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三章

3、カフェー

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 カフェーでは、蓄音機で音楽が流れていました。
 わたくしはダイヤモンド印のオレンジジュースを、先生はコーヒーを頼みました。
 子どもっぽい選択だったでしょうか。でも本当はサイダーとどちらを頼むか悩んでいたので、もとより苦いコーヒーは眼中になかったのです。

「翠子さんは、甘いものが好きだな」

 先生は、砂糖も加えずにそのままコーヒーをお召し上がりになります。

「苦いものを美味しいと思えないんです」
「苦味は経験を積んで慣れるものだからな。少し飲んでみなさい」

 湯気の立つカップを手渡され、わたくしはコーヒーをひと口飲みました。

「にがっ。無理です、苦いです」
「まぁ最初はそうだろうな。ああ、お清に頼んで、毎朝翠子さんにはブラックコーヒーを淹れてもらうとするかな」
「え、駄目です。飲めないですよ」

 カップを返すと、先生はテーブルに置かれたビンのふたを開けました。そこから匙で砂糖をすくい、コーヒーに入れていきます。
 一杯、二杯。少し首をかしげて、三杯目も入れました。

「ほら、どうぞ。これならいけるんじゃないか? 無理そうなら牛乳を入れてもいい」
「いただきます」

 どうやら先生は、わたくしにどうしてもコーヒーを飲ませたいようです。先ほどの苦味が舌に残っているので、おずおずとコーヒーを口に含みました。

「あ、甘いです。美味しいですね」
「君の味覚の基準は、甘いか甘くないかなのかな?」
「先生もどうぞ」

 わたくしが返したカップを、先生はじっと見据えていらっしゃいます。
 しばらくの間があったせいで、ここは先生のご自宅ではなくカフェーであることを思い出してしまいました。
 男女が同じカップに口をつけて。それって、はしたないことなのでは?

 お家では、間接的なキスどころではない状態なので、つい油断してしまいました。

 先生はコーヒーをぐいっと飲むと、突然眉をしかめました。

「あまっ」

 甘いものを飲んでいるのに、まるで苦い薬を飲んだような表情です。

「先生も、味覚の基準は甘いか、甘くないかなんですね。わたくしと同じですよ」
「ちょっと砂糖を入れすぎたな」
「甘いものは、美味しいですよ」
「そうだな。少し慣れた方がいいかもしれないな」
 
 意外なことに先生が、わたくしの言葉に同調なさいます。甘いものがお嫌いなようなのに、不思議です。

「俺は、翠子さんの甘さ以外は好きではない」
「わ、わたくしは甘くなんて」
「ああ。自分では分からないだろうな」

 先生はテーブルに身を乗り出して、わたくしの耳に口を寄せました。そして、小さな声で囁いたのです。

「官能にとらわれたあなたは、香りも甘いし、その蜜も甘く感じられる気がする」
「……っ!」
「俺は、あなたの甘さだけを味わいたい」

 突然の告白に、わたくしは言葉を失いました。
 ここはカフェーです。混んでいるわけではありませんが、お客さまもいますし、和服にフリルのついたエプロンをつけた女給さんもいます。
 しかも、わたくしの注文したオレンジジュースが運ばれてきました。

 本当に困るんです。先生に翻弄されるばかりで、どうしていいのか分からないんです。
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