65 / 67
64 未来のために
しおりを挟む
春の朝。
学院の門をくぐった瞬間、ふわりと潮風の香りが鼻先をかすめた。
懐かしい石畳の感触が、足元から心へじんわり染み込んでいく。
空は晴れわたり、どこか遠い記憶の中で見た春の日にそっくりだった。
「……ただいま、クロノア学院──」
心の中で呟いたその言葉に、隣を歩いていたレオンがくすりと笑う。
「ずいぶん感傷的だな」
「悪い? 一応、俺にとっては“出発点”だったんだよ」
ただの思い出話のように、何気なく言葉を交わせるようになったことが、ふいに嬉しくなる。
かつて、心の距離は“制度”よりも遠かった。
研究対象と王子――そんな立場では、どれだけ近づいても、その隔たりは越えられなかった。
でも今は違う。
俺たちは、ただひとりの人間として、同じ地面に足を置いて歩いている。
ユリス・フェルナンド
レオン・ヴァルフォ-ド
名前の意味も、与えられた役目も、それぞれ違った。
けれどいま、ふたりはお互いを第二性にとらわれない、新しい形として選び、共に在る。
それだけが、俺の確かな“現在”だった。
生徒会室に戻ると、ノエルがまるで飛びつくようにして出迎えてきた。
「ユリス! おかえりなさい!
もう……! 会長代理、ほんっとうに大変だったんだよぉ!」
「そう? じゃあ、正式に会長の席、譲ってもらおうかな」
「えっ……い、いやそれは、ちょっと……心の準備が……!」
笑い声が部屋に満ちる。
こんな風に誰かと笑い合う日が、あの頃の俺に想像できただろうか。
ベータとして、そして“元Ω”として戻ってきた今、
この場所に再び立つことへの不安がなかったわけじゃない。
マルディ医師の新薬は、確かに俺の体に影響を残している。
周期は消え、感覚も変わった。
だけどそれ以上に、俺は自分自身と向き合い直す時間を得た。
──そして今、もう一度この場所に立つ意味を、見つけた。
講堂で行われた新入生歓迎のスピーチ。
壇上から見下ろす講堂の光景は、少しずつ変わりながらも、根本は同じだった。
不安そうな目。
期待に胸を高鳴らせている子。
そのどちらでもない、ただ目を伏せている生徒もいた。
その中に、かつての自分を重ねてしまうのは、もう癖みたいなものだった。
「……知識って、すごい力を持ってる。
でもそれは、誰かを支配するための武器じゃない。
暗闇を照らす、小さな灯火なんだと思う」
自分がかつて、どれほどその灯を求めていたかを思い出す。
誰かの正しさに押しつぶされることの苦しさ。
“決められた生き方”に適応しきれなかった日々。
でも、だからこそ──俺はこの言葉を、まっすぐに届けたいと思った。
「もし、迷うことがあったら、この学院で灯を探してほしい。
……それが、俺がここに戻ってきた理由です」
拍手の音が講堂に響いたとき、
胸の奥で絡まっていた何かが、ひとつほどけた気がした。
夜。寮の部屋。
窓を開けると、遠くにあの棟が見えた。
風がカーテンを揺らす。
レオンが背後からそっと腕を回してきた。
「お前のスピーチ、ちゃんと聞いてた。……すごくよかった」
「ありがと。でも、少しだけ……緊張した」
少しの沈黙。
そのあと、レオンがふと声を落として言った。
「……俺、政治からは離れることにした。
代わりに、この学院の支援ネットワークの立ち上げ、引き受けようと思う。
悩んでる生徒たちに、もっと近くで関われるように」
「……うん。いいと思うよ。
たぶんそれが、お前らしい“役割”なんだと思う」
どんなに恵まれていても、肩書きがあっても、
心が追いつかないときがある。
そういうとき、ほんの小さな“理解”が救いになることを、俺たちは知っている。
だからこそ──その選択を、俺は心から誇りに思った。
「……ありがとう、ユリス」
レオンの声は優しくて、胸にじんわり沁みた。
その夜、久しぶりにふたりで同じベッドに横たわった。
灯りを落とした部屋の中、手を伸ばせば、すぐそこにレオンがいる。
指先が髪をすくい、頬にふれて、息が静かに重なった。
「……ユリス。もう少しだけ、こうしていてもいい?」
「……うん。俺も、今夜は眠れそうにない」
何も急がなくていい。
焦らなくていい。
ただ、確かめるように唇を重ね、額を寄せ合う。
肌と肌が触れ合うだけで、胸の奥にある孤独が少しずつ溶けていく。
心と身体が、静かに馴染んでいく夜だった。
「来年も、その次の年も……俺たちは、何度でも選びなおせるんだよな」
