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後宮の偽女官
永和宮の囚われ女官③
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銀月だった。
なんでここに、どうしてお前が、それより顔色、など、様々な言葉が浮かんでは消える。
無茶をやって主の身辺の秘密を探られるような真似をした、そんな馬鹿な自分は見捨てられたはずだ。そうでなければならない、と思っていたのに。
抱きすくめられたまま懐かしい香りを胸いっぱいに吸い込み、白狼は言葉に詰まった。じわりと目頭が熱くなっていくのが止められない。
そしていつの間にか主が自分の目線よりはるかに背が高くなっていることに気が付いた。細いはずだった腕の力にも驚く。その腕がまた一層力を込めて白狼を抱きしめた。
「ぎ、ぎんっ……」
しっ、と銀月が囁く。
「時間がない。声を出すな。しかし必ず助ける。詳細はこれを」
短く区切られた言葉は緊張感をもって白狼の耳に刺さる。そうだ、ここは永和宮で、扉の内側には柏と徳妃がいる。所謂、敵地なのだ。
はっと息を飲むと、指先にかさっと何か当たった。ざらついた紙の感触が「これ」というやつだと気が付いた白狼は、それを受け取りすぐさま小さく頷く。了承の意味が伝わったのだろう、宦官姿の銀月は素早く白狼から身を離すとそのまま戸口で直立した。
徳妃の寝室から退出して時間にしてほんの数秒の出来事であった。月のない夜、部屋の内側で灯されている燭台のおかげで、二人の動きは影としてさえ室内からも見えなかっただろう。
行け、と唇の動きだけで銀月が囁く。
それに対して白狼はごく小さく頷いて後ずさった。しかし目線は銀月から離せなかった。
久しぶりに見る顔なのに、華の顔を誇る銀月はすっぴんで顔色も悪くクマもあり本当に疲れた宦官のようだ。長く美しい髪は冠の中にしまっているのだろうか、数束の後れ毛を残しているがそれも何かボサついていた。
なんだか急におかしくなり、白狼は小さく噴き出した。声をあげるわけにはいかないが、どうにも抑えられなかったのだ。
くくっ、と歯を食いしばって笑いをこらえているのが分かったのか、銀月の顔はわずかに歪む。目線を逸らし腕組みしながら、僅かにのぞく手先だけでしっしっと白狼を追い払った。
確かにこれ以上戸口で人の気配をさせるわけにはいかない。察しの良い柏に何事かと詰問されても事である。名残惜しいが白狼はそうっとその場を離れ、すぐ隣の自室へと下がった。
自室の扉を閉めると、白狼はすぐに灯りを付けて袖の中に隠した紙を広げた。
そこには銀月の文字でこれまでの経緯と説明が記されていた。
あの夜の事、永和宮に呼び出されてやってきたのは黒花だったらしい。あらかじめ何か提案を持ち出された場合は了承するように指示していたのだという。
ひとまず捨てられたのではなかった。改めて白狼はほっと胸をなでおろす。そして揺らぐ蝋燭の灯りの下で、続く小さな文字を目で追った。
夜中に白狼が永和宮に忍び込んだことで、銀月は昼に話した遺書の筆跡を求めてのことと察したのだということ。
皇后暗殺未遂と貴妃失脚に徳妃の宮が絡んでいることを知り、それを手札にするつもりだったということ。
白狼を取り返すため柏にそれをチラつかせたら、白狼の命を保証する代わりにその件は口外しないと約束させられたということ。
反対に銀月の身の上について、含みのある話をされたので気を付けろということ。
どのようなことがあってもいずれ必ず助け出すから、おとなしく待っていろということ。
細かく綴られた文末には「月」の署名がある。銀月の文であるという印だ。しかし詳細とはいうものの、限られた紙面には最低限の事しか記されていない。
白狼は一度目を閉じてその文に顔を付けた。ほのかに香るの銀月の香を胸いっぱいに吸うと、文をまた小さく折りたたんで中衣の内側に隠す。
――必ず助けるだってよ。
白狼は扉に隔てられた廊下に立っているだろう銀月を思い浮かべた。危険を承知の上であんな変装をしてまで、そして皇帝である父親を利用してまで来てくれたのだ。それがくすぐったくもあり、嬉しくもある。
だったらそれまで存分に働いてやろうじゃないか、と腹をくくった。
銀月と離れていたのはたった十日かそこらである。敵地とも言える徳妃の宮で、周りはよくしてくれるが緊張の糸を張り詰めさせた生活をしていたせいか。見捨てられたと思っていた絶望感が強かったのか。思いのほか元主の顔を見てほっとしている自分に白狼は驚いていた。そしてほっとすると同時に心の中に余裕が生まれてきたのが分かる。
我ながら現金なものだと白狼は唇を吊り上げた。
白狼をここに留めているのはあのひょろ長い宦官であり、燕が死んだのも皇后や貴妃を陥れたのも柏が関係しているという事は確かだ。放っておけば銀月の命も狙いかねない。白狼の姉を名乗った徳妃との関係性も、なにやら臭うものがある。
となれば永和宮に捕らえられている今は、むしろ好機なのではないだろうか。
「おとなしく待ってろっつーのは、そりゃ無理だろ」
