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七章
12、燐寸の思い出【1】
雨はまだ降っていますが、勢いは弱まって来たようです。
おじさまは何やら悪態をつきながら、去っていきました。
わたくしは、旦那さまの腕の中に閉じ込められたままです。
濡れたシャツの布地を通して、旦那さまのしなやかな肌の感触が伝わってきます。
「これでもう大丈夫でしょうか。翠子さまは、狙われませんよね」
「さぁな。あいつは相当しつこいからな。こちらも先に手を打つ必要があるだろうな」
「……奴は敵に回しちゃいけない人を、相手にしたわけですね」
「銀司。君、たまに失礼なことを言うね。俺は少し鍛練したことがあるだけだ」
「何処でですか?」
「内緒」
それに俺はただの数学教師だよ、と言いながら、旦那さまはわたくしにくちづけを降らせます。
まるで雨に打たれるくらいなら、俺のキスに打たれなさいとでも仰るかのように。
「あの、どうしてここがお分かりになったんですか?」
「んー。今、俺は忙しい」
人通りがないとはいえ、ここは往来ですのに。銀司さんもいらっしゃいますのに。旦那さまはまだ、わたくしの頬に接吻なさいます。
自由すぎです。
でも、その旦那さまの自由さで、わたくしはさっきの恐怖が薄らいでいるのを感じました。
旦那さまの背にまわした手も指も、もう震えておりませんもの。
「本当によかった。間に合って」
耳元で囁くその声は、かすれていました。
ああ、怖いのはわたくしや銀司さんだけではなかったのですね。旦那さまにとって、恐ろしいのはわたくしが攫われてしまうことなのですね。
「翠子は、ちゃんとおります」
いつも飄々となさって、人を小馬鹿にしたような風情でいらっしゃるのに。
こんなにもわたくしを想って、大事にしてくださるなんて。
好きです、旦那さま。
大好きです。何度言葉を重ねても、足りないほどに。
なぜここが分かったのかと再度尋ねると、旦那さまは窓から校門へと向かうわたくしを見ていたのだと教えてくださいました。
校舎からは遠いのではっきりとは分からなかったそうですが、明らかにわたくしの先にいるのが銀司さんではないことに異変を感じて、すぐに追いかけてくださったらしいのです。
確かに旦那さまの足下を見れば、外履き用の革靴ではありません。室内履きであるスリッパです。
よくこれで雨の中を走れたものです。
「でも、わたくし達が逃げ込んだ生垣までは分かりませんよね」
「うん、そうだな」
旦那さまにとっては、説明よりもキスの方が重要なようです。今度は雨に濡れたわたくしの瞼にくちづけます。
あの、教えていただきたいんですけど。
たっぷりと時間をかけて、キスの雨を降らせた後で、旦那さまは少ししゃがみ込みました。そして小さくて細い棒を二本拾い上げます。
「燐寸……ですね」
旦那さまがてのひらに載せた燐寸は、軸がそれぞれ水色と黄色です。変わった色ですが、見覚えがあります。
「銀司さんの燐寸ですか?」
「そう。椰子のシルエットの箱に入っていたものだ。な、銀司。大事なものを済まなかったな」
話を振られた銀司さんは、頭を掻きながら口をへの字に曲げています。
「いや、別に大事でも何でもないですから」
「だが、これは」
「普通の燐寸です。旦那さまが、捨てておいてください」
銀司さんは、どこかふてくされた様子に見えます。怒っていらっしゃるのでしょうか。そうですよね、とてもご迷惑をおかけしたんですもの。
「あの、ごめんなさい。わたくしのせいで」
「謝るな。怒ってなんかいない!」
「ひゃっ」
大きな声で怒鳴られて、わたくしは身を竦めてしまいました。銀司さんは、そんなわたくしを見て一瞬おろおろと手を伸ばそうとしましたが、すぐに引っ込めてしまいました。
「銀司、お前なぁ。翠子さんに当たり散らすなよ」
「旦那さま。こうやって来られたってことは、もう仕事は大丈夫なんですよね?」
「あ、ああ」
「じゃあ翠子さまを任せても平気ですね」