レオンが小さく言った言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
「……ああ。もう、“運命”に支配される必要はないから」
俺たちはきっと、何度でもやり直せる。
過去を背負いながら、それでも前を向ける。
誰かに決められた未来ではなく、自分たちで選ぶ道を。
その一歩を、今、ここから踏み出せる。
かつて“檻”だった場所で、
今、俺は自由に笑っている。
“役割”は与えられるものじゃない。
選び、重ねていくものだ。
レオンと歩く未来は、まだ形を持たない。
でも、確かにここにある。
俺たちはもう、誰かの支配下じゃない。
自分の未来を、自分で選ぶ。
それが、俺の「生き方」だ。
学院の門をくぐった瞬間、ふわりと潮風の香りが鼻先をかすめた。
懐かしい石畳の感触が、足元から心へじんわり染み込んでいく。
空は晴れわたり、どこか遠い記憶の中で見た春の日にそっくりだった。
「……ただいま、クロノア学院──」
心の中で呟いたその言葉に、隣を歩いていたレオンがくすりと笑う。
「ずいぶん感傷的だな」
「悪い? 一応、俺にとっては“出発点”だったんだよ」
ただの思い出話のように、何気なく言葉を交わせるようになったことが、ふいに嬉しくなる。
かつて、心の距離は“制度”よりも遠かった。
研究対象と王子――そんな立場では、どれだけ近づいても、その隔たりは越えられなかった。
でも今は違う。
俺たちは、ただひとりの人間として、同じ地面に足を置いて歩いている。
ユリス・フェルナンド
レオン・ヴァルフォ-ド
名前の意味も、与えられた役目も、それぞれ違った。
けれどいま、ふたりはお互いを第二性にとらわれない、新しい形として選び、共に在る。
それだけが、俺の確かな“現在”だった。
生徒会室に戻ると、ノエルがまるで飛びつくようにして出迎えてきた。
「ユリス! おかえりなさい!
もう……! 会長代理、ほんっとうに大変だったんだよぉ!」
「そう? じゃあ、正式に会長の席、譲ってもらおうかな」
「えっ……い、いやそれは、ちょっと……心の準備が……!」
笑い声が部屋に満ちる。
こんな風に誰かと笑い合う日が、あの頃の俺に想像できただろうか。
ベータとして、そして“元Ω”として戻ってきた今、
この場所に再び立つことへの不安がなかったわけじゃない。
マルディ医師の新薬は、確かに俺の体に影響を残している。
周期は消え、感覚も変わった。
だけどそれ以上に、俺は自分自身と向き合い直す時間を得た。
──そして今、もう一度この場所に立つ意味を、見つけた。
講堂で行われた新入生歓迎のスピーチ。
壇上から見下ろす講堂の光景は、少しずつ変わりながらも、根本は同じだった。
不安そうな目。
期待に胸を高鳴らせている子。
そのどちらでもない、ただ目を伏せている生徒もいた。
その中に、かつての自分を重ねてしまうのは、もう癖みたいなものだった。
「……知識って、すごい力を持ってる。
でもそれは、誰かを支配するための武器じゃない。
暗闇を照らす、小さな灯火なんだと思う」
自分がかつて、どれほどその灯を求めていたかを思い出す。
誰かの正しさに押しつぶされることの苦しさ。
“決められた生き方”に適応しきれなかった日々。
でも、だからこそ──俺はこの言葉を、まっすぐに届けたいと思った。
「もし、迷うことがあったら、この学院で灯を探してほしい。
……それが、俺がここに戻ってきた理由です」
拍手の音が講堂に響いたとき、
胸の奥で絡まっていた何かが、ひとつほどけた気がした。
夜。寮の部屋。
窓を開けると、遠くにあの棟が見えた。
風がカーテンを揺らす。
レオンが背後からそっと腕を回してきた。
「お前のスピーチ、ちゃんと聞いてた。……すごくよかった」
「ありがと。でも、少しだけ……緊張した」
少しの沈黙。
そのあと、レオンがふと声を落として言った。
「……俺、政治からは離れることにした。
代わりに、この学院の支援ネットワークの立ち上げ、引き受けようと思う。
悩んでる生徒たちに、もっと近くで関われるように」
「……うん。いいと思うよ。
たぶんそれが、お前らしい“役割”なんだと思う」
どんなに恵まれていても、肩書きがあっても、
心が追いつかないときがある。
そういうとき、ほんの小さな“理解”が救いになることを、俺たちは知っている。
だからこそ──その選択を、俺は心から誇りに思った。
「……ありがとう、ユリス」
レオンの声は優しくて、胸にじんわり沁みた。
