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第一章 辺境伯領

歌とピアノと

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「ピアノ?」

 夜遅くに帰宅したレオニダスは、外套をヨアキムに渡しながら思わず聞き返した。

「はい。エーリク様の小さな頃に、レオニダス様がお贈りになられたピアノです」
「ああ、エーリクのギフトが分からなくて色んなものを買っていたことがあったな」

 子供用の小さなピアノで、エーリクがニ、三度遊んだものだ。ちなみにエーリクのギフトはまだ分からない。

「ナガセ様が弾けるのではないかと、エーリク様が持ち出して、先程までずっとお二人で弾きながら歌っておられました」

 普段は微動だにしないヨアキムの表情筋が少し動いた。気がする。明日は吹雪くかとレオニダスは意外そうにヨアキムの顔を眺めると、ヨアキムはこほんと咳払いを一つしていつもの無表情に戻った。

「まだ起きてるのか?」
「エーリク様はもう眠られましたが、ナガセ様はまだ」
「そうか」
「お食事はどうされますか」
「もらおう。先にナガセの様子を見てくる」
「畏まりました」

 いつも遅くなるレオニダスに合わせて、ここの料理人は食事を用意してくれる。軽食で済ましがちな時間だが、軍部にいた人間なだけあり、軍人の身体をよく分かっているナサニエルは、いつも栄養バランスがいいものを用意してくれる、料理の腕だけではなく筋肉も凄い男だ。


 レオニダスはオッテを伴い、いつもナガセがいる部屋へ向かった。
 ナガセは暖炉の前にクッションを敷き詰め、床に直接座って書き取りをしたりウルを抱きしめたりしてレオニダスの帰りを待つ。
 床に直接座るのを侍女長のアンナは嫌がったが、ナガセの好きなように過ごさせるよう伝えているので口うるさいことは言っていないようだ。
 初めの頃は、帰りは遅いから待たなくていいと伝えたが、ナガセは必ずレオニダスの帰りを待った。
 ナガセを部屋に連れて行っても、いつの間にか出てきて玄関にいたこともある。不安げに瞳を揺らめかせてじっとレオニダスを待つ姿は、邸の使用人たちの母性、父性を鷲掴みにした。
 レオニダスが帰宅すると、他の人間には見せない弾ける笑顔で駆け寄ってくる。レオニダスも、この笑顔にがっちりと鷲掴みにされた。父性が。

 ナガセの特異なを見てあまり良くない反応をする使用人はいたが、ナガセが深淵の森で一人でいたことを聞くと、皆黙って受け入れた。ナガセの境遇を慮ったのだろう。
 真実は誰にも分からないが、不安げな様子は皆の庇護欲を誘うし、ナガセのエーリクに対する素直さが裏表のない人間として受け入れられている。


 居間へ向かう廊下を歩いていると、遠くからピアノの音が聞こえて来た。所詮おもちゃのピアノなのだが、静かに聞こえてくる音楽は静謐な夜の空気を震わせる。

 少しだけ開いた扉からそっと室内を窺うと、いつものように暖炉の前で床に座りながら、ナガセが小さなピアノを弾いていた。
 暖炉の柔らかな灯りに照らされたその横顔は、普段の寄る辺ない子猫のようではなく、大人びていて、儚く消えてしまいそうだった。

 ナガセにくっついて横たわっていたウルが、耳をピンと立ててこちらに顔を向け、その拍子にナガセの手が止まってしまった。
 いつもと違い、ゆるゆると顔をこちらに向けたナガセは今にも消えてしまいそうな表情の笑顔でレオニダスを迎えた。

「おかえりなさい、レオニダス、さま」
「……ただいま」

 ヨアキムがレオニダスを呼び捨てにするなど有り得ないと、様を付けるのを必死に教えていたのが実を結び、今では指摘しなくても様をつけるようになった。
 レオニダスはナガセの隣に腰を下ろし、ナガセのそばに侍るウルの頭を撫でた。

「ナガセはピアノが弾けるんだな」
「ぴあの」
「弾ける人は中々いない」
「ぴあの、すき」
「ふっ、今日は好きを覚えたか」
「うた」
「歌?」
「すき」
「……そうか」

