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五章
7、早朝
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早朝、目が覚めた時に旦那さまがわたくしの顔を眺めていらっしゃいました。
布団に片肘をついて、少し上体を起こした姿です。
「あ、あの。どうかなさいましたか」
「ああ、目を覚まさせてしまったな。済まない」
壁の時計を見上げた旦那さまが「まだ四時過ぎだ。もう少し寝なさい」と仰います。
この時期は夜が明けるのがとても早いです。四時だというのに、蚊帳越しに朝焼けの空が見えます。
「眠れないのですか?」
「翠子さんが、布団を蹴飛ばしたから掛けていただけだ」
「そんなっ……」
「冗談だよ」
そう仰る旦那さまは、困ったように眉を下げました。そうしてわたくしに背中を向けて、ご自分の布団に入られたのです。
わたくしはそっと手を伸ばして、旦那さまの背中に触れました。刹那、旦那さまがびくっと身を竦ませるのが伝わってきました。
「ご機嫌斜めですか?」
「いや、斜めではないが。なぜだ?」
「雰囲気がいつもより硬いですから」
もしかしたら、呆れていらっしゃるのかもしれません。お仕置きに耐え切れずに根を上げてしまったのですから。
旦那さまに心配をかけたのは事実ですし、あんな風に走って探しに来てくださったのですから。怒っていないまでも、辟易となさっているかもしれません。
どうしましょう。でも、またお仕置きの続きをなんて、言えるはずもありませんし。言いたくないです。
ああ、でも。お仕置きもそんなに時間が経っていないと仰っていたような。
この家に来た日に、一人で行動しないように、自宅に戻らないようにと命じられました。
わたくしは最初、旦那さまに買われた身なので、自由が与えられるはずないのだと感じていました。
でも、違ったのです。
九年前、わたくしが迷子になった時。旦那さまはわたくしと手をつないで、安全だった笠井の家に戻してくださいました。
そして今、その家が危険であるから、わたくしの手を引いて連れ出してくれたのです。
わたくしは夏布団から抜け出して、旦那さまの背にぴたりと寄り添いました。
「翠子さん?」
「一緒に眠ってもいいですか」
旦那さまの返事はありません。
やはり迷惑だったのでしょうか。ためらいがちに離れようとすると、肩越しに旦那さまが手を伸ばしてきました。
ひんやりとした大きな手が、わたくしの手を包みます。
「……一緒にいてほしい」
「でも、ご迷惑では?」
蚊遣りがもう消えかけているのでしょう。蚊帳の外でゆらりと立ち上っていた煙が、大気に溶け込むように淡く見えなくなりました。
「迷惑であるはずがない」
旦那さまは手を離すと体の向きを変えて、わたくしを見つめました。前髪を下ろしていらっしゃるので、普段の旦那さまよりも年若く見えます。
いいえ、前髪のせいだけではありません。
戸惑うような琥珀色の瞳に、常にはない旦那さまの寂しさが映っているようで、そのために幼く見えるのでしょうか。
「どうしたらいいんだろうな。ここが、俺の傍があなたにとって安全な場所であるようにと心がけているはずなのに。嫉妬であなたに無茶をしてしまう」
「旦那さま……」
「愛しているのに、その愛ゆえにあなたを苦しめるのなら。俺は……」
――もしかしてこの手を離した方がいいんだろうか。
そんな声にならない言葉が、聞こえてきた気がします。
いいえ。もし声に出しても、きっと朝露が葉から落ちるように、かそけき音だったでしょう。
ですから、わたくしは旦那さまの頬に手を添えました。
「何を?」
「いいのです。わたくしが、旦那さまを撫でてさしあげたいと思っただけです」
「だが……」
なおも言い募ろうとする旦那さまの唇に、わたくしは人差し指を当てました。そしてゆっくりと頬を撫でます。
旦那さまは、戸惑ったように視線を惑わせた後で、静かに瞼を閉じました。
お仕置きという名目ではありましたが、普段の愛し方を焦らされ続けただけで、決して傷つけられたわけではありません。
旦那さまは、わたくしを取り巻く笠井家の環境と、ご自身の不幸な子ども時代を重ね合わせていらっしゃるのかもしれません。
「旦那さまも、わたくしに甘えていいのですよ」
「俺が翠子さんに?」
「こう見えて包容力はあるのです。土鍋くらいには」
ふっと旦那さまが噴き出しました。何が面白かったのか、肩を震わせながら笑っていらっしゃいます。
「ありがとう。たぶん俺は、割とあなたに甘えている方だと思う」
そうなのでしょうか。いつも凛として自信がおありなのに。旦那さまに寄りかかっているのは、わたくしの方ですのに。
首をかしげながらも、旦那さまの頬に手を添えます。
「温かいな」
「わたくし、体温が高いのです」
「手だけじゃないよ。あなたの存在が、あなたが俺といてくれることが温かいんだ」
そう言って微笑むと、旦那さまはわたくしを抱き寄せました。
「それから、土鍋にあるのは包容力ではなく、保温力だと思うぞ」
そ、そうですね。
