんだろう。
でも俺は正直に答えた。
「俺の気持ちが、刷り込まれたものかもしれないって……そう思ったら、
レオンのことも、自分の感情も信じられなくなった」
吐き捨てるような言葉じゃない。ただ、正直な告白だった。
怖かった。心の底から。
でもレオンは、驚かなかった。
「そうか。でも、それがどうした」
「……は?」
「俺は、お前が怒ってるのも、泣いてるのも、笑ってるのも、ずっと見てきた。
刷り込みかもしれない? なら、そんなもん、今この瞬間全部壊せばいい」
そう言って、レオンは俺の肩を引き寄せる。
俺の体が少し震えるのを、全部受け止めるみたいに。
「何に作られたって、お前は、お前だろ。俺は、そんなお前が好きだ。
それだけで、足りないのか?」
言葉の重みが、胸の奥に突き刺さった。
足りないどころか、もうそれ以上、何を求められるというんだ。
でもまだ、俺の中の疑問は消えない。
「……俺が、ほんとうに『自由に』選べるとしたら……お前を選ぶと思う?」
レオンは少し間をおいてから、静かに言った。
「選べばいい。選ばなければ、それまでだ。
でも、お前が逃げないなら、俺は何度でも言う。俺は、お前が欲しい」
俺は目を伏せた。心臓が、痛いくらいに脈打っていた。
こんなふうに、まっすぐに言われたのは、たぶん——初めてだった。
その夜、部屋に戻ってからも、資料の内容が頭を離れなかった。
けれど、最後のページでひとつだけ、奇妙な名前を見つけた。
『Project ARK:A-01 適合体アルク・イグナートゥス』
アルク……? あの、レオンの兄……?
資料は途中で打ち切られていた。隠蔽されている。だが、確かに制度の根幹に“彼”が関わっている。
俺はまたひとつ、深く潜る扉を開いてしまった。
でも、もう戻れない。
刷り込みでも、制度でも、何でもいい。俺は、自分の意思で歩きたい。
それがレオンを選ぶ道なら。
それが、自由の始まりなら。
——俺は、俺を選ぶ。
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