その夜、久しぶりにふたりで同じベッドに横たわった。
灯りを落とした部屋の中、手を伸ばせば、すぐそこにレオンがいる。
指先が髪をすくい、頬にふれて、息が静かに重なった。
「……ユリス。もう少しだけ、こうしていてもいい?」
「……うん。俺も、今夜は眠れそうにない」
何も急がなくていい。
焦らなくていい。
ただ、確かめるように唇を重ね、額を寄せ合う。
肌と肌が触れ合うだけで、胸の奥にある孤独が少しずつ溶けていく。
心と身体が、静かに馴染んでいく夜だった。
「来年も、その次の年も……俺たちは、何度でも選びなおせるんだよな」
レオンが小さく言った言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
「……ああ。もう、“運命”に支配される必要はないから」
俺たちはきっと、何度でもやり直せる。
過去を背負いながら、それでも前を向ける。
誰かに決められた未来ではなく、自分たちで選ぶ道を。
その一歩を、今、ここから踏み出せる。
かつて“檻”だった場所で、
今、俺は自由に笑っている。
“役割”は与えられるものじゃない。
選び、重ねていくものだ。
レオンと歩く未来は、まだ形を持たない。
でも、確かにここにある。
俺たちはもう、誰かの支配下じゃない。
自分の未来を、自分で選ぶ。
それが、俺の「生き方」だ。
10
あなたにおすすめの小説
Endless Summer Night ~終わらない夏~
樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった”
長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
【完結】期限付きの恋人契約〜あと一年で終わるはずだったのに〜
なの
BL
「俺と恋人になってくれ。期限は一年」
男子校に通う高校二年の白石悠真は、地味で真面目なクラスメイト。
ある日、学年一の人気者・神谷蓮に、いきなりそんな宣言をされる。
冗談だと思っていたのに、毎日放課後を一緒に過ごし、弁当を交換し、祭りにも行くうちに――蓮は悠真の中で、ただのクラスメイトじゃなくなっていた。
しかし、期限の日が近づく頃、蓮の笑顔の裏に隠された秘密が明らかになる。
「俺、後悔しないようにしてんだ」
その言葉の意味を知ったとき、悠真は――。
笑い合った日々も、すれ違った夜も、全部まとめて好きだ。
一年だけのはずだった契約は、運命を変える恋になる。
青春BL小説カップにエントリーしてます。応援よろしくお願いします。
本文は完結済みですが、番外編も投稿しますので、よければお読みください。
オメガの僕が、最後に恋をした騎士は冷酷すぎる
虹湖🌈
BL
死にたかった僕を、生かしたのは――あなたの声だった。
滅びかけた未来。
最後のオメガとして、僕=アキは研究施設に閉じ込められていた。
「資源」「道具」――そんな呼び方しかされず、生きる意味なんてないと思っていた。
けれど。
血にまみれたアルファ騎士・レオンが、僕の名前を呼んだ瞬間――世界が変わった。
冷酷すぎる彼に守られて、逃げて、傷ついて。
それでも、彼と一緒なら「生きたい」と思える。
終末世界で芽生える、究極のバディ愛×オメガバース。
命を懸けた恋が、絶望の世界に希望を灯す。
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
塩対応だった旦那様が記憶喪失になった途端溺愛してくるのですが
詩河とんぼ
BL
貧乏伯爵家の子息・ノアは家を救うことを条件に、援助をしてくれるレオンハート公爵家の当主・スターチスに嫁ぐこととなる。
塩対応で愛人がいるという噂のスターチスやノアを嫌う義母の前夫人を見て、ほとんどの使用人たちはノアに嫌がらせをしていた。
ある時、スターチスが階段から誰かに押されて落ち、スターチスは記憶を失ってしまう。するとーー
僕のために、忘れていて
ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
この手に抱くぬくもりは
R
BL
幼い頃から孤独を強いられてきたルシアン。
子どもたちの笑顔、温かな手、そして寄り添う背中――
彼にとって、初めての居場所だった。
過去の痛みを抱えながらも、彼は幸せを願い、小さな一歩を踏み出していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる