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第二章 ヘルゼン伯爵家の悪妻
33 悪妻の誕生
しおりを挟む「ジャンヌ!ジャンヌはどこなの……!?」
屋敷中、果ては中庭あたりまで聞こえそうな大きな声を耳にして、私は鏡から目を離した。すぐさまドアノブをガチャガチャと捻る音がして、よく知っている顔が覗く。
「あぁ……なんということ、どういうことなの、貴女はいったいどうしたっていうの……!??」
「何かあったのですか?」
「何かあったじゃないわよ……!!」
震える骨ばった手が私の顔を指差した。
怯えるような目を見つめる。
「その顔はなに!?」
「私の顔に何か付いていますか?」
笑顔を返せば、ペチュニアはもう爆発せんばかりの剣幕で口を開いた。視界の隅では縮み上がるメイドたちの姿が目に入る。
「ヘルゼンの嫁ともあろう女が、どうしてそんな娼婦のような身なりをしているの……!胸を強調し過ぎだわ、それに下品な紅を付けて……!!」
「これは友人からのプレゼントなんです」
「類は友を呼ぶのね!」
言葉は返さずに私は唇を合わせて塗ったばかりの口紅が全体に広がるようにした。せっかく綺麗にめかし込んだのだから、手を抜いてはいけない。
鏡の中をもう一度覗いて仕上がりを確かめる。
くるくると巻いてみた黒髪は、いつものストレートよりも動きがあって気に入った。宿舎から帰って来たイーサンはいったいどんな反応を見せてくれるだろう。楽しみで仕方ない。
「私、駅までイーサンを迎えに行きます」
「おやめなさい……!ヘルゼンの恥だわ、こんな女が息子の嫁だなんて……!!クレモルン男爵が見たらなんて仰るかしら」
「………さぁ。褒めてくれるのでは?」
ボソッと呟いた言葉は聞こえなかったようで、ペチュニアは卒倒しそうな勢いで騒ぎ立てていた。
実際、義母の反応は過剰だと思う。
普段の私が特別地味だったから変化が大きく感じるだけで、半裸で歩いているわけでなければ、下着が見えるほどの短いドレスを着ているということもない。自分のことは棚に上げて、と私は息を吐いた。
喚き続ける義母を横目に、私は小さな鞄に少しの荷物を詰めて部屋を出た。駅まで夫を迎えに行ってみるのも、たまには良いかもしれない。
◇◇◇
驚いたように目を丸くした後、鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔でしばらくイーサンは黙り込んだ。私はもう一度夫の名前を呼ぶ。しっかり、はっきりと、彼の聞き間違いではないと分かるように。
「ジャンヌ……?ジャンヌなのか?」
「他にどなたが待っているというの。一週間ぶりに会う妻の顔を忘れるとでも?」
「いや、随分と雰囲気が………」
「せっかく商会のお仕事を手伝うことになったから、少し見た目にも気を遣おうかと思って」
「あぁ、なるほど………」
上から下まで疑り深く観察した後、イーサンは私の方へと顔を寄せた。
「驚いたよ。誰か良い人でも出来たのかと思った」
「どうして?」
「ほら、言うじゃないか。恋をすると何とやらってね。好きな相手の好みに合わせて服装を変えたりするんだろう?」
「貴女はそういうタイプなのね」
何気なく返した言葉だったが、イーサンは盛大に咽せた。私は気付かないフリをしてタクシーを呼び止める。すぐに停車してくれたので、乗り込みながら頭の中では記憶を辿った。
私と付き合いだしてイーサンの服の系統が変わったことは果たしてあっただろうか。
最初のうちは男性と付き合うということ自体に緊張していて、あまり覚えていない。加えてイーサンは父の雇用主であるヘルゼン伯爵の一人息子だったから、とにかくヘマをしないように気を付けていた。
恋心はよく分からなかったけれど、自分を好いてくれる相手がいることは嬉しかったし、婚約を申し込まれたときは信じられなかった。話を持って来た父ダフマンに何度も確認したのは記憶に新しい。
「ねぇ、イーサン。新しい私はどうかしら?」
隣に腰掛ける夫の目を見て問い掛ける。
イーサンは面食らったように息を呑んで、しかしすぐに私の腰に手を回した。近くなった距離に身体が身構える。
「悪くないね。正直僕は物足りないと思っていたんだ。君はなんていうか……真面目過ぎたから、もう少し自由な方が僕は好きだよ」
「あら、そう?気に入ってくれてよかった」
「大満足さ」
鼻歌を歌いそうな上機嫌で、イーサンはこの一週間の出来事を話し始める。騎士団の中で自分がどれほど実力があるか、部隊長にどんなお褒めの言葉を授かったかなどなど。
あぁ、本当によかった。
何の違和感も抱かずに受け入れてくれて。
これで躊躇せずに変わっていくことができる。イーサンの好みに合った自由な女になるのだから、きっと文句は言わないはず。手を叩いて喜んでくれたって良い。
お望み通りの、悪妻の誕生を。
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