『聖クロノア学院恋愛譚 』記憶を失ったベータと王族アルファ、封印された過去が愛を試すまで

るみ乃。

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57 解放と代償(クラウス視点)

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 夜の王都は静まり返り、月光が石畳を濡らすように照らしていた。

 俺は王宮の裏門――旧学術塔に繋がる使われていない通路の前に立ち、息を殺していた。
 ここを知っている者はほとんどいない。学生時代、解剖記録の整理を命じられて足を踏み入れたことがある。そのときの記憶を、ずっと封じていた。

 まさか、ここへ戻る日が来るなんて。

 手には、偽造した身分証。
 背中には、最低限の薬品と封印解除具。
 目の前には、ただひとつの目的――

 ジュリオを取り戻すこと。

 

(お願いだ、気づかないでくれ。今夜だけは――)

 

 魔術式による結界は、王家の血に反応して自動展開する。
 俺は無理を承知で、最低限の探知式のみを避けながら、地下への通路へと身を滑らせた。

 少しでも足音を立てれば、巡回兵に気づかれる。
 だが、それでも進む。

 

 “あの夜”、あいつは待っていた。
 俺は行けなかった。守れなかった。

 今度こそ――
 絶対に、ジュリオをこの牢獄から解放する。

 

「……ここから先は、私もついて行けません」

 声をかけたのは、わずかな良心を持つ看護係だった。
 彼女は顔を隠し、震える手で鍵を差し出した。

「中枢術式の部屋は……階段を下りて、三つ目の鉄扉です。気をつけて……ドクター」

 俺は彼女から鍵を受け取り、頷いた。

「ありがとう。必ず、無事で帰る」

 彼女が小さく礼をして去ったあと、俺は深く息を吸い、無音の闇の中へと足を踏み出した――

 

(ジュリオ、待ってろ。すぐに……すぐに迎えに行く)



 ジュリオに触れようとしたその瞬間、俺の身体は強い魔力によって弾かれ、床に叩きつけられた。

 焼けつくような痛みが背中を走る。それでも、俺は這いつくばって再び手を伸ばす。

「ジュリオ……」

 まるで壊れそうな人形のように、横たわっていた彼が、わずかにまぶたを震わせた。

 そして……目を開けた。

 その目に、俺が映った瞬間、細い声が震えた。

「……クラウス……?」

「ああ、俺だ。迎えに来たよ」

 本当に、あの時のままの声だった。ひとつも変わってない。なのに、その面影には数えきれない痛みがにじんでいた。

「……来ちゃ……だめだよ。ここは、あなたが来る場所じゃない……」

 俺は首を振る。

「あの時……桜の木の下で君を待たせて、俺は……俺は何もできなかった。でも今度は違う。今度こそ、君を助けに来た」

 ジュリオの目に、涙が浮かんだ。

「……本当に、来てくれたんだね……」

 その声に、胸が締め付けられる。

「僕は……あの夜、あなたを待ってたの。あの木の下で、未来を夢見て……一緒に逃げて、遠くで静かに暮らすことだけを願ってた。だけど――」

 ジュリオは苦しそうに目を伏せた。

「その直前に……アルクに見つかって、強制的に“番”にされたの」

「っ……」

「逃げられなかった。彼の力も、王家の術も……全部、抗えなかった」

 喉元に刻まれた番契約の痕が、その言葉を裏付けていた。

「僕は、あの火災の混乱の中で保護されたけど……その時には、もう彼の子を……」

 一瞬、息が止まったようだった。

「……あなたの子じゃなかった。それが、一番苦しかった」

 ジュリオは唇を噛みしめながら続けた。

「その子を、僕は秘密で産んだ。誰にも知られないように。アルクにも、最初は気づかれないように。でも、隠しとうすために……その子を守るために、私は、彼のもとへ戻ったの」

「どうして……!」

「だって、あの子は、僕のすべてだから。あなたを忘れることもできなかった。でも、あの子を犠牲にはできなかった」

 俺は震える手でジュリオの手を取る。

「君のせいじゃない。誰も……君を責められないよ」

 ジュリオは目を閉じ、そっと囁いた。

「でもね、クラウス……僕は、もう一緒に行けない」

「なんで……!?」

「僕がいなければ……アルクは壊れてしまう。彼の魂は、もう普通じゃない。僕がそばにいなければ、
 ユリスも、レオンも、君も、そして……僕の子も、彼の暴走に巻き込まれてしまう」

 その時だった。

「その通りだ、ジュリオ」

 冷たい声が儀式室に響いた。

 振り返ると、そこにいたのは――アルク。

 黒衣を纏い、無表情でこちらを見下ろす。彼の目は、確かに嫉妬と所有の光を湛えていた。

「クラウス。君に、ジュリオは渡さない。彼は俺の“つがい”だ」

「お前は……!」

「君がどう足掻いても、この番契約は王家の血でしか解除できない。医師としての知識も、意思の強さも、通じはしない」

 アルクの目がジュリオへと向く。そこには、確かに歪んだ愛情があった。

「俺は……彼を手放すつもりはない。彼がいなければ、俺は生きていけない。……壊れてしまう」

 ジュリオが顔を伏せる。

「アルク……僕は、あなたを憎んだ。憎んで、何度も拒絶しようとした。でも、あなたの苦しみも、孤独も、痛いほど分かってしまったの。だから私は……」

 アルクの手が、ジュリオの頬にそっと触れる。

「俺の側にいろ。何も望まない。お前が笑ってくれるだけでいい」

 俺は耐えきれず、叫んだ。

「ジュリオ! そんなのは愛じゃない! 呪いだよ!」

「クラウス……」

「君は、自由にならなきゃいけない。誰かのために、自分を犠牲にするなんて……そんな生き方、許されていいわけない!」

 でも、ジュリオは静かに微笑んだ。

「ありがとう、クラウス。あなたは、僕の光だった。あなたと見た未来は、今でも僕の支え……だけど、僕は、もう一緒には行けない。今は、僕の生き方を選ばなきゃいけないから」

「……そんなの、納得できないよ」

 アルクが一歩、俺に近づいた。

「なら、証明してみせろ。王家の血を持つ者が、俺の術式を壊すというなら――それを実行できるのは、君ではない」

「……」

 ジュリオがそっと俺の手を握る。

「行って、クラウス。ここでは、あなたには何もできない。だけど、もし……」

 彼の手の温度が、かすかに震えていた。

「必ず戻るよ」

 扉の外へと向かう俺の背に、アルクの声が響いた。

「クラウス。俺はどんな犠牲を払っても、ジュリオを守る。例えそれが、王家に背くことになっても」

 振り返らずに、俺は小さく呟いた。

「……それでも、俺は君を諦めない。ジュリオ。必ず、君を“自由”にする」

 儀式室の扉が、ゆっくりと閉じられた。

 重い音が静寂に響いたとき――

 俺の心は、まだ彼の手の温もりを覚えていた。
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