そう念を押すと、銀司さんは家の方へ駆けていきました。旦那さまは、小さくなっていく背中を眺めながら、ため息をつきます。
嫌われてしまいました。
小降りになった雨の中で、わたくしは地面にしゃがんで燐寸を拾いました。すでに髪も銘仙の着物の袖もびしょ濡れで、体にまとわりついてきます。
けれど、大事な燐寸が誰かに踏まれては大変です。暗くなってからでは、もう見えませんから、急がなければなりません。
女学校の方へと道を戻り、一本ずつ丹念に回収していきます。
「翠子さん。それ、どうするんだい?」
「乾かして、銀司さんにお返しします。もう使えないかもしれませんが」
「うん、そうだな」
旦那さまも燐寸拾いを手伝ってくださいます。さっきの「そうだな」は、使えない方ではなく、返すことが大事だとその態度から伝わってきます。
そぼ降る雨の中、ずぶ濡れの二人が地面にしゃがみ込んでいるのですから、道行く人たちは怪訝そうに振り返っていきます。
長く雨の中にいるせいで、指先がうまく動きません。
それでも間違って軸を折ることのないよう、気をつけます。
途中、濡れそぼった箱が見つかりました。夕暮れに椰子のシルエット。間違いありません。
「きれいな燐寸だから、銀司さんは大事になさっているのでしょうか」
「さぁ、どうだろうな。これは銀司がうちに来た時に、あげたものなんだ」
「旦那さまが?」
意外です。贈り物をするなら、もっとそれらしい物を用意すると思ったのですから。
けれど旦那さまは、懐かしそうに燐寸の箱を眺めていらっしゃいます。
「最初に出会った銀司は、今の翠子さんくらいの年頃だったな。俺はすでに女学校で働いていた。まぁ、俺に言われたくもないだろうが、銀司も愛想がなく口が重いからな。なかなかよそで仕事が続かなくてね」
まったく褒めてはいらっしゃらないのに。旦那さまの瞳はとても優しくて、手の中にあるのが燐寸の箱ではなく、花野で摘んだばかりの愛らしい小花を見つめていらっしゃるように思えました。
旦那さまと銀司さんの大事が、きっとその小さな箱に詰まっているのでしょう。
おじさまは何やら悪態をつきながら、去っていきました。
わたくしは、旦那さまの腕の中に閉じ込められたままです。
濡れたシャツの布地を通して、旦那さまのしなやかな肌の感触が伝わってきます。
「これでもう大丈夫でしょうか。翠子さまは、狙われませんよね」
「さぁな。あいつは相当しつこいからな。こちらも先に手を打つ必要があるだろうな」
「……奴は敵に回しちゃいけない人を、相手にしたわけですね」
「銀司。君、たまに失礼なことを言うね。俺は少し鍛練したことがあるだけだ」
「何処でですか?」
「内緒」
それに俺はただの数学教師だよ、と言いながら、旦那さまはわたくしにくちづけを降らせます。
まるで雨に打たれるくらいなら、俺のキスに打たれなさいとでも仰るかのように。
「あの、どうしてここがお分かりになったんですか?」
「んー。今、俺は忙しい」
人通りがないとはいえ、ここは往来ですのに。銀司さんもいらっしゃいますのに。旦那さまはまだ、わたくしの頬に接吻なさいます。
自由すぎです。
でも、その旦那さまの自由さで、わたくしはさっきの恐怖が薄らいでいるのを感じました。
旦那さまの背にまわした手も指も、もう震えておりませんもの。
「本当によかった。間に合って」
耳元で囁くその声は、かすれていました。
ああ、怖いのはわたくしや銀司さんだけではなかったのですね。旦那さまにとって、恐ろしいのはわたくしが攫われてしまうことなのですね。
「翠子は、ちゃんとおります」
いつも飄々となさって、人を小馬鹿にしたような風情でいらっしゃるのに。
こんなにもわたくしを想って、大事にしてくださるなんて。
好きです、旦那さま。
大好きです。何度言葉を重ねても、足りないほどに。
なぜここが分かったのかと再度尋ねると、旦那さまは窓から校門へと向かうわたくしを見ていたのだと教えてくださいました。
校舎からは遠いのではっきりとは分からなかったそうですが、明らかにわたくしの先にいるのが銀司さんではないことに異変を感じて、すぐに追いかけてくださったらしいのです。
