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伊佐ヅカ

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第六話:Break the Blue Line

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台風が過ぎた朝、窓の外は嘘みたいに澄みきった青空だった。
湊にキスされた衝撃で、一睡もできなかった僕とは対照的に、彼はよく眠れたらしく、カラッとした笑顔で部屋を出ていった。

「食料は置いとくから。次からはちゃんと一週間分、備蓄しておくこと!」
どっちが先生なんだか、わからなくなる。


変に意識してしまった僕と違って、本当にあの日、何もなかったかのように湊は振舞う。

元々距離感が近くて、ボディータッチも多い湊。

今日は、その場のノリでふいに後ろから抱きしめられて、「ひっ」っと声が漏れてしまった。
拒絶する僕を、一緒にいた木村が揶揄って、その場は笑って済まされたが変じゃなかっただろうか。

プリントを手渡すときに、ふいに触れた指先。
何気なく肩に置かれた手。
それだけで、湊を“男”として意識してしまう自分がいる。
変だ。おかしい。なのに、どうしようもない。

「あー、佐伯先生。大丈夫ですか?」

やらかした自分を思い出して、廊下で突然小さくなった僕に、清水先生は怪訝そうに話しかけた。

「ああ、そういえば我妻の進路の話、どうですか?」

「まだ、平行線ですね。」

食料備蓄のお礼がてら、我妻のご両親とは話をした。
やはり、実家の民宿を継いだとして”何か”があった時、職業、働き方、生きていく土地、色んなことを選べる状態であって欲しいという親心は変わらなかった。
ただ、それは高校卒業時に限定せずとも、働いているうちに外を見たくなったでもいいと、一定の譲歩は見られた。
湊の方は、相変わらず頑なだが。

「そうか、九月の末までには固めたいところだな。…引き続き、我妻のことを頼みます。」

そうだ、今は個人的感情に振り回されている場合じゃない。
夏休みを終えた今、高校三年生にとっては最も大事な時期を迎える。

自分自身に活を入れて、放課後の人気のなくなった教室へ戻る。
古典の時間に使った、源氏物語の資料集が出しっ放しになっていた。
十五人分の資料集は、なかなかの重さだ。
次回の授業でも使用するため、教室の棚へ収納しようと資料集が入った段ボールを持ち上げる。
椅子を取りに行くのが面倒で、無理やり頭の上まで持ち上げた、そのとき——
不意に、段ボールの重みがふっと消えた。

「これ、そこの棚に入れればいい?」

そう言って、湊は軽々と棚に収めた。
ニコリと笑うと、端正な顔なのに目尻が下がって、どこか無防備なやさしさがにじみ出る。
頭一つ分高い湊が近づくと、潮風のような香りがふわりと鼻をかすめた。
がっしりとした胸板と肩幅。思わず、呼吸が浅くなる。

