【完結】聖クロノア学院恋愛譚 ―君のすべてを知った日から―

るみ乃。

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63 帰る場所を探して

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 波の音が遠くでくぐもっていた。

 窓の向こうに広がる海は、夕暮れの光を受けて静かに揺れている。
 ゆるやかに赤みを帯びた空と、水面を滑る風。
 まるでこの部屋だけが時間から切り離されているようだった。

 隣ではレオンが、静かに寝息を立てている。
 その寝顔を見ていると、不思議と胸が温かくなる。
 すぐ触れられる距離に、彼がいる。
 それがまだ、どこか夢のように思えてしまう。

 けれど――俺は、眠れずにいた。

 

 あのときのことを、思い出していた。
 今でも鮮やかに残る記憶。
 彼と“最初に”出会った、あの夜のことを。

 

「なあ、レオン……ひとつ、話していいか?」

 

 そう声をかけると、レオンが目を開けた。
 ぼんやりとした夢の余韻の中、俺の声だけが確かな現実として届いたようで、
 彼はそのまま優しく微笑んだ。

「……うん。どうした?」

 

 その声に、少しだけためらって、けれど、俺はゆっくりと口を開いた。

 

「あの時、お前が“王子”として来た日……
 施設で、お前と初めて会ったんだ。
 “フラン”として、ただの被検体として、そこにいた俺に──
 名前を呼んでくれたのが、お前だった」

 

 レオンの目がわずかに揺れる。
 優しさと、痛みと、懐かしさが同時に湧き上がるその眼差しは、
 10年前と変わらなかった。

 

「俺は、あの頃……もう、すべてを諦めてたんだ。
 痛みにも、冷たい視線にも慣れてた。
 “人として生きる”なんて、考えたこともなかった。
 ただ、命令されて、薬を打たれて、生き延びて……
 そうやって、ただ“数字”みたいに存在していた」

 

 そのときの感覚が、胸の奥からじんわりと蘇る。
 喉が詰まりそうになるけど、伝えなきゃいけないと思った。
 それを伝えられる相手が、今、隣にいるから。

 

「でも、お前が現れて……俺に話しかけてくれた。
 “君って偉いの?”ってお前に聞いたの……覚えてるか?」

 

 レオンは、そっと俺の手を取る。

「……ああ。覚えてるよ。
 君が、睨むような目で俺を見てたのも」

「……それ、思い出さなくていい」

 俺が小さく笑うと、レオンも肩を揺らして笑った。

 

「でも、あの時……俺は、名前を呼ばれたことで、
 自分が“誰か”でいられる気がした。
 お前が『また会おう』って言ってくれたから、
 その言葉だけを胸に、たぶん俺は十年……耐えられたんだ」

 

「……ユリス」
 レオンの声が、少し震えていた。

 

「俺、ずっと悔やんでた。
 “いつか、一緒に出よう”って言ったのに……
 俺の手が届かなかったこと」

 

「違うよ。救ってくれてた。
 俺は生きられた。
 冷たい部屋の中で、ひとりぼっちじゃなかったと思えた」

 

 そう言うと、レオンは俺を、ゆっくりと抱き寄せた。
 静かに、迷いなく。
 その腕はあたたかくて、昔のどんな寒さも、もう思い出せなくなるほどだった。

 

「……これからは、もう逃げない」
 レオンの低く、確かな声が胸に響く。

「俺も、お前も、誰にも奪わせない。
 地位も、血筋も、制度も……全部関係ない。
 ただ、君と生きていきたい。
 君が“ユリス”でいる限り、俺は隣にいる」

 

「……ああ。俺も、そう思ってる」

 俺は、そっと彼の胸元に顔を埋めた。
 心臓の鼓動が、耳に響く。
 それは、確かに“生きている”音だった。

 

「なあ……」
 俺は少し照れながら口を開いた。

「次に生まれ変わっても、お前に名前を呼ばせるからな。
 その時は、“王子”じゃなくていい。
 どんな役でも構わない。……お前の隣に立てるなら、それでいい」

 

「……じゃあその時は、普通の恋人になってくれよ」
 レオンが笑って、そっと俺の頬に唇を落とした。

 

 窓の外には、星がひとつまたひとつと浮かび始めていた。
 潮の香りと夜風が、ゆっくりと部屋を撫でていく。
 それはまるで、ふたりだけの記憶を祝福するような、静かな調べだった。

 

 過去の痛みは、きっと消えない。
 けれど、それを分かち合える人がいるなら――
 傷は、ただの“傷”ではなくなる。

 

 それは、“生きた証”になる。

 

 俺たちはようやく、ただの“再会”を越えて、
 “これから”を分かち合える関係になれた。

 もう誰にも、この関係を奪わせない。
 この腕の中にいる限り、それだけで俺は、帰ってこられる。

 

 帰る場所は、ここにある。

 この、彼と繋いだ手の温もりの中に。

 

 ──俺の名を呼んでくれた、たったひとりの人と共に。
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