『聖クロノア学院恋愛譚 』記憶を失ったベータと王族アルファ、封印された過去が愛を試すまで

るみ乃。

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55 帰還という名の檻 (ジュリオ視点)

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 闇の中で目を覚ました瞬間、ジュリオは自分が“あの夜”に戻ったのかと思った。

 けれど、聞こえてくるのは爆炎でも悲鳴でもなく、静かすぎる室内音だった。冷たい金属の軋み。空気清浄機の微かな作動音。そして、自分自身の呼吸。

「死ななかったんだ……また、戻ったのか。」

 声は掠れていた。喉が痛む。酸素の薄さに気づくのに時間がかかった。
 だが、それよりも先に、胸の奥にじわじわと広がる感覚があった。懐かしさでも、安心でもない。鈍い恐怖。嫌悪。そして、執着の予感。

 彼は、またアルクのもとにいる。

 冷たいシーツの上。身動きの取れない拘束感。
 だが、今回は手錠も鎖もない。ただ、ジュリオの意思という名の鎖だけが、すべてを縛っていた。

(俺は、自分で戻ったんだ。)

 クラウスを捨てたわけじゃない。
 でも、守りたかった。

 この身体に宿っていた命――あの夜、自分の中に芽生えてしまった、新たな存在。
 そして、その子を守るために仕組んだ偽装出産。自ら記録を捏造し、研究者たちの目を欺いた。

(あの子は……安全な場所にいる。今も。)

 だから、いい。自分が囚われの身になろうと、それが一番の選択だった。

「……ジュリオ?」

 扉の開く音。そして、その声。

 低く、静かで、どこか張りつめた糸のような響き。
 ジュリオはゆっくりと体を起こし、アルクの姿を見つめた。

 変わらない。いや、より深く、壊れている。
 完璧な容姿。冷たい瞳。その裏で、どうしようもない感情が渦を巻いている。

「また……君のところに戻ってきたんだな。」

 ジュリオは笑った。自嘲のように。諦念のように。
 アルクはそれを黙って見ていた。けれど、次に発せられた言葉は――予想外だった。

「……なぜ、戻った?」

「……僕の意思だ。あの夜、すべて終わったはずだ……まだ足りないの?」

「違う。」

 アルクは一歩近づいた。その目が細くなる。

「ジュリオ、お前は俺を憎んでいる。怖れている。なのに――なぜ逃げない?」

 ジュリオの手が震えた。けれど、視線はそらさなかった。

「君は……俺の番だろ?」

 アルクの声はひどく静かだった。

「誰がそう決めた。お前か?それとも、制度か?」

 ジュリオは目を伏せた。
 アルクの問いは、かつて自分がクラウスの研究記録から知った“虚構”と直結していた。

 ――番制度は、完全ではない。
 ――適合率という数字に踊らされ、人間の尊厳を削っていく仕組み。

 それでも、オメガとして生まれた自分が、選択肢を持てたことなど、一度もなかった。

「君が欲しいのは、僕じゃない。ただ、支配したいだけだ。」

 ジュリオの言葉に、アルクの顔が一瞬、翳る。

「……違う。」

「違わない!君は、僕の“自由”を奪った!」

 思わず声を荒げたジュリオに、アルクが近づく。あの夜のように、圧倒的なフェロモンが空気を満たす。

 だが――

「……!」

 ジュリオの目に、ほんの一瞬、アルクの動揺が映った。
 それは、フェロモンの発動が不安定だったことに気づいたからだ。

(抑制剤……?)

 否。違う。これは――揺れている。
 自分の感情と欲望、その境界線で、アルク自身が戸惑っているのだ。

「お前は……誰にも似ていない。」

 アルクが呟いた。

「他のどんなオメガとも、違う。
 俺を拒絶しても、怯えても、逃げようとしても――
 それでも、お前を手放したくなかった。」

 ジュリオは苦しくなった。
 その言葉が、偽りでないことが分かってしまったからだ。

「僕は……クラウスが、好きだった。」

 ようやく、言葉にできた。
 十年前、言えなかった気持ちを。

「だけど、クラウスを愛していたからこそ、僕はここにいるんだ。君の元に戻ってでも、守りたいものがあった。」

「子供か?」

 ジュリオは、はっとして目を見開いた。

「……やはり、そうか。」

 アルクは目を伏せ、ゆっくりと腰を下ろした。
 長い沈黙のあと――

「お前が産んだ子は、誰の子だ?」

「……君の子だよ。」

 真っ直ぐに告げた。

「でも、渡さない。研究の道具にもしない。あの子は、自由に生きるべき存在だ。」

 アルクは目を閉じた。

 しばらくして、ぽつりと呟く。

「……お前は、強いな。俺のどこを見ても、きっと手放す理由しかなかったはずだ。」

「それでも、見ていたよ。」

 ジュリオは、静かに言った。

「君が壊れていく姿も、愛の名前で傷を刻む様も。
 どこかで、本当は誰よりも寂しがりで、誰かに選ばれたかっただけだってことも。」

 アルクは何も言わなかった。ただ、肩がかすかに揺れていた。

 ――彼が泣いているのだと、ジュリオは思った。

 どれだけ高貴な血を引いても、番を得ても、
 この世界で本当の意味で「愛された」と思えたことは、一度もなかったのかもしれない。

 ジュリオはそっと立ち上がり、アルクの前に膝をついた。

「僕は、お前を赦さない。でも――」

 声が震えた。

「僕たちの子供に、同じ想いをさせたくない。」

 その言葉に、アルクの瞳がゆっくりとこちらを向いた。

「もう、誰かを“檻”に閉じ込める愛じゃなくて……
 “共に生きる”愛を、知ってくれ。」

 その夜、アルクはジュリオに手を伸ばさなかった。
 ただ、手の中のブレスレットを、そっと胸に押し当てていた。

 ――それは、失くした過去ではなく、
 これから選ぶべき未来の形を、静かに模索しているようだった。
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