確かに旦那さまの足下を見れば、外履き用の革靴ではありません。室内履きであるスリッパです。
よくこれで雨の中を走れたものです。
「でも、わたくし達が逃げ込んだ生垣までは分かりませんよね」
「うん、そうだな」
旦那さまにとっては、説明よりもキスの方が重要なようです。今度は雨に濡れたわたくしの瞼にくちづけます。
あの、教えていただきたいんですけど。
たっぷりと時間をかけて、キスの雨を降らせた後で、旦那さまは少ししゃがみ込みました。そして小さくて細い棒を二本拾い上げます。
「燐寸……ですね」
旦那さまがてのひらに載せた燐寸は、軸がそれぞれ水色と黄色です。変わった色ですが、見覚えがあります。
「銀司さんの燐寸ですか?」
「そう。椰子のシルエットの箱に入っていたものだ。な、銀司。大事なものを済まなかったな」
話を振られた銀司さんは、頭を掻きながら口をへの字に曲げています。
「いや、別に大事でも何でもないですから」
「だが、これは」
「普通の燐寸です。旦那さまが、捨てておいてください」
銀司さんは、どこかふてくされた様子に見えます。怒っていらっしゃるのでしょうか。そうですよね、とてもご迷惑をおかけしたんですもの。
「あの、ごめんなさい。わたくしのせいで」
「謝るな。怒ってなんかいない!」
「ひゃっ」
大きな声で怒鳴られて、わたくしは身を竦めてしまいました。銀司さんは、そんなわたくしを見て一瞬おろおろと手を伸ばそうとしましたが、すぐに引っ込めてしまいました。
「銀司、お前なぁ。翠子さんに当たり散らすなよ」
「旦那さま。こうやって来られたってことは、もう仕事は大丈夫なんですよね?」
「あ、ああ」
「じゃあ翠子さまを任せても平気ですね」
そう念を押すと、銀司さんは家の方へ駆けていきました。旦那さまは、小さくなっていく背中を眺めながら、ため息をつきます。
嫌われてしまいました。
小降りになった雨の中で、わたくしは地面にしゃがんで燐寸を拾いました。すでに髪も銘仙の着物の袖もびしょ濡れで、体にまとわりついてきます。
けれど、大事な燐寸が誰かに踏まれては大変です。暗くなってからでは、もう見えませんから、急がなければなりません。
女学校の方へと道を戻り、一本ずつ丹念に回収していきます。
「翠子さん。それ、どうするんだい?」
「乾かして、銀司さんにお返しします。もう使えないかもしれませんが」
「うん、そうだな」
旦那さまも燐寸拾いを手伝ってくださいます。さっきの「そうだな」は、使えない方ではなく、返すことが大事だとその態度から伝わってきます。
そぼ降る雨の中、ずぶ濡れの二人が地面にしゃがみ込んでいるのですから、道行く人たちは怪訝そうに振り返っていきます。
長く雨の中にいるせいで、指先がうまく動きません。
それでも間違って軸を折ることのないよう、気をつけます。
途中、濡れそぼった箱が見つかりました。夕暮れに椰子のシルエット。間違いありません。
「きれいな燐寸だから、銀司さんは大事になさっているのでしょうか」
「さぁ、どうだろうな。これは銀司がうちに来た時に、あげたものなんだ」
「旦那さまが?」
意外です。贈り物をするなら、もっとそれらしい物を用意すると思ったのですから。
けれど旦那さまは、懐かしそうに燐寸の箱を眺めていらっしゃいます。
「最初に出会った銀司は、今の翠子さんくらいの年頃だったな。俺はすでに女学校で働いていた。まぁ、俺に言われたくもないだろうが、銀司も愛想がなく口が重いからな。なかなかよそで仕事が続かなくてね」
まったく褒めてはいらっしゃらないのに。旦那さまの瞳はとても優しくて、手の中にあるのが燐寸の箱ではなく、花野で摘んだばかりの愛らしい小花を見つめていらっしゃるように思えました。
旦那さまと銀司さんの大事が、きっとその小さな箱に詰まっているのでしょう。
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