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四章

2、思い出【5】

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 初めての数学の授業の日。俺は、翠子さんのいる一年のクラスへと向かった。
 北側の廊下で、ドアガールとして立っていたのが翠子さんだ。

 一瞬、俺は廊下で立ち止まってしまった。
 翠子さんは教室に向かって「あの、先生がいらっしゃいました」と声をかける。上級生たちの慣れた様子と違い、たどたどしく声も小さい。

 ああ、もう可愛いな。小さい頃は、もっと自由奔放な感じだったのに。
 なんだ、君は大人びて恥じらいを覚えたのか?

 そう考えている自分に驚いた。女性のことを「可愛い」と思ったことが初めてだったからだ。
 故郷を離れて大学に通っていた頃、近くの女学校の生徒や、カフェーの女給に手紙をもらったことが何度かある。学友たちは、そういう相手と付き合いをしていたが、俺は興味がなかった。

 とはいえ、翠子さんを見て感じるのは単に懐かしいという感情だろう。
 教師が一生徒と親しくするのも、よろしくはない。
 他の生徒に対するのと同じように、翠子さんに対しても一定の距離を保った。

 それに彼女は俺のことを覚えていないようだ。
 うん、あれは遠い日の幻。そう考えて割り切った方が、気が楽だ。

 翠子さんは数学が苦手で、居残り勉強をさせることもあったが。とにかく数学教師という俺の肩書に恐れを抱いているのか、ろくに顔を見てもくれない。

 俺が声をかければ、自分の不出来を叱られると決めつけているようで。挨拶以外のまともな会話などできるはずもなかった。

 二人の間に何事もないままに、季節は夏を迎えた。
 俺はいつものように、お清に給仕してもらいながら夕食をとっていた。

「まぁ、お坊ちゃん。また魚を残してらっしゃる」
「お坊ちゃんはやめてくれ。それに魚は食べにくいからな。苦手なんだ」
「また、そんなことを仰って」

 お清の料理はうまいのだが、なにしろ一人で食っているのだから、味気なく感じることが多い。
 
「そういえばお清。あのお嬢さんがうちの学生になったよ」
「まぁ、あらまぁ、運命の再会ですね」
「すごいな、お清は。誰のことか一言も言っていないのに。なぜ分かったんだ?」
「そんなの、当たり前ですよ」

 鼻息荒く、お清はふんぞり返った。

「お坊ちゃんから女性の話なんて、聞いたことがありませんからね。いろんな方からお手紙を頂いても、封も開けないじゃありませんか」
「面倒なんだよ、ああいうのは。一度でも二人きりで会ったら、もう恋人気取りだ」
「誰かと二人きりで逢引きなさったことがあるんですか?」
「……先輩が言っていた」

 うっ。とんだ藪蛇やぶへびだ。
 俺は苦手な魚の骨をよけながら、ちまちまと食べた。もちろん味なんて分からない。

「でも、あの時は違いましたねぇ。お清はよく覚えていますよ。笠井男爵のお嬢さんがお家に戻られてから、お坊ちゃんは彼女の話をよくなさってましたよね」
「あれは女性ではなくて、女の子だ。そもそも範疇が違う」
「今は娘さんなのでしょう?」
「教え子の一人だ。特別扱いなどしていないし、ろくに言葉も交わさない。そもそも彼女は俺のことを覚えていなかったし」

 なんだか話していて、悲しくなってきた。
 確かに幼い翠子さんを笠井家に送って、この家に戻ってきたら、急に我が家が静かに思えたのだった。

「そりゃあ、しょうがありませんよ。あーんな小さな子が、一人で迷子になって心細かったでしょうし。知らぬ家で緊張もしてたでしょうしねぇ」
「その割に、元気そうだったぞ」
「そう振る舞っていたんですよ、きっと」

 なるほど、そういうものなのか。
 お清は「一度、ちゃんと話してごらんなさい。お坊ちゃんは、数学の難しさと顔の怖さがセットになっているんですよ」と失礼なことを言った。
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