炊き出しをしていただけなのに、大公閣下に溺愛されています

ぽんちゃん

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第三章

第五話 過去を連れ戻しに来た男

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 土埃の舞う朝だった。

 村は少しずつ平穏を取り戻し、子どもたちは焚き火のそばでじゃれ合い、大人たちは畑の再建に勤しんでいる。

 そんな空気を裂くように、蹄の音が響いた。

 地平線の向こうから、騎馬の男がひとり、砂煙を上げて村へと駆け込んでくる。

 僕の知っている人だった。

「……ディルク」

 かつての婚約者。
 共に支え合おうと、未来を約束した相手。
 でも、今や僕にとって、傷の象徴でしかない存在だった。

 馬を下りたディルクはひどく痩せて、憔悴しきった顔をしていた。

「レーヴェ……!」

 息を切らし、茶色の髪を乱して僕へと駆け寄ってくる。

「会えてよかった、やっと……! いや、違う……俺は、お前に……謝りたくて……!」

 そのあまりの必死さに、僕は眉をしかめた。

「……何をしに来たんですか」

 僕の言葉は冷たかった。
 けれど、どうしても温度を持てなかった。

「謝りたい。……やり直したいんだ」

 ディルクは必死な声で訴える。
 僕に悪いと思う気持ちが、少し芽生えたようだ。

「軍じゃ、もう誰も俺を信用してない。エリンの嘘もバレて……。でも、お前が戻ってくれれば、すべて丸く収まるんだっ!」

 やり直すことはできないけど、話を聞こうとしたとき、ディルクの口から信じられない言葉が発せられ、僕は絶句する。

(何も変わってない……)

 僕の顔が引きつるのを、彼は気づいていないのか。
 謝罪の言葉に見えて、すべて“自分のため”。
 僕に悪かった、ではなく、お前が戻れば、俺の立場が戻ると、そう言っているにすぎなかった。

「…………なるほど。僕はあなたにとって、“戻れば都合のいい存在”なんですね」

「ち、違うっ! お前の優しさも、まっすぐさも、今ならわかる。遅すぎたけど……! レーヴェ。俺には、お前しか――」

 彼が僕の手に触れた瞬間、僕の全身に拒絶の感覚が走った。

「――やめてっ」

 咄嗟に後ずさった僕を見て、ディルクは目を見開いた。

「レーヴェ? ……な、んで、そんな顔……」

「触らないでっ。僕はもう、あなたに触れられたくない」

 その一言が、ディルクの息を止めさせた。

 ――あの日の夜が、何度も何度も蘇る。

 僕の目の前でエリンと肌を重ね、平然と笑った男が、今さら何を言うというのだ。

 あの頃の僕の心を、何度も何度も踏みにじった男が、今さら手を差し出すなんて――

 過去を思い出して悲しんでいると、ディルクは真剣な眼差しで僕を見ていた。

「レーヴェ、聞いてくれ。エリンは、妊娠なんかしていない、と思う」

「………………は?」

 ディルクの告白に、僕の口からはおかしな声が出てしまった。

「だってほら、クッキーの件も、嘘だっただろ? 妊娠の話になったときも、月のものが遅れていると話していただけで、医者に診てもらったわけでもない。だから妊娠も、嘘の可能性が――」

「もうやめてっ!! そんな話、聞きたくないっ!!」

 その瞬間、声が裏返った。
 胸の奥の傷がえぐられるようで、思わず叫んでいた。
 それなのに、なぜかディルクは傷ついたような顔をしていた。

「っ、レーヴェっ、悪かった……。でも、でもさ、もし、エリンが妊娠してなかったら、俺たち、やり直せないか? 俺には、レーヴェが必要なんだっ」

 エリンが妊娠していようがいまいが、そういう問題ではないんだ。
 一度失った信用は、取り戻せない。

「俺は、あいつに騙されてたんだよ」

「……エリンだけが、悪いわけじゃないと思う。婚約者以外の相手と、望んで妊娠するような行為をしていたのは、ディルクでしょう?」

「そ、それは……」

 事実を話しただけなのに、ディルクは顔面蒼白だった。

「っ……ごめんっ、レーヴェ、傷つけたよな……。今まで、あんなに俺のことを支えてくれてたのに……」

 この前まで、僕を恥だと言っていたディルクは、今は僕と別れたことを後悔しているようだった。
 それなら、この話し合いは終わらせていいだろう。

 これ以上話したところで、僕はディルクとよりを戻そうとは思わないし、友人にも戻れないのだから……。

「ディルクが自分の行いを反省してくれたのなら、それでいい」

「レーヴェ!」

「だってもう、僕たちは違う道を歩んでいくんだから――」

 言えなかったさようならを、ようやく言える。
 過去と決別しようとしたけれど、ディルクは納得していなかった。

「そんなっ!! レーヴェ、そんなこと言わないでくれ! 今は許せなくてもいい。そばにいさせてくれ、それでいつか……」

 よりを戻そうと必死なディルクが近づいてきて、僕は悲鳴をあげそうになった。
 そのとき、風を割くように、低く響く声が広場に届いた。

「――もういいだろう」

 その声に、ディルクの体がビクリと震えた。

 振り返ると、そこには白金の髪を風に揺らす、カイゼル様が立っていた。

「ル、ルクスフォルト大公閣下……」

 カイゼル様が僕の隣に立ち、ディルクの顔はみるみる青ざめていく。

 ディルクにとって、幼い頃からの憧れの存在だった人に、鋭い視線を向けられているからだろう。
 カイゼル様は一瞥だけで、ディルクを凍らせた。

「貴様が現れる可能性があると、報告は受けていた」

「っ……」

「エリン・リードとの関係、レーヴェへの裏切り。すべて、調査済みだ」

 静かに放たれた言葉に、ディルクの顔色が消える。

「お前のような男が、レーヴェに手を伸ばすなど――身の程を知れ」

「……っ、そ、そんな……ッ」

 カイゼル様の低く、静かな声が叩きつけられる。

「いい加減にしろ。お前みたいな身勝手なやつが、どれだけ吠えたところで、誰の心も動かせない」

 ゆっくりと、一歩踏み出すカイゼル様の影が、ディルクを覆う。

「レーヴェが選ぶのは、俺だ。……お前じゃ、話にならない」

「「っ……」」

 その一言は、過去にディルクが僕に投げつけた言葉とまったく同じ構文だった。

 今、その暴言がまるごと自分に返ってきていると気づいたディルクの顔に、血の気が引いていく。

 目を合わせることすらできず、声も出せない。


 ――反論できる余地など、どこにもない。


「立ち去れ。もう二度と、レーヴェの前に現れるな」

「……っ……い、いやだっ! それだけは……っ!」

 情けない声を漏らしながら、ディルクはへろへろと地面に腰を落とす。

「ま、まだ……話は……っ」

「――消えろ」

 それが、最後通牒つうちょうだった。

「う、うわあああああああああ!!!!」

 みっともない声で泣くディルクは、カイゼル様と目も合わせられないまま馬にまたがり、逃げるように村を去っていった。





 広場に静けさが戻る。
 カイゼル様は僕の前に歩み寄ると、そっと視線を合わせてくれた。

「大丈夫か」

「はい。カイゼル様が、来てくれたから……」

 カイゼル様の手が、僕の肩にそっと触れた。

「何があっても、君の味方でいる。……君を守れなかった過去ごと、俺が引き受ける」

 その言葉に、僕は胸を打たれた。

 包み込むような腕に、そっと身を委ねる。

 もう僕は、あの日の傷に縛られない。

 この温もりがある限り――。



















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