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第一章 常春と真冬編

23)決別。

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 俺達が呼び出された警察署に赴いたのは、電話から二日後の午後の事だった。
 一人で行けると言った俺に、常春は一緒に行くと言って聞かず、結局二人で警察署へ向かった。

 指定された部署へ行き、篠山の名前を伝えると、五分ほどでスーツ姿の篠山という刑事は現れた。篠山によって、俺達は人気のない薄暗い廊下の奥へ通される。
 篠山が鉄製のドアを開けると、そこにはテレビで見るようなガラス越しの面会室があった。壁にある明り取り程度の小窓には鉄格子が嵌り、ねずみ色の机とパイプ椅子が二つ、置かれている。

 何となく椅子に座る気にはなれなくて、俺は俯いて拳を握った。数分後、ガラスの向こう側の扉が空いて、女性警官に連れられた中年女性が現れる。


「あ………」


 ガラスの向こう側に居たのは、紛れもなく俺の母親だった。
 警察署の中は少しだけ肌寒い。
 ……にも関わらず、俺の握った拳の中には嫌な汗が滲み、脂汗が背中を伝った。
 心臓がバクバクと破裂しそうに早鐘を打って、口から飛び出すんじゃないかと言うほど胸が痛い。


「か、母さ……」
「真冬……っっ!!」


 不意に母親が大きな声をあげた。ガラスの前に駆け寄って、俺に向かってまくし立てた。


「違うの、真冬っ。聞いて! 母さん、あの男に騙されたんだよ。あいつがアンタにあんな事するなんて、全然知らなかった!!」


 大声を出した母親は、後ろにいた女性警官によってたしなめられる。渋々といった様子で椅子に座る彼女は、泣き腫らした目でこちらを見上げた。


 俺の記憶の中ではいつも綺麗に化粧をして着飾り、髪をくるくると巻いて、ヒールを履いていた悪魔のように美しい母親。


 けれども目の前に座る彼女は、俺の記憶の中の母親とはかなり違っていた。

 艶を失ったパサパサの髪は、パーマが僅かに残って毛先がだらしなくうねっている。
 化粧をしていないせいか顔色は土気色で、シミだらけの肌に、たるんだ目元。その下には、くっきりとクマが浮かんでいた。
 ガリガリに痩せてたるんだ皮膚は、彼女をいっそう老けて見せる。
 いつも綺麗に整えられていたはずの爪は、伸び放題のまま、所々剥げたマニキュアが申し訳程度に付着していた。


「母さん……久しぶり。元気だった?」


 俺の口から出た言葉に、一番驚いたのは、きっと俺だ。

 俺にとって、生まれてからずっと、恐怖の対象でしかなかった美しい母親。
 その母親は、こんなにも痩せていて、小さい枯れ木のような女性だっただろうか?

 ふと俺は、いつになく冷静になっている自分に気付く。


 俺はずっと母親を恐怖の対象とし、魔物か何かのように思ってきた。
 けれども目の前に座るのは、すっかり痩せて小さくなった、ただの中年の女性で……。


 常春に出会って、すっかり健康的になった俺。
 歳を重ね、枯れ枝のようになった母親。

 母親は幼い頃からいつだって俺を疎んできたが、今思えば命に関わるような暴力行為は、されたことがない。

 母親の連れ込んだ男に乱暴を働かれた事は何度もあった。……けれど、あの行為をされる時、母親はいつも不在ではなかったか?

 母親がそれに気付けたとして、男を止めるだけの力が、母親にあった……?

 きっと、腕力なら母親より今の俺の方がずっと強い。


 ……俺は何をそんなにこの母親を怖がっていたのだろう?






「真冬、お願い聞いて……。私はあの男に利用されただけ。私はこんなにも辛いのに、真冬だけが幸せになるのが許せなかったんだ……。でも今は違うの! 真冬の幸せを心から祈って……!」


 そうまくしたてる母親の前に、俺は冷静なまま立った。 


「……母さん、ごめん。もう俺に関わらないで欲しい。今は幸せに暮らしてるよ。俺は来月で二十歳だ。もう、母さんが居なくても生きていける」


 俺はそう言って、ガラスの向こうにいる母親を一瞥する。


「……被害届を取り下げます。条件は、母さんが二度と俺に関わらないこと。親でも子でも、なくなること。これが俺から母さんへの、育ててくれたお礼。最初で最後のプレゼントだ」
「あ…………っ……」


 俺がそう言うと、ガラスの向こうで母親が泣き崩れた。
 俺はそんな彼女に対して何の感情も湧かなくて、ただただ彼女が泣き止むのを待った。


「時間です」


 しばらくして、母親の背後にいた女性警官が、無機質な声でそう言った。


「どうする?」


 俺が母親にそう問えば、母親は泣き腫らした目に更なる涙を浮かべながら、力なく答えた。


「……約束します。もう、二度と関わりません……」
「……分かった」


 女性警官に二の腕を掴まれ、母親は立ち上がった。ドアの前まで行ったとき、不意に母親が振り向いた。

 
「真冬っ……、今までごめんなさい。幸せに……、私の分まで、幸せになって……」


 ドアの向こうに消えた母親を見送って、俺はドアの側で待っていた常春に声をかける。


「……終わったよ。帰ろう」
「…………。本当に、いいのか?」


 常春は言葉を探すようにして、短くそう言った。


「うん、いい」


 俺は感情の無い言葉でそう答えて、常春の手を握った。





 俺達が手続きや聴取を受けて警察署を出ると、太陽は橙色に街を染め上げ、ゆっくりと傾き始めていた。


「はぁ。なんだか今日は疲れた。早く帰って、常春の味噌汁が飲みたい」


 俺はそう言って、駅の方へと歩き出す。


「奇遇だな。俺も今夜は和食の気分だ」


 常春がそう答えて、俺の後を追う。

 傾きかけた太陽は俺達の歩む道のりを優しく照らし、俺達の足取りを軽やかなものにしてくれる。俺は小走りして常春から三メートルほど離れると、くるりと振り返って言った。


「なー! 常春ーー!」
「なんだ?」


 常春は夕日を背にした俺を眩しそうに目を細めて見上げた。


「愛してるーーーーっ!!!!」
「ばっ…………か!」


 駅前の人通りが多いこの場所。俺の大声でのその台詞に、焦る常春は可愛らしい。慌てて駆け寄ってきて、小声で「俺も……」などと答える常春は、本当に愛おしい。


 ……ーー帰ろう。我が家へ。
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