8 / 36
2
しおりを挟む
「陽子は幸せですよ。旦那様に拾っていただいて。そうじゃなかったら、きっとどこかで野垂れ死んでいましたから。」
陽子は、ひどく尊いものでも見るみたいに、両目をそっと細めた。その視線の先にあるのは、ただの電車の窓なのに、それでも。
旦那様に拾っていただいて。
夕はその言葉を聞いて、陽子がうちにやってきた日のことを思い出した。
夕が大学の講義を終えて帰ると、襖を開きっぱなしにした客間に父と母と陽子がいた。陽子は少しうつむき、父の隣に小さくなって座っていた。
木目のテーブルを挟んで向かい側に座る母は、いつもと変わらない、冷え切った無表情をしていた。
夕は、また父が愛人を連れてきたのかと思った。陽子からはまだ女の匂いがしなかったけれど、藤が屋敷に連れてこられたのも、目の前の陽子と同じような年齢の頃だった。
とんだ悪趣味だ。それをわざわざ母のもとに連れてくるところも。
そう思った夕は、そのまま客間の前を通り過ぎ、自室に向かった。
そして翌日、目を覚まして身支度を整え、学校に行こうと廊下に出ると、陽子が紺色のお仕着せを着て、廊下の水拭きをしていた。
夕は自分の勘違いに気が付き、思わず苦笑した。すると陽子がこちらを向き、なにを笑っているんですか? と問うてきた。
いつも機嫌が悪い坊ちゃんを薄っすらと恐れている、他の女中たちとは全く違う態度だった。
夕は、なんでもないよ、とだけ言って玄関で靴を引っ掛け、学校に向かった。
車窓の景色を眺めていた陽子が、ふとこちらを向いた。
「あのとき、夕さまは、陽子のことも愛人だと思っていたのでしょう?」
それは、疑問形というよりは、ただの確認だった。
夕はあの日と同じ苦笑を返した。
「旦那さまの愛人は、藤さんだけですよ。」
陽子がするりと言葉を紡ぐ。
「陽子がどんなに望んだって、女中止まりです。3号さんにもなれません。」
「え?……望んだ、のか?」
「ものの例えですよ。」
陽子は笑ったけれど、夕には陽子の言葉が信用できなかった。
ものの例えではなく、陽子の本心は、他のところにあるのではないかと。
「……藤が、羨ましいか?」
「いいえ。陽子には無理ですから。お屋敷の中でじっとしているだけなんて。」
夕は、それ以上言葉が接げなくなって黙った。
陽子は、静かに微笑んだまま車窓を行き過ぎる景色を眺めていた。
はじめは山や森ばかりだった景色が、いつの間にか住宅街に変わっている。
陽子は、ひどく尊いものでも見るみたいに、両目をそっと細めた。その視線の先にあるのは、ただの電車の窓なのに、それでも。
旦那様に拾っていただいて。
夕はその言葉を聞いて、陽子がうちにやってきた日のことを思い出した。
夕が大学の講義を終えて帰ると、襖を開きっぱなしにした客間に父と母と陽子がいた。陽子は少しうつむき、父の隣に小さくなって座っていた。
木目のテーブルを挟んで向かい側に座る母は、いつもと変わらない、冷え切った無表情をしていた。
夕は、また父が愛人を連れてきたのかと思った。陽子からはまだ女の匂いがしなかったけれど、藤が屋敷に連れてこられたのも、目の前の陽子と同じような年齢の頃だった。
とんだ悪趣味だ。それをわざわざ母のもとに連れてくるところも。
そう思った夕は、そのまま客間の前を通り過ぎ、自室に向かった。
そして翌日、目を覚まして身支度を整え、学校に行こうと廊下に出ると、陽子が紺色のお仕着せを着て、廊下の水拭きをしていた。
夕は自分の勘違いに気が付き、思わず苦笑した。すると陽子がこちらを向き、なにを笑っているんですか? と問うてきた。
いつも機嫌が悪い坊ちゃんを薄っすらと恐れている、他の女中たちとは全く違う態度だった。
夕は、なんでもないよ、とだけ言って玄関で靴を引っ掛け、学校に向かった。
車窓の景色を眺めていた陽子が、ふとこちらを向いた。
「あのとき、夕さまは、陽子のことも愛人だと思っていたのでしょう?」
それは、疑問形というよりは、ただの確認だった。
夕はあの日と同じ苦笑を返した。
「旦那さまの愛人は、藤さんだけですよ。」
陽子がするりと言葉を紡ぐ。
「陽子がどんなに望んだって、女中止まりです。3号さんにもなれません。」
「え?……望んだ、のか?」
「ものの例えですよ。」
陽子は笑ったけれど、夕には陽子の言葉が信用できなかった。
ものの例えではなく、陽子の本心は、他のところにあるのではないかと。
「……藤が、羨ましいか?」
「いいえ。陽子には無理ですから。お屋敷の中でじっとしているだけなんて。」
夕は、それ以上言葉が接げなくなって黙った。
陽子は、静かに微笑んだまま車窓を行き過ぎる景色を眺めていた。
はじめは山や森ばかりだった景色が、いつの間にか住宅街に変わっている。
10
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
窓のない部屋の、陽だまりみたいな君
MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。
そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。
そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。
完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。
「五分だけ、ここにいさせてくれないか」
一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。
次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。
住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる