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一章

〈20〉秘めたる想い

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 ユーリ・ローズブレイドは決して幸福ではなかった。
 幼くして最愛の実母は他界し、義母からは執拗に虐げられ、父親は無関心。彼は家柄にも能力にも容姿にも恵まれていた。しかし、ユーリに近づくのはその権力が目当てのものばかりで、彼の心を見る人などいなかった。

 まだ年若い彼は、いつも孤独で愛情に飢えていた。
 そして、そんなユーリに愛情と優しさを向けてくれたのがナターシャだった。だからこそ、彼女を手放すことへ耐え難い恐怖があった。

「ナターシャ。少し、いいかな?」

 楽しげにマティアスと会話するナターシャにそう声をかける。以前は、二人の仲睦まじい様子を見て傷ついてばかりだったが、今は自分でも驚く程穏やかな心持ちでいられる。

「ユリちゃん、どうしたの?   マティアス様、私……」
「俺は構わない。行ってくるといい」

 マティアスは、ユーリのただならない気配を察していたが、拒まなかった。ユーリはナターシャを連れてテラスに出た。

「もう随分暖かくなってきたね。日中は暑いくらい」
「ああ、夜の風が気持ちいいね」
「ユリちゃん……。一体どうしたの?   何か私に大事な用?」
「……うん。とても大切な話。……僕にとってはね」

 ナターシャの大きな瑠璃色の瞳が、ユーリの姿を映していた。かつて、自分のことだけを見ていてほしいと切に願っていた澄んだ瞳だ。ユーリは、淡々とした口調で告げた。

「君のことが好きなんだ。……幼いころからずっと」
「…………」

 ナターシャは少しだけ目を見張った。風に揺られてなびく銀髪を耳に掛けながら言う。

「うん、気づいてたよ。ずっと。……でも、ごめんなさい。ユリちゃんの気持ちには応えられない」
「……」

 まさか、彼女に思いを悟られていたとは知らなかった。ユーリは内心で驚きつつも、冷静に答えた。

「うん、分かってる」
「でも、嬉しいよ。前に進むために、けじめとして告白してくれたんでしょ?」
「……そうだよ」
「ユリちゃんが私にこだわる理由も、私なりに理解していたつもりなの。ユリちゃんはこれまで私に愛情を尽くしてくれて、私にできる誠意は、ユリちゃんの気持ちに気がつかないフリをすることだと思ってそうしてきた。……でもね、いつかきっと、あなたは辛い過去から立ち直って前に進んでいけるんだって――信じて待ってた」

 彼女はずっと、自分に友愛以上の特別な情を抱いていると知りながらも変わらずにそばにいてくれたのだ。その配慮に、なんとも形容しがたい感情が込み上げる。そして、ナターシャの予想外の発言は更に続く。

「ユリちゃんはさ。――今はもう、私のこと好きじゃないよね」
「え……。それはどういう――」
「自覚がないのかもしれないけど、ユリちゃんって意外と分かりやすいんだもん」

 ユーリの心臓がどくんと跳ねた。ナターシャの指摘に、脳裏に思い浮かぶのは一人の令嬢のことだった。

「ロベリア様といるとき、ユリちゃんはこれまで見たことないくらい生き生きしてる。好きなんでしょ?   彼女のこと」

 ロベリア・アヴリーヌ。彼女の存在は、ユーリに衝撃を与えた。
 高貴な身分でありながら、決して派手なことを好まず、目立たない令嬢だった。そんな彼女があるとき突然、ナターシャに接触した。当時は、ユーリやマティアスへの好意からナターシャに取り入ったのだろうと予想していた。ユーリがかつて出会ってきた娘たちは、そういう強かで狡猾な娘ばかりだったからだ。

 しかし、ロベリアは違った。大人しくて慎み深そうな見た目に反し、物怖じせずにはっきりと主張をする。淑女らしからぬ毒を吐くこともしばしば。無鉄砲で、思いつきのままに行動する短絡的なところがあるが、根っこの部分は愛情で満ちていて、底抜けに優しいお人好しだった。己が正しいと思ったことは貫き通す強さが彼女にはある。

 そんなロベリアの全てが新鮮で――目が離せなかった。

「……よく分からないんだ。自分でも、不可解な感情に戸惑っている」
「戸惑えば戸惑うほど、それは他とは違う特別な気持ちを抱いている証拠だよ」
「……君って結構、鋭いところがあるんだね」
「うーん?   私は鈍い方だよ。でも、ユリちゃんは何年一緒にいたと思ってるのよ」

 彼女は、一見ぼんやりしているようで、ユーリのことを自分以上によく見てくれていたのだ。ナターシャは柔らかに微笑みながら言った。

「私はね、大好きなあなたに幸せになってほしいだけなの。それがロベリア様なら尚更。……彼女程素敵な女性には、そうそう出会えるものじゃないよ。家柄も良く、崇高な心を持っていらっしゃる。いつも誰かを助けることばかりしておられるけど、そういうの……なかなかできることじゃないもの」
「…………」
「もたもたしてると、すぐに他の人に取られちゃうよ?    ロベリア様、ちょっと鈍感だから。今日のロベリア様……凄く素敵だったね」
「ああ。……とても綺麗だった」
「ふ。ユリちゃんが女の子褒めるの初めて聞いたよ」

 今日のロベリアは、ユーリには見蕩れてしまうほどに美しく見えた。これまで、どんな美しい令嬢にも心惹かれたことなどないのに、藍色のドレスに身を包んだ彼女をひと目見たとき、会場にいる令嬢の中で最も魅力的だと思ったのだ。

「あとね……。本当は、ユリちゃんが夜会に出るつもりなくて、他の令嬢方の誘いを断る口実にロベリア様と参加するって嘘ついたこと、分かってたんだ。少しでも二人の距離が縮めばいいなって、ちょっぴりワガママに振舞ってみたの。お節介……だったかな」

 ユーリは苦笑した。

「本当、ナターシャには敵わないよ」

 ナターシャはテラスから、ホールの中の賑わいを眺めながら、物憂げに言った。

「ここにアリーシャちゃんもいたら……どんなに良かったかな……」
「最近も……調子が良くないのかい?」
「……体の方はいいよ。でも……お父様もお母様も、あの子に対して過保護だから。ずっと静かな家の中にいるより、少しは外で活動してみてもいいんじゃないかって思うんだけどね」
「無理に休み続けるっていうのも、返って精神的に悪いかもしれないね。君から両親を説得してみたらどうだい?   あとは、妹本人に促してみるとか」
「……なかなか難しいんだ、それが」

 ナターシャの双子の妹、アリーシャは幼少の頃から体が弱く、何度か生死をさまよったこともあったという。彼女の両親は、その経験からアリーシャの体を過剰に心配し、田舎の屋敷での療養を強要しているという。子どもに無関心なユーリの親とは反対で、非常に過保護だった。

「それに私――アリーシャちゃんに嫌われてるから。私が心配してかけた言葉は、彼女の心には多分、届かない」

 どの家庭も、一筋縄ではいかない問題を抱えていたりする。ユーリは大人びた憂いを漂わせるナターシャを見ながら共感と同情を抱いた。
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