【完結】聖クロノア学院恋愛譚 ―君のすべてを知った日から―

るみ乃。

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54 桜の夜 (ジュリオ/アルク視点)

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 夜は、静かすぎるほどだった。
 肌寒い春の風に舞う桜の花びらが、白く霞んだ月の下で踊っている。

 ジュリオは、丘の上の一本の古木の下で息を殺していた。
 クラウスと逃げる計画の最終段階──約束の時間は、もうすぐ。
 あの人の手を取れば、全てが変わる。
 そう信じていた。

 けれど──

「ジュリオ。」

 その声は、氷の刃のようだった。

 振り返るまでもなく、背後に誰がいるか分かった。
 アルク。
 王家の血を引く純血のアルファ。
 自分を番として縛りつけようとした──否、既に「契り」を迫ろうとしていた男。

「どうして、ここが……」

 唇が震える。
 心臓が早鐘を打つ。

「お前が俺を置いて逃げるときに、ここを選ぶとは思えなかったか?」

 そう言ってアルクは微笑む。
 その笑みはあまりに冷たく、けれど深く──傷ついていた。

「俺との番を否定し、医学生に心を向ける。あれが、俺の目にどう映るか、お前は考えたことがあるか?」

「……私は、クラウスを……!」

「黙れ。」

 アルクの声に重なるように、空気が震える。
 濃密なフェロモンが、一瞬にして空間を満たした。

「……やめて、アルク……!」

 ジュリオは膝をついた。
 発情の波が、無理やりに身体の奥をかき乱す。
 この感覚を、もう二度と味わいたくなかった。
 クラウスと過ごした日々で取り戻した、自分自身を踏みにじられる感覚。

 ──それでも。

「お前の身体は、嘘をつけないんだよ、ジュリオ。」

 低く囁くようなアルクの声。
 その目には、歪んだ愛情と執着、そして凍てついた哀しみが見えた。

 足元では、幼いフランが目を見開いて座り込んでいた。
 その姿が、ジュリオの胸を切り裂いた。

(見ないで。お願い、フラン……)

 だが、アルクは構わず、ジュリオの身体を押し倒した。

「お前は、俺の番だ。誰のものでもない。今までも、これからも……ずっと。」

 桜の花びらが風に舞う中で、アルクはジュリオを貫いた。
 その夜──ジュリオは、彼の「もの」とされた。

 狂気と支配。
 そして、泣きながら自分の名を呼んだクラウスを思い浮かべて、ジュリオは声を殺して泣いた。


 火災が起こったのは、その直後だった。
 ジュリオは意識を引きずりながら、アルクの手をすり抜け、混乱の中を必死に逃げた。

 血のにじむ足で、桜の木の下へ──だが、誰もいなかった。

 燃え盛る研究棟の裏手では、クラウスが叫んでいた。

「ジュリオォッ……!」

 だが、ジュリオはもうそこにはいなかった。
 彼は別の経路から脱出し、途中で意識を失い、研究所の外れで保護された。


 保護された施設で、ジュリオは自分の妊娠を知った。
 アルクの子──そう認めることさえ、耐えがたいことだった。

 クラウスと共に逃げたかった。
 だが、この子を守るためには、施設にいればその存在を奪われてしまう。

 ──ならば、選択は一つしかなかった。

 彼は、すべての記録を消し、子供を秘密裡に産んだ。
 その後、自ら再びアルクの元へ戻った。

 愛していたのは、クラウスだった。
 けれど、自分の身体は既に「番」として刻まれ、逃げ道は塞がれていた。
 すべてを守るために──彼は、自ら檻に戻ったのだ。

 -------------

 アルクは、燃え残った研究棟の跡地を見下ろす高台に立っていた。
 手には、擦り切れたままのブレスレット。
 ジュリオが落としていったものだ。

「クラウス……」

 呟いた声は、吐き捨てるようでありながら、どこか哀しげだった。

「なぜ、あのとき俺を選ばなかった?」

 あの夜、桜の下で交わしたのは、ただの“契り”ではない。
 自分のすべてだった。
 渇いた心で手に入れた、たった一つの存在──それがジュリオだった。

 だが、彼は今も笑わない。
 触れても、抱いても、過去の温もりは戻らない。

「……戻るまで、俺は何度でも奪う。」

 その執着は、愛と呼ぶには、あまりにも深く、冷たかった。
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