驚いて飛びのいた拍子に、背中を棚にしこたま打ちつけた。
湊と棚の間に挟まれて、僕は逃げ場を失った。

「きよ先生、……最近変だよ。俺のこと、避けてる?」

「…そ、そんなこと…。」

動揺しながら、誤魔化そうとする僕を、湊はぎゅっと抱き留めた。

「…きよちゃん、やっぱりあの夜、起きていたでしょ?」

囁く声は、艶のある男の声だった。

「っっつ。」

息を飲む僕のそれは肯定でしかない。

「きよちゃん、きよちゃんのことが好きなんだ。」

抱きしめられていて、表情は見えないけれど気が付いてしまった。
その抱きしめる腕が、微かに震えていることに。

あの日の僕がそうだったように、今湊は精一杯の勇気を振り絞って、その気持ちを伝えてくれているのだろう。
抱きしめてやりたくて、背中に回そうとした腕を寸前で止める。

ダメだ。
答えたら、ダメだ。

俺は教師で、この子は生徒だ。

ここがどんなに居心地のいい場所なのか、知ってる。
彼は、冗談で告白をしてくるような子ではないことを知っている。

「俺は。男だよ。」
「知ってる。…先生の元恋人が、男だってこともわかってる。」

湊が腕の力を緩めて、互いに顔の見える距離になる。
その顔は、不安で泣きだしそうで、必死な顔をしていた。

「男同士なんて、辞めておけ。可能なら、始めから”普通”の人を好きになれ。」

「俺は、あんたの元恋人じゃない。」

「わかっていて、茨の道を歩ませる奴があるか。」

「誰に何を言われたって、俺は気にしない。きよちゃんがいれば、いい。」

拒絶の言葉に、縋るように湊の腕に力が入る。

「もう一度、捨てられたら、僕はきっと立ち直れない。お前は若い。いつか、女の方がいいって気が付くだろう。いつか、こんなおっさんより若い子がいいって気が付くよ。いつか、当たり前の家庭が築きたいって思うだろう。今は、父島って小さな島で、たまたま弱っていた僕に優しくして、勘違いしているだけだ。色んな人に逢えば、心変わりするかもしれない。この広い世界に、君の運命の人は他にいるよ。」

情けないけど、これは偽りのない僕の本音だ。

「ねぇ、どうして俺を愛してくれないの?」

ぽろぽろと今日は、湊の頬に涙が伝う。

「…あ、愛してやりたいよ。…こんな弱い僕で、ごめん。」

同性だとか、教師と生徒だとか、色々な障害より、全ては僕の弱さだ。
愛してやりたい。
見返りを求めている訳じゃない。
その愛を否定された時、もう僕は立っていられない。
湊が、優しくて、いい奴で、愛しいからこそ、無理だった。

湊は何も言わずに、教室を飛びだして行った。

 
その日から、湊は僕の部屋に上がらなくなった。

適切なお弁当の配達員と客の距離。

学校生活でも、表面上の変化はない。

先生と生徒――。

それ以上でも、それ以下でもない。

……僕が望んだ関係。


ジージジというオガサワラゼミの独特な鳴き声が響き、海じまいがされる九月下旬。
湊へどう接していいかわからない僕は、彼の進路相談をどうするべきか手をこまねいていた。
腹を割って、進路の相談をするどころではない。
清水先生へ相談すべきか。

職員室の机で悩んでいる僕に、清水先生は嬉しそうに声を掛けた。

「佐伯先生、我妻すごいっすね。」

丁度今、思い悩んでいた名前が出て、ドキリと肩が跳ねる。

「一念発起したのか、都内の外資系ホテルの就職を希望しましたよ。」

「我妻がですか?」

声が少し上ずっていた。

そんな話、聞いていない。
一番近くにいたはずなのに。
まるで、僕の知らないところで、彼が遠くへ行ってしまうような——そんな感覚が胸にひび割れを作った。

「はい。」

清水先生は、何の疑問もなく頷く。

「あいつ、英検準一級持っているし、外資系いいっすね。さすが、佐伯先生の指導だ。」

笑ってバンバン僕の肩を豪快に叩く。

「あー、一時はどうなることかと思ったが、我妻は前向きだし、よかった。」

本当に、良かったのか?
今すぐにでも本人に訊きたい。
この決断に、僕は本当に何の関係もないのか。

その夜、お弁当を持ってきた湊の顔を見た瞬間、気持ちが溢れ出した。
理由も聞かずに「よかった」と笑えない。
あんなにこの島を愛していた君が、どうして。

「ちょっと……来て。」
有無を言わさず、腕をつかんで部屋に引きずり込む。

「え、なに、なに? きよちゃん?」

「どうして…都内のホテルに就職するなんて言い出したんだ。」
声が震えていた。
湊の目が驚きで見開かれるのが分かっていたのに、抑えられなかった。

「……ねぇ、きよちゃん。きよちゃんは、俺のこと好きだろ。」

「…はぁっ?」

驚く程に自意識過剰な発言なのに、言葉にした本人が一番照れて、子供みたいに頬を赤く染め、後ろ髪をかきながら目を逸らした。

「きよちゃんは、俺のことが好きだよ。自分で思ってるより、ずっと。…でも信じるのが怖くて、逃げてる。」

「……。」

…そうだよ。

「だから、きよちゃんの二年を俺にちょうだい。」

湊の眼差しは澄んでいて、本気の目をしていた。

「ちゃんと、外の世界を見て来るよ。色んな人に出会って、色んな場所に行って、それでもきよちゃんが好きって言うよ。どこでも、逞しく生きていける男になるよ。…今は、恋人でも何でもないから、きよちゃんを縛る権利なんてないけど…待っていて欲しい。」