わたくしは恥ずかしがりながら、浴衣越しに感じる逞しい胸に顔を埋めていると、いつの間にかまた眠ってしまいました。
布団に片肘をついて、少し上体を起こした姿です。
「あ、あの。どうかなさいましたか」
「ああ、目を覚まさせてしまったな。済まない」
壁の時計を見上げた旦那さまが「まだ四時過ぎだ。もう少し寝なさい」と仰います。
この時期は夜が明けるのがとても早いです。四時だというのに、蚊帳越しに朝焼けの空が見えます。
「眠れないのですか?」
「翠子さんが、布団を蹴飛ばしたから掛けていただけだ」
「そんなっ……」
「冗談だよ」
そう仰る旦那さまは、困ったように眉を下げました。そうしてわたくしに背中を向けて、ご自分の布団に入られたのです。
わたくしはそっと手を伸ばして、旦那さまの背中に触れました。刹那、旦那さまがびくっと身を竦ませるのが伝わってきました。
「ご機嫌斜めですか?」
「いや、斜めではないが。なぜだ?」
「雰囲気がいつもより硬いですから」
もしかしたら、呆れていらっしゃるのかもしれません。お仕置きに耐え切れずに根を上げてしまったのですから。
旦那さまに心配をかけたのは事実ですし、あんな風に走って探しに来てくださったのですから。怒っていないまでも、辟易となさっているかもしれません。
どうしましょう。でも、またお仕置きの続きをなんて、言えるはずもありませんし。言いたくないです。
ああ、でも。お仕置きもそんなに時間が経っていないと仰っていたような。
この家に来た日に、一人で行動しないように、自宅に戻らないようにと命じられました。
わたくしは最初、旦那さまに買われた身なので、自由が与えられるはずないのだと感じていました。
でも、違ったのです。
九年前、わたくしが迷子になった時。旦那さまはわたくしと手をつないで、安全だった笠井の家に戻してくださいました。
そして今、その家が危険であるから、わたくしの手を引いて連れ出してくれたのです。
わたくしは夏布団から抜け出して、旦那さまの背にぴたりと寄り添いました。
「翠子さん?」
「一緒に眠ってもいいですか」
旦那さまの返事はありません。
やはり迷惑だったのでしょうか。ためらいがちに離れようとすると、肩越しに旦那さまが手を伸ばしてきました。
ひんやりとした大きな手が、わたくしの手を包みます。
「……一緒にいてほしい」
「でも、ご迷惑では?」
蚊遣りがもう消えかけているのでしょう。蚊帳の外でゆらりと立ち上っていた煙が、大気に溶け込むように淡く見えなくなりました。
「迷惑であるはずがない」
旦那さまは手を離すと体の向きを変えて、わたくしを見つめました。前髪を下ろしていらっしゃるので、普段の旦那さまよりも年若く見えます。
いいえ、前髪のせいだけではありません。
戸惑うような琥珀色の瞳に、常にはない旦那さまの寂しさが映っているようで、そのために幼く見えるのでしょうか。
「どうしたらいいんだろうな。ここが、俺の傍があなたにとって安全な場所であるようにと心がけているはずなのに。嫉妬であなたに無茶をしてしまう」
「旦那さま……」
「愛しているのに、その愛ゆえにあなたを苦しめるのなら。俺は……」
――もしかしてこの手を離した方がいいんだろうか。
そんな声にならない言葉が、聞こえてきた気がします。
いいえ。もし声に出しても、きっと朝露が葉から落ちるように、かそけき音だったでしょう。
ですから、わたくしは旦那さまの頬に手を添えました。
「何を?」
「いいのです。わたくしが、旦那さまを撫でてさしあげたいと思っただけです」
「だが……」
なおも言い募ろうとする旦那さまの唇に、わたくしは人差し指を当てました。そしてゆっくりと頬を撫でます。
旦那さまは、戸惑ったように視線を惑わせた後で、静かに瞼を閉じました。
お仕置きという名目ではありましたが、普段の愛し方を焦らされ続けただけで、決して傷つけられたわけではありません。
旦那さまは、わたくしを取り巻く笠井家の環境と、ご自身の不幸な子ども時代を重ね合わせていらっしゃるのかもしれません。
「旦那さまも、わたくしに甘えていいのですよ」
「俺が翠子さんに?」
「こう見えて包容力はあるのです。土鍋くらいには」
ふっと旦那さまが噴き出しました。何が面白かったのか、肩を震わせながら笑っていらっしゃいます。
「ありがとう。たぶん俺は、割とあなたに甘えている方だと思う」
そうなのでしょうか。いつも凛として自信がおありなのに。旦那さまに寄りかかっているのは、わたくしの方ですのに。
首をかしげながらも、旦那さまの頬に手を添えます。
「温かいな」
「わたくし、体温が高いのです」
「手だけじゃないよ。あなたの存在が、あなたが俺といてくれることが温かいんだ」
そう言って微笑むと、旦那さまはわたくしを抱き寄せました。
「それから、土鍋にあるのは包容力ではなく、保温力だと思うぞ」
そ、そうですね。
わたくしは恥ずかしがりながら、浴衣越しに感じる逞しい胸に顔を埋めていると、いつの間にかまた眠ってしまいました。
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