蝋燭の灯りを反射した白狼の瞳は、力を取り戻したようにぎらついていたのだった。
なんでここに、どうしてお前が、それより顔色、など、様々な言葉が浮かんでは消える。
無茶をやって主の身辺の秘密を探られるような真似をした、そんな馬鹿な自分は見捨てられたはずだ。そうでなければならない、と思っていたのに。
抱きすくめられたまま懐かしい香りを胸いっぱいに吸い込み、白狼は言葉に詰まった。じわりと目頭が熱くなっていくのが止められない。
そしていつの間にか主が自分の目線よりはるかに背が高くなっていることに気が付いた。細いはずだった腕の力にも驚く。その腕がまた一層力を込めて白狼を抱きしめた。
「ぎ、ぎんっ……」
しっ、と銀月が囁く。
「時間がない。声を出すな。しかし必ず助ける。詳細はこれを」
短く区切られた言葉は緊張感をもって白狼の耳に刺さる。そうだ、ここは永和宮で、扉の内側には柏と徳妃がいる。所謂、敵地なのだ。
はっと息を飲むと、指先にかさっと何か当たった。ざらついた紙の感触が「これ」というやつだと気が付いた白狼は、それを受け取りすぐさま小さく頷く。了承の意味が伝わったのだろう、宦官姿の銀月は素早く白狼から身を離すとそのまま戸口で直立した。
徳妃の寝室から退出して時間にしてほんの数秒の出来事であった。月のない夜、部屋の内側で灯されている燭台のおかげで、二人の動きは影としてさえ室内からも見えなかっただろう。
行け、と唇の動きだけで銀月が囁く。
それに対して白狼はごく小さく頷いて後ずさった。しかし目線は銀月から離せなかった。
久しぶりに見る顔なのに、華の顔を誇る銀月はすっぴんで顔色も悪くクマもあり本当に疲れた宦官のようだ。長く美しい髪は冠の中にしまっているのだろうか、数束の後れ毛を残しているがそれも何かボサついていた。
なんだか急におかしくなり、白狼は小さく噴き出した。声をあげるわけにはいかないが、どうにも抑えられなかったのだ。
くくっ、と歯を食いしばって笑いをこらえているのが分かったのか、銀月の顔はわずかに歪む。目線を逸らし腕組みしながら、僅かにのぞく手先だけでしっしっと白狼を追い払った。
確かにこれ以上戸口で人の気配をさせるわけにはいかない。察しの良い柏に何事かと詰問されても事である。名残惜しいが白狼はそうっとその場を離れ、すぐ隣の自室へと下がった。
自室の扉を閉めると、白狼はすぐに灯りを付けて袖の中に隠した紙を広げた。
そこには銀月の文字でこれまでの経緯と説明が記されていた。
あの夜の事、永和宮に呼び出されてやってきたのは黒花だったらしい。あらかじめ何か提案を持ち出された場合は了承するように指示していたのだという。
ひとまず捨てられたのではなかった。改めて白狼はほっと胸をなでおろす。そして揺らぐ蝋燭の灯りの下で、続く小さな文字を目で追った。
夜中に白狼が永和宮に忍び込んだことで、銀月は昼に話した遺書の筆跡を求めてのことと察したのだということ。
皇后暗殺未遂と貴妃失脚に徳妃の宮が絡んでいることを知り、それを手札にするつもりだったということ。
白狼を取り返すため柏にそれをチラつかせたら、白狼の命を保証する代わりにその件は口外しないと約束させられたということ。
反対に銀月の身の上について、含みのある話をされたので気を付けろということ。
どのようなことがあってもいずれ必ず助け出すから、おとなしく待っていろということ。
細かく綴られた文末には「月」の署名がある。銀月の文であるという印だ。しかし詳細とはいうものの、限られた紙面には最低限の事しか記されていない。
白狼は一度目を閉じてその文に顔を付けた。ほのかに香るの銀月の香を胸いっぱいに吸うと、文をまた小さく折りたたんで中衣の内側に隠す。
――必ず助けるだってよ。
白狼は扉に隔てられた廊下に立っているだろう銀月を思い浮かべた。危険を承知の上であんな変装をしてまで、そして皇帝である父親を利用してまで来てくれたのだ。それがくすぐったくもあり、嬉しくもある。
だったらそれまで存分に働いてやろうじゃないか、と腹をくくった。
銀月と離れていたのはたった十日かそこらである。敵地とも言える徳妃の宮で、周りはよくしてくれるが緊張の糸を張り詰めさせた生活をしていたせいか。見捨てられたと思っていた絶望感が強かったのか。思いのほか元主の顔を見てほっとしている自分に白狼は驚いていた。そしてほっとすると同時に心の中に余裕が生まれてきたのが分かる。
我ながら現金なものだと白狼は唇を吊り上げた。
白狼をここに留めているのはあのひょろ長い宦官であり、燕が死んだのも皇后や貴妃を陥れたのも柏が関係しているという事は確かだ。放っておけば銀月の命も狙いかねない。白狼の姉を名乗った徳妃との関係性も、なにやら臭うものがある。
となれば永和宮に捕らえられている今は、むしろ好機なのではないだろうか。
「おとなしく待ってろっつーのは、そりゃ無理だろ」
蝋燭の灯りを反射した白狼の瞳は、力を取り戻したようにぎらついていたのだった。
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