段々と声が小さくなっていき、湊は潤んだ瞳で見上げながら、自信なさげに肩を落とす。耳と尻尾が垂れてしまいそうな、子犬みたいな顔をしていた。

「きよちゃんの横に誰かがいるなんて、俺、想像しただけで無理だよ。…お願い……お願いしますっっ。」

「ふっ、ははっ。」

なんて可愛いいんだ。なんて愛おしい。

「こんな僕に、好きだって言うのは君ぐらいだよ。狭い島だ、そんなに出会いもないだろう。」

笑い飛ばす僕を、湊は繋ぎとめるように必死に抱きしめる。

「でも、俺は出会ったよ。」

その、掠れた声には、切実で押し殺したような響きがあった。

そうだ、僕はこの島で君に出会った。

もう、認めよう。
教師と生徒とか男同士とか、関係なく僕は湊が好きだ。
今は答えてやれないけど、愛してる。

僕は、ゆっくりと湊の背中を抱き返した。

「いいよ。二年、待ってる。」

「ああ、きよちゃん…。」

「でも、離れている間に、他に好きな人が出来たら、すぐに言ってくれよ。」

僕の腕の中の君は、あと半年で島を離れていくのか。
今ならまだ、きっと君を放してやれる。
これが僕が譲ってやれる限界だった。

「…うんっ。」

そんなことにはならないと、言うように、湊は僕を強く抱きしめた。
抱きしめる腕に、湊の熱がこもる。怖いくらい、真っ直ぐに。


体温が近い。
それだけで、理性がぐらつく。

湊の顔がそっと傾いた。
唇が触れる寸前で——僕はその唇を掌で抑えた。

「駄目だ…今はまだ、僕は教師で君は生徒だ。」

思わず、声が強くなった。

湊はぽかんと目を見開いて、それから少しだけ頬を赤らめた。

「……あ、ごめん。なんか、流れでいけるかなって……。」

本気で止められるなんて思ってなかったという顔で、ちょこんと小首をかしげる。まるで“叱られ子犬”の演技だ。

「きよちゃんも、好きでいてくれるって思ったら嬉しくて。」

へへへって、子供みたいな締まりのない顔で笑った。
なんで、そんな顔するんだよ。
…自覚している。僕は湊に甘えられると弱い。

スンスンと甘えるように、僕の首元に顔を擦り寄せたかと思えば——
次の瞬間、熱い唇が、肌に触れた。

「もうっ、何だよ。」

気安い雰囲気に油断していると、首筋に唇が落とされ、シャツの間から湊の熱い手が素肌に触れた。
覚えのある感覚に、ゾクゾクと肌が粟立つ。

「こらっ、そういうのは駄目だぞ。」

真っ赤になって、不埒な手を摘まむ。

「きよちゃん、じゃあ、キスは許してよ。きよちゃんに触れたいよ。」

デカい身体を小さくして、潤んだ瞳で上目遣いでお願いされる。

「……じゃぁ、キスまでな。それ以上は、絶対にダメだぞ。」

…うん?キスもダメなんじゃと思わなくもないが…。

許可がおりて、湊は蕩けるよな笑顔で僕の顔を覗き込んだ。
今から、湊の薄い唇が触れるかと思うと、気恥ずかしさに顔が火照る。

「大好きだよ、きよちゃん。」

湊の広い胸に抱かれて、瞳を閉じると、湊らしい、優しく触れるだけのキスが降らされる。
まるで、約束のように。
あまりの愛おしさに、本当に手放せるのかとぼんやり自問自答した。



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