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妃嬪の徴証
追憶の面影④
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「君は今日からこの宮で、徳妃様の侍女として働いてもらうことで話が付いたよ。帝姫様も二つ返事でご了承くださった」
「じ、侍女だと……? 誰がっ!」
「君がさ」
思いもよらないことに白狼は絶句した。
そんな提案をあっさり飲むなど、乗り込んできたのが銀月だと確信してしまったからだ。身代わりの黒花であれば宮に提案を持ち帰るくらいのことはするだろう。なんて危ないことを、と自分を棚に上げる。
そしてそれと同時に胸にひやりとしたものが走った。
――自分は、銀月に不要とみなされたのか。
何も相談せずに乗り込んでこんな騒動になればそれもあり得る。そもそも生粋の側近ではない、拾われただけの自分など帝姫としての銀月ならば切り捨てることも厭わないはずだ。
以前、隠れて皇帝と逢引きをしていた女官が殺されたときもそうだった。白狼を拾ったときも、使い捨てる気で拾ったと言っていた。
そんなことに今更気付いた白狼の心臓は大きく跳ねた。
小憎らしく微笑む銀月の表情が、白狼の記憶の中で大きく歪む。呆れたような目、蔑むような視線、そして何の感情も乗せない冷たい作り笑顔が浮かび、そして消えた。
囲碁を打ちながら夜な夜な自分に向けられていた目はどんな表情だったか。こっそりと夜中に抜け出そうと相談していた時の声はどんな音だったか。必死に思い浮かべようとするが、どれもがぽろぽろと記憶から漏れていく。代わりに脳裏に浮かぶ銀月は、どれも暗く冷たい顔をしていて怒鳴っていた。
足元が大きく崩れ、ぽっかりと開いた黒い穴に落ちていくような錯覚さえ覚える。ふらりと白狼の身体が揺れた。
「幸いなことに君は徳妃様とよく似ているみたいだし。さぞ、立派に側仕えを務めてくれるに違いない」
「ぎ……ひ、姫様は!」
「もうとっくにお帰りになったさ」
一目も会おうともせず銀月が帰ってしまったことに、また白狼の胸が冷える。
白狼の焦り様を見て少し満足したのだろう。ふふっと宦官は肩を揺らした。しかし目は笑っていない。ぎらりと光る黒い瞳が、まっすぐに白狼を射抜いている。
「随分、帝姫様はご立派にお育ちになっているようだし、君も軽率な行動は慎んでくれるとお互いに助かると思うがね」
「なん……だと……? それはどういう……っ」
「お輿入れ先はいったいどうなることだろうね」
含みを持たせ口角を吊り上げる柏は、探るような視線を向けた。ぐっと白狼は拳を握り締める。
知られた、と察した。
十五年間、銀月の母とその側近が必死に隠し通し、銀月の命を長らえていたものを自分のせいで知られる羽目になった。その事実に白狼の表情が自責に歪んだ。ただ言質を取られるわけにはいかない。力の限り奥歯を噛み締め、喉の奥からこみ上げるものを堪える。
そんな白狼を面白そうに見つめていた柏は、手にまとめていた縄を物置の隅に放った。そしてもののついでのように「やめておくといい」と言った。
「力のない主に忠義を尽くすなんて、馬鹿のやることだよ」
「忠義を尽くす……?」
「主に力があれば金も出世も手に入るだろうけれどね。力がないくせに身分だけ高いやつらが一番質が悪い。見返りも施せないくせに、身体を張って命を懸けても、不都合があればすぐに下のものを切り捨てる」
話ながら、柏はやれやれと腰を伸ばす。
「忠誠心なんて外から見えやしないんだ。それらしい顔をしてうまく立ち回れるほうが生き延びられるし、うまい汁が吸える。時世を読んで力のある方に付く。それでいいじゃないか。もともとそうやって生きてきたんだろう?」
「……何の話だよ」
「いやなに、処世術さ」
「処世術……」
「今の世の中、条件の良い雇用先に乗り換えることなんて普通のことだよ。うちはその点、それなりの見返りを用意できる」
白狼は首を傾げる。ついさっきまでとは柏の雰囲気が変わっていた。底が見えない野心家の表情は消え、人の好さそうな宦官の顔に戻っている。それが白狼の癪に触った。
「見たところ、あんたは力がないわけじゃなさそうだ。それなのに見返りも用意せず、身分の低い下女を切り捨てたのかよ」
吐き捨てるように言えば、柏はまたふふっと笑った。
「あげてるじゃないか」
「……あ?」
「学もなく、容姿も良く無く、身分が高い者に縋って生きるしかない使い道のない人生に、付加価値を与えてやったんだ。感謝してもらってもいいくらいじゃないかい?」
「なんだと!」
「御恩をお返しする機会を与えてくれてありがとうございます、と燕は私に頭を下げていたよ」
柏の言葉に目の前が赤くなる。反射的に白狼は拳を振り上げていた。しかしまっすぐ放たれた拳はひょろ長い宦官の顔や腹に当たることがなかった。直情的な一撃は難なく躱され、その代わりに手首をひねられた白狼の身体が床に打ち据えられている。
ぐうっと喉の奥から声が漏れた。
「頭は悪くないだろうに、不憫な子だ」
「……ちっきしょう……!」
「理解が及ばなくてもまあ仕方ない。しかし君がおとなしくしていれば君の命も、そして帝姫も徳妃もみんな無事でいられる。ひとまずは徳妃の御子が生まれるまではね」