 胸の内に灯火のように灯る愛しさを父性愛というのなら、自分は間違いなくナガセを可愛がっているし、気にかけている。この不安な顔をした子猫を、自分はどうしたって守ってやりたいと思っている。
 手を伸ばし、暖炉の灯りに照らされて艶めく黒髪をさらりと撫でた。

 ナガセの指がまたピアノの鍵盤に触れる。
 白くて細い、長い指。

「レオニダス、さま、きく?」
「ああ。聴かせてくれ」

 ナガセはふわりと微笑むと、少し上を見上げて何かを考え、曲を弾いた。
 優しくそっと歌うその歌声は、レオニダスの中にある灯火を不安に揺らめかせるほど美しかった。



 * * *



「ピアノ?」

 執務室でアルベルトが紅茶を淹れながら聞き返した。
 この日レオニダスは、久しぶりにナガセを砦の執務室に連れて来た。これまでは言葉が分からない中、無闇に連れ歩いても大変だろうとエーリクと好きなように過ごさせていたが、昨日のピアノの件もあり連れて来たのだ。
 エーリクはもの凄く不服そうな顔をして、邸を出る時はレオニダスを見なかったが。

「ずっと会いたいって言ってるのに全然会わせてくれないから、もう邸に突撃しようと思ってたんだよ」

 アルベルトはニコニコと機嫌良くナガセの手を取ってソファに座らせた。

「こんにちは、アルベルト、さま」
「わあ! なになに、挨拶できるように、って言うか、僕の名前覚えていてくれたの! 嬉しいなあ」

 アルベルトはナガセの頭を犬にするように撫でた。

「ピアノが弾けるなんてすごいね。でも、レオの邸にピアノなんてあったっけ?」
「エーリクが小さい時に買ったおもちゃのピアノだ」
「ああ、あれかー」

 アルベルトは紅茶をナガセの前に置いて笑顔で勧める。ナガセはそっとカップを手にした。

「どこかにピアノがあれば弾かせてやりたいんだが」
「いやでも、だからってここに連れて来てもさ? 僕は嬉しいけどね」
「ピアノのある場所を知ってそうだろう、お前は」
「知ってるけど連れて行けないなぁ」
「連れて行けない場所ってなんだ」

 ノックの音が響いて応えるとクラウスが入室して来た。アルベルトがピアノが置いてある場所について質問する。

「それならオーウェン殿の店はどうでしょうか」
「オーウェン? あの店にピアノなんかあったか」
「以前どこかの楽団の方が慰労のために砦を訪れた時、オーウェン殿の店でも弾いてくださいました」
「ああ! なんか乱闘騒ぎになったアレかあ。凄いねクラウス、あんなに騒がしかったのに聴いてたんだ」
「そうですね、そう言えばあちこちでケンカが始まって、誰も聴いていなかった気がします」
「失礼な酔っ払いたちだな!? そんな柄の悪い店に連れて行けるわけないだろう!」
「そう言えば、あの楽団はあれから慰労に来てないねぇ」

 クラウスのギフトは耳の良さだ。どんな音も声も聴き分けるクラウスが言うのだからピアノが演奏されたのは間違いないだろうが、やはりそんな所には連れて行けない。
 レオニダスは腕を組みブンブンと首を横に振った。

「だめだ、そんな柄の悪い店に連れて行けない」
「もう~、お父さん過保護だねぇ」
「あの店は夜からですから、昼間にお願いしてはいかがでしょう。楽団の方が来て以来ピアノは弾かれていないですし、店の準備があるとしても邪魔にはならないでしょう」
「それいいんじゃないかな。オーウェン殿なら僕から話すよ。元上司が営業する店に行くのも後輩の務めでしょ。よし、行こうかナガセ!」
「今からか!?」
「そのために連れて来たんでしょ」
「俺はまだ、」
「だーいじょうぶ、僕が責任持って連れて行くからレオニダスは仕事して」
「おい!」
「それでは私もご一緒させて頂いてもいいでしょうか。オーウェン殿には非常にお世話になりましたのでご挨拶を」
「挨拶って今必要か!? お前たち、ナガセのピアノを聴きたいだけだろう!」

 レオニダスの怒鳴り声を背に、アルベルトはさっさと立ち上がりナガセを街へ連れ出した。

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