富嶽を駆けよ

有馬桓次郎

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三.甲州上吉田

(一)

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 遠く丹沢たんざわの方角から流れてきた微風が、江戸の町に吹き込んでいる。

 微かに焦げ臭さを感じるのは、武蔵野むさしのの田畑で籾殻もみがらを焼く煙が風に乗って流れ込んでいるのかもしれない。
 天はどこまでも蒼く高く、篠笛しのぶえのようにいななく一羽のとびが緩やかな弧を描きながら飛んでいた。

 長月の、二十二日である。
 辰が吉田へと旅立つこの日、江戸は朝から爽やかな秋の空気に包まれていた。日本橋を往来する人々は誰もがせわしく、飛び交う秋茜あきあかねを払いながら足早に歩いていく様は、ひたひたと迫り来る冬の気配から逃げ出そうとしているかのようだった。

「まさか、世迷言がまことになろうとは……」

 本日、もう何度目か判らない養父の十兵衛のぼやきが聞こえてくる。登拝が決まった二ヶ月前から、ずっとこの調子である。
 最初こそ十兵衛がぼやく度に微かな達成感を得ていた辰だったが、それが二ヶ月も続くといい加減うんざりもする。
 辰は気付かれぬよう、そっと溜息をついた。

「忘れ物が無いか、ちゃんと調べましたか?」

 その点、養母の静は肝が据わっていた。
 見る限りでは普段と変わらず、微笑を湛えたまま旅装の辰と向かい合っている。流石は本にうつつを抜かす主に代わって、忙しい鎌倉屋を切り盛りする女傑といえよう。

「はい。昨日、万次郎さまと二人でしっかり確認しましたので」

 その言葉へ笑って頷いた静は、改めて六歳下の娘の頭から爪先までを見返した。

「それにしても、富士という所はそんな気楽な格好でも登れる場所なのですね」

 確かに、辰の装束はいささか軽装に過ぎる。 
 つい一ヶ月ほど前まで、江戸の市中では腰帯に結わえた鈴を鳴らしながら、手に手に金剛杖こんごうづえを持った富士講の集団が先達を頭に旅立っていく様が見られた。
 頭を厳重にさらしで巻きあげ、道具一切を収めた背負子しょいこを担いだ先達の旅姿は、富士の御山がいかに辛く厳しい場所なのかを想像させるに十分だったのだ。

 だが、今日の辰は薄手の小袖の上から道中着を羽織っているに過ぎない。
 かろうじて旅を想像させるものは、手に提げた菅笠と杖だけだ。これが日光参りでも、もう少しはしっかりした装束をするであろう軽装だった。

 辰は苦笑しながら、袖を摘んで広げてみせた。

「いえ、この姿なのは麓の吉田までです。登拝の装束は、すべて向こうで御用意いただけると」
「ならば、小谷さまへの礼の一つもせねばなるまい。道中も何かと入用いりようがあろうし、もう少し金子を……」

 そう言って、十兵衛は袖口から銭入れを出そうとする。
 辰は万次郎と二人して、十兵衛を押し留めねばならなかった。こんな人通りの多いところで銭入れを出そうものなら、いつ掏摸すりに狙われるか判ったものではない。

「ご案じ下さいますな。事前に伝えていた他に一切の金子は無用、と小谷さまからは言付かっておりますし、吉田までの道中で必要が生じたとしても、その際は私の懐から出しますので」

 そう言って十兵衛をなだめる万次郎もまた、軽めの旅装をしている。
 流石に長脇差を提げることはしなくなったが、短い匕首あいくちを腰帯に挿しているのは山深い甲州路を往く備えの様なものだろう。

 大磯へ行った時と同じく、今回もまた万次郎が途中まで同道する。辰が登拝している間、万次郎は山麓の吉田で帰還を待つ予定だった。
 今回は、途中の日野ひの小原おばら猿橋さるはしでそれぞれ一泊し、四日目に吉田へ入るという余裕のある旅程を立てている。登拝前にできるだけ体力を温存しておきたいが故の旅程だったが、これなら体力にいささか不安のある万次郎でも吉田まで十分に辿り着けるはずだ。

 ちなみに、女旅で必要な道中手形、関所手形は、名主庄屋である万次郎の家が全て揃えてくれた。やたら気の利く所がある万次郎が、早手回しに手形を用意してくれていたのだ。
 思えば、三志を紹介してくれたり、大磯までの早駆けに付き合ってくれたり、今回はまた手形を揃えるばかりか吉田まで同道してくれるなど、万次郎には世話になりっ放しだ。
 自分の大願を手助けするということは祝言が遅れるということなのに、一体どうして万次郎は、これほど親身になって手伝ってくれるのだろう?
 今更ながら、辰はそんなことを考えている。
  
 十兵衛は、深々と嘆息した。

「……辰。この期に及んで、富士登拝を止めよとは言わん。だが、くれぐれも小谷さま達御一行や、何より吉田まで同道する万次郎どのに迷惑をかけるでないぞ」

 今更の念押しに、辰はこっくりと頷いた。

「重々、心に留めております」
「あまり無茶を申さぬようにせよ。やれ古刹が見たい、旨い飯が食いたい、等という手前勝手な願いは道中で一切出来ぬものと心得よ」
「富士へ登ることさえ叶うのならば、私としては求めるものは何もありません」
「そも、お前は二十五にもなって童のような気分が抜けぬ女子おなごだ。せめてこの旅の間だけでも、年相応に落ち着いてだな……」
「判っております、判っておりますから!」

 ──あーもう、しつこい!!
 いつまでも続く小言に癇癪かんしゃくを起こして、辰は両親に背を向けた。そのまま先立って日本橋を後にしようとする。

「行きましょう、万次郎さま。もたもたしていると日が暮れてしまいます」
「待て、あと一つ、あと一つだけだ!」

 後ろから追いかけてきた声に、辰はうんざりしながら振り返った。
 日本橋の雑踏を背景に、十兵衛が焦燥と懊悩がない混ぜになったような表情で固まっている。

 ──そういえば。
 そういえば、養父の顔をはっきりと見たのは、今日はこれが初めてのような気がする。もしかすると養父は、最初からずっとこんな表情を浮かべていたのかもしれない。

 十兵衛は一呼吸置くと、落ち着いた声音で告げた。

「……無事に、江戸まで帰ってこい。もしもの事があったとて、多少の傷が残る程度なら看過もしよう。必ずや無事に、豊島町の家へ帰ってくるのだ。お静と二人で、お前が戻るのを待っておるからな」

 この不器用な養父は、決して嫌がらせのためとか、辰が女であるからとか、そのような理由で富士登拝に反対していた訳じゃない。
 その理由がはっきりと伝わってきて、辰は朝日に負けぬほど明るい笑顔で頷いた。

「──はい、行って参ります!」
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