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2 踏み出した一歩

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 引越してきてからすぐに、私は市役所に相談に行った。
 保育園の空きが1枠あったので、さっそく入園を決めた。
 10月からの入園に向け、就職活動をすると、運よく隣町の事業所の事務員としての就職が決まった。

 これから頑張らないと。
 一人でも生きていけるように。

 新たな想いを新たな地で誓い、ようやく一歩踏み出せたと安堵する。

 けれど、まだまだだ。
 今はまだ、親のすねをかじって生きている、自立のできていない大人と同じ。
 何もできない、魅力もない、ダメ人間からの脱却は、まだまだ遠い先のような気もしてしまう。

 ふう、とため息を意気込みに無理やり変えて、私は入園準備を進めた。

 *

 それから、あっという間に1か月が過ぎた。
 慣らし保育も順調に進み、私も仕事に慣れてきた。
 忙しい毎日の中、家に帰ると母がご飯を作って待っていてくれる。

 本当は、家事も全部自分でやるべき。

 そう思うけれど、今は後ろ向きになりたくなくて、甘えている事実を受け入れている。
 できることから、少しずつ着実に。

「いいのよ、いつまでもここにいてくれて」

 なんて母は言うけれど、お金がたまったら、ここを出るつもりだ。

 ちゃんと一人でも、息子を抱えて生きていけるように。
 それは忘れてはいけない、私の人間としての、母としての誓いだ。


 仕事の休みだった10月最後の日曜日。
 はたらくくるま好きな息子を連れて、図書館にやってきた。

 というのも、保育園で息子はしきりに子供向けの『はたらくくるまずかん』をじっと見ていると聞いたからだ。
 息子の“好き”の芽はつぶさずに、育ててあげたい。
 ダメな人間かもしれないけれど、母親として、息子の気持ちは大事にしてあげたいと思う。

 中高生の頃は、ここでよく勉強したななどと思い出す。
 そんな私にとっては懐かしい図書館だが、息子は初めてだ。
 ぴくりとも動かない息子を仕方なく抱き抱え、絵本のコーナーへを足を向けた。

 日曜の午前中だからか、絵本コーナーに他に人はいない。
 靴を脱がせてやると、息子はそこに置かれた本たちの方にそっと歩み寄ってゆく。
 私も靴を脱いでいると、息子はすでに何かの本を床に広げて、その前に座りぺらぺらとページをめくっていた。

「ポンプ車、あったー!」

 その大声に、思わず「しー!」と指を口の前で立て、慌てて息子の方へ駆け寄った。
 息子が見ていたのは、案の定『はたらくくるまずかん』。
 どこから見つけてきたのだろう。子供の“好き”は恐ろしい。

 けれど、息子は相変わらず「これはー、化学車!」「これはー、救急車ー!」など知識を披露するように大声を出す。

 この本だけ借りて、さっさと帰ろう。
 そう思い、ずかんをパタンと閉じた。

「借りて帰ろうね」

 けれど。

「ダメ! 帰る、ダメ! ダーメ―!」

 息子は大声を出し、泣きながら、私が手にしたずかんを奪い取る。

「見るー! くるま、見るー!」

 泣きながら、先ほどの体勢に持っていこうとする。

 私が手を焼いている、最近の息子の行動。
 俗にいう、イヤイヤ期というやつだろう。

 ため息をこぼし、「お家に持って帰ってみようね」と提案するように言うも、息子はううんと首を横に振る。

「でも、図書館でうるさくしたらダメなの。お家なら、大きな声出してもいいから……」

「ダメー! ダメダメダメー!」

 また出した大声に、暴れ出す息子。
 私の中のイライラのゲージも、振り切れそうになる。

「もう、静かにしなさい!」

 言っても仕方ないと分かっていても、つい声が出てしまう。
 息子から本を奪い取り、息子の靴をさっと鞄にしまう。そのまま暴れる息子を抱えて、貸出カウンターへと向かった。

 貸出手続きをしている間も、息子はずっと暴れながら「ダメー!」と叫ぶ。
 その度に周りの目が気になり、こんな母親でごめんなさいと周囲に申し訳なくなる。

 私がもっとちゃんとしていれば。
 余裕がある母親なら、こんな風にはならないかもしれないけれど――。

 悔しくて、不甲斐なくて、目頭がかっと熱くなる。
 ああ、ダメだ。
 こんなことで泣いてしまいそうになるなんて。

 ぐっと奥歯を噛み占めながら、自動貸し出し機で手続きを終えて本を鞄に仕舞おうと思った時だった。

「お子さん、消防車お好きなんですか?」

 職員らしい女性に、不意に声を掛けられた。
 はっとして、「うるさくしてすみません」と慌てて謝る。

「いえいえ。いいのよ、元気がいいのはちゃんと育っている証拠」

 彼女はニコニコしながら、息子にとあるチラシを手渡してくれた。

「これ、知ってます? 今度そこの公園でやる、市民祭りなんだけれど」

 聞かれながら、思わず涙が溢れてしまった。

「すみません」と言おうとして、息子が「ポンプ車ー!」と先に声を上げた。

「こら、シーって言ったでしょ!」

 小声でしかるけれど、息子のイヤイヤがすっかり収まっていることに気づいた。

「いいんですよ、このくらい」

 女性は言いながら、息子の指差した先を辿る。

「そうだね、消防ポンプ車だね。すごいね、良く知ってるね」

 息子は言われて、得意げに微笑んで、でも恥ずかしかったのか私の胸に顔をうずめてしまった。

 女性は息子のそんな様子にふふっと微笑み、私に微笑みを向けてくれた。

「ミニポンプ車に乗れるイベントもあるんです。お母さんの気分転換にもなると思うし、お子さんすごく好きそうだなと思ってお声かけさせてもらったんですけれど。――ご迷惑だったかしら?」

「いえ……」

 また涙が溢れそうになって、慌てて「ありがとうございます」とお礼を伝えて図書館を出た。

「ママ、ポンプ車! 行く!」

 腕の中で、すっかりご機嫌になった息子がそう言ってチラシを握り締めていた。

 *

 そうしてやってきた市民祭り。
 消防署が参加しているのは、秋の火災予防運動の一環らしい。

 乗れるというミニポンプ車だけでなく、水槽付きのポンプ車や災害救助車も停まっていて、それを見ただけで息子のテンションはだだ上がりである。

「わー、キャー!」

 抱っこした私の腕の中で、息子は奇声を発した。
 けれど、一番の目玉はやはりミニポンプ車への乗車体験と記念撮影らしい。
 たくさんの子供たちが、その列に並んでいる。

颯麻そうまも並ぼうか?」

「ポンプ車、乗るー!」

 息子はそう言って、たたっとミニポンプ車に走っていく。

「違うー! 並ぶんだよーっ!」

 私はへとへとになりながら、何とか息子を捕まえて列の最後尾に並んだ。
 まさかこの後、元カレとの運命の再会が待っているなんて思わずに――。
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