――だから静かにしておくれ。
頭上で告げられる言葉に、白狼は歯ぎしりで応えることしかできなかった。
「じ、侍女だと……? 誰がっ!」
「君がさ」
思いもよらないことに白狼は絶句した。
そんな提案をあっさり飲むなど、乗り込んできたのが銀月だと確信してしまったからだ。身代わりの黒花であれば宮に提案を持ち帰るくらいのことはするだろう。なんて危ないことを、と自分を棚に上げる。
そしてそれと同時に胸にひやりとしたものが走った。
――自分は、銀月に不要とみなされたのか。
何も相談せずに乗り込んでこんな騒動になればそれもあり得る。そもそも生粋の側近ではない、拾われただけの自分など帝姫としての銀月ならば切り捨てることも厭わないはずだ。
以前、隠れて皇帝と逢引きをしていた女官が殺されたときもそうだった。白狼を拾ったときも、使い捨てる気で拾ったと言っていた。
そんなことに今更気付いた白狼の心臓は大きく跳ねた。
小憎らしく微笑む銀月の表情が、白狼の記憶の中で大きく歪む。呆れたような目、蔑むような視線、そして何の感情も乗せない冷たい作り笑顔が浮かび、そして消えた。
囲碁を打ちながら夜な夜な自分に向けられていた目はどんな表情だったか。こっそりと夜中に抜け出そうと相談していた時の声はどんな音だったか。必死に思い浮かべようとするが、どれもがぽろぽろと記憶から漏れていく。代わりに脳裏に浮かぶ銀月は、どれも暗く冷たい顔をしていて怒鳴っていた。
足元が大きく崩れ、ぽっかりと開いた黒い穴に落ちていくような錯覚さえ覚える。ふらりと白狼の身体が揺れた。
「幸いなことに君は徳妃様とよく似ているみたいだし。さぞ、立派に側仕えを務めてくれるに違いない」
「ぎ……ひ、姫様は!」
「もうとっくにお帰りになったさ」
一目も会おうともせず銀月が帰ってしまったことに、また白狼の胸が冷える。
白狼の焦り様を見て少し満足したのだろう。ふふっと宦官は肩を揺らした。しかし目は笑っていない。ぎらりと光る黒い瞳が、まっすぐに白狼を射抜いている。
「随分、帝姫様はご立派にお育ちになっているようだし、君も軽率な行動は慎んでくれるとお互いに助かると思うがね」
「なん……だと……? それはどういう……っ」
「お輿入れ先はいったいどうなることだろうね」
含みを持たせ口角を吊り上げる柏は、探るような視線を向けた。ぐっと白狼は拳を握り締める。
知られた、と察した。
十五年間、銀月の母とその側近が必死に隠し通し、銀月の命を長らえていたものを自分のせいで知られる羽目になった。その事実に白狼の表情が自責に歪んだ。ただ言質を取られるわけにはいかない。力の限り奥歯を噛み締め、喉の奥からこみ上げるものを堪える。
そんな白狼を面白そうに見つめていた柏は、手にまとめていた縄を物置の隅に放った。そしてもののついでのように「やめておくといい」と言った。
「力のない主に忠義を尽くすなんて、馬鹿のやることだよ」
「忠義を尽くす……?」
「主に力があれば金も出世も手に入るだろうけれどね。力がないくせに身分だけ高いやつらが一番質が悪い。見返りも施せないくせに、身体を張って命を懸けても、不都合があればすぐに下のものを切り捨てる」
話ながら、柏はやれやれと腰を伸ばす。
「忠誠心なんて外から見えやしないんだ。それらしい顔をしてうまく立ち回れるほうが生き延びられるし、うまい汁が吸える。時世を読んで力のある方に付く。それでいいじゃないか。もともとそうやって生きてきたんだろう?」
「……何の話だよ」
「いやなに、処世術さ」
「処世術……」
「今の世の中、条件の良い雇用先に乗り換えることなんて普通のことだよ。うちはその点、それなりの見返りを用意できる」
白狼は首を傾げる。ついさっきまでとは柏の雰囲気が変わっていた。底が見えない野心家の表情は消え、人の好さそうな宦官の顔に戻っている。それが白狼の癪に触った。
「見たところ、あんたは力がないわけじゃなさそうだ。それなのに見返りも用意せず、身分の低い下女を切り捨てたのかよ」
吐き捨てるように言えば、柏はまたふふっと笑った。
「あげてるじゃないか」
「……あ?」
「学もなく、容姿も良く無く、身分が高い者に縋って生きるしかない使い道のない人生に、付加価値を与えてやったんだ。感謝してもらってもいいくらいじゃないかい?」
「なんだと!」
「御恩をお返しする機会を与えてくれてありがとうございます、と燕は私に頭を下げていたよ」
柏の言葉に目の前が赤くなる。反射的に白狼は拳を振り上げていた。しかしまっすぐ放たれた拳はひょろ長い宦官の顔や腹に当たることがなかった。直情的な一撃は難なく躱され、その代わりに手首をひねられた白狼の身体が床に打ち据えられている。
ぐうっと喉の奥から声が漏れた。
「頭は悪くないだろうに、不憫な子だ」
「……ちっきしょう……!」
「理解が及ばなくてもまあ仕方ない。しかし君がおとなしくしていれば君の命も、そして帝姫も徳妃もみんな無事でいられる。ひとまずは徳妃の御子が生まれるまではね」
――だから静かにしておくれ。
頭上で告げられる言葉に、白狼は歯ぎしりで応えることしかできなかった。
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