【完結】聖クロノア学院恋愛譚 ―君のすべてを知った日から―

るみ乃。

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64 未来のために

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 春の朝。

 学院の門をくぐった瞬間、ふわりと潮風の香りが鼻先をかすめた。
 懐かしい石畳の感触が、足元から心へじんわり染み込んでいく。
 空は晴れわたり、どこか遠い記憶の中で見た春の日にそっくりだった。

 

「……ただいま、クロノア学院──」

 

 心の中で呟いたその言葉に、隣を歩いていたレオンがくすりと笑う。

「ずいぶん感傷的だな」

「悪い? 一応、俺にとっては“出発点”だったんだよ」

 

 ただの思い出話のように、何気なく言葉を交わせるようになったことが、ふいに嬉しくなる。
 かつて、心の距離は“制度”よりも遠かった。
 研究対象と王子――そんな立場では、どれだけ近づいても、その隔たりは越えられなかった。

 でも今は違う。
 俺たちは、ただひとりの人間として、同じ地面に足を置いて歩いている。

 

 ユリス・フェルナンド
 レオン・ヴァルフォ-ド

 名前の意味も、与えられた役目も、それぞれ違った。
 けれどいま、ふたりはお互いを第二性にとらわれない、新しい形として選び、共に在る。

 それだけが、俺の確かな“現在”だった。

 


 生徒会室に戻ると、ノエルがまるで飛びつくようにして出迎えてきた。

「ユリス! おかえりなさい!
 もう……! 会長代理、ほんっとうに大変だったんだよぉ!」

「そう? じゃあ、正式に会長の席、譲ってもらおうかな」

「えっ……い、いやそれは、ちょっと……心の準備が……!」

 

 笑い声が部屋に満ちる。

 こんな風に誰かと笑い合う日が、あの頃の俺に想像できただろうか。
 ベータとして、そして“元Ω”として戻ってきた今、
 この場所に再び立つことへの不安がなかったわけじゃない。

 

 マルディ医師の新薬は、確かに俺の体に影響を残している。
 周期は消え、感覚も変わった。
 だけどそれ以上に、俺は自分自身と向き合い直す時間を得た。

 

 ──そして今、もう一度この場所に立つ意味を、見つけた。


 

 講堂で行われた新入生歓迎のスピーチ。
 壇上から見下ろす講堂の光景は、少しずつ変わりながらも、根本は同じだった。

 不安そうな目。
 期待に胸を高鳴らせている子。
 そのどちらでもない、ただ目を伏せている生徒もいた。

 その中に、かつての自分を重ねてしまうのは、もう癖みたいなものだった。

 

「……知識って、すごい力を持ってる。
 でもそれは、誰かを支配するための武器じゃない。
 暗闇を照らす、小さな灯火なんだと思う」

 

 自分がかつて、どれほどその灯を求めていたかを思い出す。
 誰かの正しさに押しつぶされることの苦しさ。
 “決められた生き方”に適応しきれなかった日々。
 でも、だからこそ──俺はこの言葉を、まっすぐに届けたいと思った。

 

「もし、迷うことがあったら、この学院で灯を探してほしい。
 ……それが、俺がここに戻ってきた理由です」

 

 拍手の音が講堂に響いたとき、
 胸の奥で絡まっていた何かが、ひとつほどけた気がした。

 

 夜。寮の部屋。
 窓を開けると、遠くにあの棟が見えた。
 風がカーテンを揺らす。
 レオンが背後からそっと腕を回してきた。

 

「お前のスピーチ、ちゃんと聞いてた。……すごくよかった」

「ありがと。でも、少しだけ……緊張した」

 

 少しの沈黙。

 そのあと、レオンがふと声を落として言った。

 

「……俺、政治からは離れることにした。
 代わりに、この学院の支援ネットワークの立ち上げ、引き受けようと思う。
 悩んでる生徒たちに、もっと近くで関われるように」

 

「……うん。いいと思うよ。
 たぶんそれが、お前らしい“役割”なんだと思う」

 

 どんなに恵まれていても、肩書きがあっても、
 心が追いつかないときがある。

 そういうとき、ほんの小さな“理解”が救いになることを、俺たちは知っている。
 だからこそ──その選択を、俺は心から誇りに思った。

 

「……ありがとう、ユリス」

 

 レオンの声は優しくて、胸にじんわり沁みた。

 その夜、久しぶりにふたりで同じベッドに横たわった。

 

 灯りを落とした部屋の中、手を伸ばせば、すぐそこにレオンがいる。
 指先が髪をすくい、頬にふれて、息が静かに重なった。

 

「……ユリス。もう少しだけ、こうしていてもいい?」

「……うん。俺も、今夜は眠れそうにない」

 

 何も急がなくていい。
 焦らなくていい。
 ただ、確かめるように唇を重ね、額を寄せ合う。

 肌と肌が触れ合うだけで、胸の奥にある孤独が少しずつ溶けていく。

 心と身体が、静かに馴染んでいく夜だった。

 

「来年も、その次の年も……俺たちは、何度でも選びなおせるんだよな」

 レオンが小さく言った言葉に、俺はゆっくりと頷いた。

 

「……ああ。もう、“運命”に支配される必要はないから」

 

 俺たちはきっと、何度でもやり直せる。
 過去を背負いながら、それでも前を向ける。
 誰かに決められた未来ではなく、自分たちで選ぶ道を。

 その一歩を、今、ここから踏み出せる。


 かつて“檻”だった場所で、
 今、俺は自由に笑っている。

 “役割”は与えられるものじゃない。
 選び、重ねていくものだ。

 レオンと歩く未来は、まだ形を持たない。
 でも、確かにここにある。

 俺たちはもう、誰かの支配下じゃない。
 自分の未来を、自分で選ぶ。

 それが、俺の「生き方」だ。

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