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後宮の偽女官

永和宮の囚われ女官④

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 その夜、皇帝は永和宮にはお泊りにならず、柏と一局対戦したあとすぐに宮を辞していった。もちろんお付きの宦官姿の銀月も一緒に去っていったが、実はそのころ既に白狼は夢の中であった。数日間の緊張から解放されたせいか、寝台に転がった瞬間恐ろしいほどの早さで眠りに落ちたのだ。
 その甲斐あってか早朝からすっきり目覚めた白狼は、手早く身支度を整えて徳妃の部屋の前で主の起床を待つ侍女を演じていた。
 演じながらも頭の中ではどうやったら柏を出し抜けるかでいっぱいだ。手習いの部屋は自室のある正房からは遠く、柏の監視があるうちは近づけない。しかも既にそこにあるものは皆片付けられているだろう。燕が書いた手紙も取り上げられているからその線から攻めることは難しい。
 皇后の膳に盛られた毒についても、毒物が何かもはっきりしないし知識のない白狼には調べることはできないだろう。
 もうちょっと薬や毒などについて学んでおけばよかったとは思うが、こればっかりは仕方がない。学ぶ機会もなければとりあえず一人で生きることで手一杯だったのだ。
 ほかに手は、と考えていると目の前の扉から軋む音がした。
 徳妃の起床か。白狼は拱手して主の声掛けを待ったが、姿を現したのは眠そうに首を回す柏だった。
 打ちながらかなりの量を飲まされたのか、いつもより目が細いしつるりとした頬が浮腫んでいる気がする。白狼と目が合うと一瞬戸惑ったような顔をして空を見上げたのは、寝過ごしたかなにかと勘違いしたのだろうか。

「やあ、白玲。今朝は早起きをしたようだね」

 他の侍女はまだ来ていないが、しゃべるなと言われているのでぺこりと会釈をするだけに留める。柏は満足そうに頷くと、室内に顎をしゃくった。

「昨晩の杯や食器がそのままだから、片付けておいておくれ。あと徳妃様はお疲れなのでもう少しそのままに」

 中を見ると確かに昨晩の卓がそのままだ。徳妃の寝台は更に奥にあるため、片付けについてはさっとやってしまえば起こすこともないだろう。了承して白狼は室内に足を踏み入れる。
 すると、鼻の奥に強烈な違和感が生じた。ちくちくと刺さるような、むずがゆいような、とにかく呼吸をするたびに鼻の奥が刺激される。耐えきれずくしゅんっとくしゃみをすると、堰を切ったようにくしゃみが止まらなくなった。
 風邪でもひいたかと思うが尋常ではないくしゃみの数だ。息を止めてもまだこみ上げてくる。慌てて口を押えて部屋を飛び出すと、柏が目を丸くしていた。

「ど、どうした白玲。風邪かい?」
「い……いや……」

 分からない、と言いかけてまた口を噤む。部屋を出たら鼻の違和感は少し落ち着いたが、それでもまだくしゃみは止まらない。深呼吸を数度繰り返し、ようやく呼吸を収めた白狼は開け放たれた部屋を振り返った。
 窓から差し込む朝日が幾本か筋をなし、ほんのりと白濁した空中に漂う微細なほこりを浮かび上がらせている。原因はこれか、とも思うが徳妃の寝室など常日頃から下女たちが念入りに掃除をしているのに、鼻を刺すほどの異物があるものだろうか。小葉一人が掃除を請け負っている銀月の宮でも、こんなことはなかったはずだ。
 ではほかに原因があるのか、と聞かれれば白狼には答えられない。首を傾げながらもう一度部屋に入ると、また大きなくしゃみがでた。そして気が付いた。
 香だ。
 朝日の光芒がわかるほど煙った室内は香を大量に焚いたことを物語っている。濃厚に焚かれた妓楼街のような香のにおいが一晩で消えるはずもないのに、白狼の鼻はそのにおいが判別しにくくなるほど詰まってしまった。おかげでいまいちにおいがはっきりしない。その代わり鼻で呼吸をすると、ズっという鼻が詰まった音がする。
 そしてこれほど大きなくしゃみを連発していても、奥の寝台にいるはずの徳妃が起きる気配がない。なんだろう、という違和感が大きくなる。
 ただ、寝台の近くに置かれている香炉からはまだゆらゆらと煙が立ち上っていた。
 
「なんだい、どうした?」

 訝し気に柏が首を傾げた。どうしたもこうしたもない。お前はこの部屋からでてきてなんともないのかと問いただしたいが、違和感の正体が分からない。訳が分からないことは口にしないほうがいい。
 白狼は辺りを見渡し侍女たちがいないことを確認してから口元に手を添えた。

「……多分、ちょっとほこりが……」
「鼻にでも入ったのかい? 徳妃様を起こさぬよう、気を付けて」

 しぃっと柏が口元に人差し指を立てた。
 言われずとももうしゃべるつもりはない。
 白狼は懐から手巾を出して口と鼻を覆い、大きく息を吸ってから室内に特攻する。呼吸を止めていれば案の定くしゃみは出ない。可能な限り手早く卓の上を片付け、息が続くうちに両腕に皿や空の酒杯を持って部屋から出た。

「っはぁぁぁぁぁぁ」

 飛び出した途端に大きな息が漏れる。ついでに小さなくしゃみも、一つ。口元から手巾を外せば、また数回くしゃみが繰り返される。
 そうこうしているうちに徳妃付きの侍女が集まってきた。側仕え達はぜいぜいと息を荒げている白狼を見て、水をくれたり食器を下げてくれたり甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 しかしその誰もが、徳妃の部屋ではくしゃみをしない。少女たちが出入りするたびに白狼は鼻の奥を刺激され盛大なくしゃみをしているというのに、だ。
 そして鼻が詰まってはっきりとは分からないが、近くを通りすぎる少女たちの衣からは徳妃の部屋の香と同じような「妓楼街のにおい」が漂っていた。

 ――あのにおいは、なんだ?

 侍女の一人に背をさすられ荒い息を整えながら、白狼は徳妃の寝台の傍らで煙を吐き続ける香炉を睨みつけたのだった。
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