富嶽を駆けよ

有馬桓次郎

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二.相州大磯宿

(四)

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 やがて、笑いを収めた三志は静かに語り始めた。

「女だてらに御山の頂を究めてぇなんてお前ェさんの大望に、どうして俺が乗ることにしたのか判るか」
「いえ……」
「それが、てんことわりだからだ」

 天の、理。
 口の端で呟く辰に、三志は小さく頷く。

「富士の神霊たる仙元大菩薩は、富士の御山を軸として万物を生み出した。陰陽一対いんよういっつい、即ち父でもあり母でもある仙元大菩薩の前では、その子である人は等しく平らかな存在だ──それが、人穴ひとあなほらで始祖の角行さんが得た悟りよ」

 人穴は富士の西麓、深い森の中に口を開いた溶岩性の洞穴である。
 辰は知らなかったが、永禄年間に角行東覚が仙元大菩薩の啓示を得たのがこの洞穴とされ、富士講の道者の間では聖地として崇められる場所となっていた。

「五代・食行さんは、そこから更に悟りを得た。陰陽等しく平らかなれば、四民しみんまた等しく平らかなり。四民等しく身を禄とせば、自ずから仙元大菩薩の功徳くどくを得られん、てな」
「…………」
「四民とは、人が造った区分けに過ぎねえんだ。人は陰と陽の混沌の中から生まれ出ずるものであり、仙元大菩薩の前では人は等しく平らかであるというのなら、陰と陽もまた等しくなくちゃならねえ。即ち──男も女も、どちらも等しく価値があるって事よ」
「あ……!」
「でもなあ……それだけじゃあ駄目なんだ」

 何かが、とてつもなく眩い何かが、辰の身体を雷光の如く貫いた。そんな気がした。
 しかし三志は、それではまだ足りないとばかりに両の拳をごつりと打ち合わせる。

「世の中を見てみろ。幾ら角行さんや食行さんが男女の等しさを説いたところで、やれ女人禁足だ、女は二合目までで、そこから上は男しか登れねえなんて道理の通らねえこと抜かしやがる。これを吹き飛ばすにゃ、当たり前のことを当たり前にやってちゃ駄目なんだよ。それこそ天地がそっくり返るような──女の身で、御山の頂を究めるくれえの事を、な」

 この行衣もそうだ、と三志は羽織の袖を摘んで広げて見せた。

「俺達、不二孝の行衣が純白ではなく鼠色をしているのは、万物を逆さまに見て天の道理に戻す教えの表れだ。陰は水の如く下に流れ、陽は火の如く上に昇る。だったら陽を下に、陰を上にすれば、流れ落ちる陰と立ち昇る陽がぶつかり合って和合を成すってな」
「だから、陰である女の私は、富士の頂に立つべきだ、と……?」

 したり、とばかりに三志は手で膝を打った。

男女和合だんじょわごう。女人が望んで御山の頂を極めてこそ、初めて男と女の等しさと結びつきの尊さを天下に知ろ示すことが出来るんだ。富士の頂に立つのがお前ェさんの大願だというのなら、富士の頂に女を立たせるのが俺の長年の夢だったんだよ」

 そして、三志は居住まいを正すと真っ直ぐに辰を見返した。
 あれほどかぶいて見えた三志の姿が、今は峻嶺しゅんれいのように大きく、泰然としているように辰には思える。
 その顔は、雲間にあってなお燦々とした日輪の如く、どこまでも明るく輝いていた。

「俺は、ずっとお前ェさんのような女が現れることを待ってたんだ」



 後に、善行と恵行という二人の弟子から聞いたところによると、面会の場所として大磯宿を指定したのは富士登拝に賭ける想いの強さと体力を試すためであったらしい。
 その点、辰は山あり谷ありの中原街道を歩いてきた末、最後の二里は万次郎を背負って歩き通したのだから、御山の頂を踏むのに申し分ない条件が備わっていたわけだ。

「お前さんのことは文を回しておく。大船に乗った気で登拝の日を待っていてくれや」

 翌日、これから西へ向かうという三志は出立の前にそう辰へ請け負った。
 この頃の三志は伊勢川上に残る食行身禄の生家を不二孝の聖地とすべく、精力的に活動している。

「でも、女人禁足の件は……」
「問題ねえ。そもそも冨士浅間社や御師の連中は、前から女人登拝に前向きだったんだ」
「そうなのですか!?」

 初めて知った。
 まさか三志達以外にも、女人の富士登拝に賛成している人々がいるとは思ってもみなかった。

「ああ。女人登拝が解禁されたなら、御師に入る役銭やくせんの実入りが増えるからな。今まで解禁に反対していたのは、女が登拝することで天災が起こると思ってやがる百姓の連中だ。奴等が突き上げるもんだから、御上も女人の登拝を禁じねばならなかったって絡繰からくりよ」

 しかし、宝永の噴火から百二十年余が過ぎて農民層も随分と軟化したことに加えて、吉田御師達から女人解禁への強い要望もあり、幕府も考えを改めつつあるという。
 まるで自分の挑戦に追い風が吹いているように思えて、辰はその場で躍り上がりたい気分だった。

「諸々の手配は、全部こっちでやっておく。知らせが来るまでは、精々胆力を練り上げておいてくんな」

 そう言い残すと、三志は二人の弟子を伴って去っていった。


 待ち望んだ三志からの知らせが届いたのは、それから三ヶ月も後のことである。
 既に冨士浅間社では御山開きが執り行われ、江戸の街では揃いの白行衣を着た富士講の集団が続々と吉田に向かって出立していた。

 三志からの知らせは、最初に詫び文より始まっていた。
 吉田の百姓衆、吉田御師の寄合、それに吉田を管轄する谷村やむら代官所のそれぞれに女人登拝の伺いをたてたところ、許可そのものはすんなり出たものの幾つかの条件が課されることになったという。

「華美な装束は避けること、音曲の類を用いぬこと、饗宴など催さぬこと……」

 文面に並べられた条件を流し読んでいったが、いずれも『なるべく騒がず、目立たずに』登拝するよう求めるものであった。辰としては、もっと厳しい条件があるものと思っていただけに拍子抜けした気分である。
 但し、最後に記された登拝の決行日だけが、いささか気になった。

「……長月、二十六日……?」

 それは、富士の閉山を告げる火祭りを終えておよそ一ヶ月後のこと。
 人目を忍ぶため選ばれたその日程は、里では稲の刈り取りが行われて枯れ田の目立つ季節であり──富士の高嶺では烈風と共に小雪が舞うとされる時期である。

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