美里

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窓の外をしばらく黙って眺めていた陽子が、また唐突に口を開く。
 「びっくりしましたか? 陽子がここに来た訳を聞いて。」
 夕は面食らったが、素直に頷いた。
 「驚いたよ。……陽子は、幸せの中にいる気がしてた。いつも明るいからかな。」
 すると陽子は、いつものように笑ったまま、冗談交じりみたいな口調で言った。
 「自分ひとりで覚えたんですよ。幸せごっこ。」
 幸せごっこ。
 ひどく寂しい言葉だと思った。
 陽子はさらに言葉を継ぐ。
 「だから陽子は、ちょっとだけ藤さん贔屓なんですよ。……多分、会ったこともないけど、なんとなく、藤さんも同じ気がするから。」
 夕は言葉を失い、ただじっと陽子を見た。
 かつて藤が、幸せですよ、と囁いたのを思い出したのだ。
 あれは、父親に届けものかなにかがあって、中学生だった夕が屋敷を訪れたときだ。
 最低限のやりとりで用事を済ませ、夕はそのまま別宅に帰ろうとしていた。
 すると、通りかかった離れの前で、藤が打ち水をしていた。その水が、夕の半ズボンの裾を濡らしたのだ。
 「あ、」
 声を漏らしたのは二人同時だった。
 「申し訳ありません。」
 藤は、ひどく恐縮した様子で、夕の前にかがみ込んだ。ズボンの濡れ具合を確認しようとしたのだろう。
 夕は、てんぱってばたばたと後ずさった。
 久しぶりに見る藤は、相変わらず、生身の人間とは思えないほどうつくしかった。
 白地に藤の柄がついた浴衣の襟元から除く項が、長くて白く、夕の目に焼き付いた。
 「乾くまで離れでお休み下さい。……この天気なら、きっとすぐに乾くでしょうから。」
 その日は、空を青色の絵の具一色で塗りつぶしたような、まっさらな晴天だった。
 「帰ります。歩いているうちに乾くから。」
 そう言って、夕はその場から駆け出そうとした。
 離れには行ってはいけない気がした。そこには、夕が見てはいけないものがある気が。
 すると、藤の女より繊細な右手が、夕の腕を掴んで引き止めた。当たり前といえば当たり前なのだが、その力は大人の男のもので、夕は、視覚情報と腕に掛かる力とのギャップに驚いて立ちすくんだ。
 左の手で、少し長めの髪をかきあげながら、藤は静かに言った。
 「離れに入るのがお嫌なら、どうか縁側まででも。冷たいお茶とお菓子を差し上げますから。」
 かき揚げた手の影になった左目が、深い藤色に見えた。
 夕は、その色に引き込まれるように、藤について離れの縁側へ上がった。藤の背中は、揺れる柳のようにしなやかに痩せていた。
 
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