【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

文字の大きさ
102 / 247
七章

12、燐寸の思い出【1】

 雨はまだ降っていますが、勢いは弱まって来たようです。
 おじさまは何やら悪態をつきながら、去っていきました。

 わたくしは、旦那さまの腕の中に閉じ込められたままです。
 濡れたシャツの布地を通して、旦那さまのしなやかな肌の感触が伝わってきます。

「これでもう大丈夫でしょうか。翠子さまは、狙われませんよね」
「さぁな。あいつは相当しつこいからな。こちらも先に手を打つ必要があるだろうな」
「……奴は敵に回しちゃいけない人を、相手にしたわけですね」

「銀司。君、たまに失礼なことを言うね。俺は少し鍛練したことがあるだけだ」
「何処でですか?」
「内緒」

 それに俺はただの数学教師だよ、と言いながら、旦那さまはわたくしにくちづけを降らせます。
 まるで雨に打たれるくらいなら、俺のキスに打たれなさいとでも仰るかのように。

「あの、どうしてここがお分かりになったんですか?」
「んー。今、俺は忙しい」

 人通りがないとはいえ、ここは往来ですのに。銀司さんもいらっしゃいますのに。旦那さまはまだ、わたくしの頬に接吻なさいます。
 自由すぎです。
 でも、その旦那さまの自由さで、わたくしはさっきの恐怖が薄らいでいるのを感じました。
 旦那さまの背にまわした手も指も、もう震えておりませんもの。

「本当によかった。間に合って」

 耳元で囁くその声は、かすれていました。
 ああ、怖いのはわたくしや銀司さんだけではなかったのですね。旦那さまにとって、恐ろしいのはわたくしが攫われてしまうことなのですね。

「翠子は、ちゃんとおります」

 いつも飄々となさって、人を小馬鹿にしたような風情でいらっしゃるのに。
 こんなにもわたくしを想って、大事にしてくださるなんて。
 好きです、旦那さま。
 大好きです。何度言葉を重ねても、足りないほどに。

 なぜここが分かったのかと再度尋ねると、旦那さまは窓から校門へと向かうわたくしを見ていたのだと教えてくださいました。
 校舎からは遠いのではっきりとは分からなかったそうですが、明らかにわたくしの先にいるのが銀司さんではないことに異変を感じて、すぐに追いかけてくださったらしいのです。

 確かに旦那さまの足下を見れば、外履き用の革靴ではありません。室内履きであるスリッパです。
 よくこれで雨の中を走れたものです。

「でも、わたくし達が逃げ込んだ生垣までは分かりませんよね」
「うん、そうだな」

 旦那さまにとっては、説明よりもキスの方が重要なようです。今度は雨に濡れたわたくしの瞼にくちづけます。
 あの、教えていただきたいんですけど。

 たっぷりと時間をかけて、キスの雨を降らせた後で、旦那さまは少ししゃがみ込みました。そして小さくて細い棒を二本拾い上げます。

燐寸マッチ……ですね」

 旦那さまがてのひらに載せた燐寸は、軸がそれぞれ水色と黄色です。変わった色ですが、見覚えがあります。

「銀司さんの燐寸ですか?」
「そう。椰子のシルエットの箱に入っていたものだ。な、銀司。大事なものを済まなかったな」

 話を振られた銀司さんは、頭を掻きながら口をへの字に曲げています。

「いや、別に大事でも何でもないですから」
「だが、これは」
「普通の燐寸です。旦那さまが、捨てておいてください」

 銀司さんは、どこかふてくされた様子に見えます。怒っていらっしゃるのでしょうか。そうですよね、とてもご迷惑をおかけしたんですもの。

「あの、ごめんなさい。わたくしのせいで」
「謝るな。怒ってなんかいない!」
「ひゃっ」

 大きな声で怒鳴られて、わたくしは身を竦めてしまいました。銀司さんは、そんなわたくしを見て一瞬おろおろと手を伸ばそうとしましたが、すぐに引っ込めてしまいました。

「銀司、お前なぁ。翠子さんに当たり散らすなよ」
「旦那さま。こうやって来られたってことは、もう仕事は大丈夫なんですよね?」
「あ、ああ」
「じゃあ翠子さまを任せても平気ですね」

 そう念を押すと、銀司さんは家の方へ駆けていきました。旦那さまは、小さくなっていく背中を眺めながら、ため息をつきます。

 嫌われてしまいました。

 小降りになった雨の中で、わたくしは地面にしゃがんで燐寸を拾いました。すでに髪も銘仙の着物の袖もびしょ濡れで、体にまとわりついてきます。
 けれど、大事な燐寸が誰かに踏まれては大変です。暗くなってからでは、もう見えませんから、急がなければなりません。

 女学校の方へと道を戻り、一本ずつ丹念に回収していきます。

「翠子さん。それ、どうするんだい?」
「乾かして、銀司さんにお返しします。もう使えないかもしれませんが」
「うん、そうだな」

 旦那さまも燐寸拾いを手伝ってくださいます。さっきの「そうだな」は、使えない方ではなく、返すことが大事だとその態度から伝わってきます。
 
 そぼ降る雨の中、ずぶ濡れの二人が地面にしゃがみ込んでいるのですから、道行く人たちは怪訝そうに振り返っていきます。
 長く雨の中にいるせいで、指先がうまく動きません。
 それでも間違って軸を折ることのないよう、気をつけます。

 途中、濡れそぼった箱が見つかりました。夕暮れに椰子のシルエット。間違いありません。

「きれいな燐寸だから、銀司さんは大事になさっているのでしょうか」
「さぁ、どうだろうな。これは銀司がうちに来た時に、あげたものなんだ」
「旦那さまが?」

 意外です。贈り物をするなら、もっとそれらしい物を用意すると思ったのですから。
 けれど旦那さまは、懐かしそうに燐寸の箱を眺めていらっしゃいます。

「最初に出会った銀司は、今の翠子さんくらいの年頃だったな。俺はすでに女学校で働いていた。まぁ、俺に言われたくもないだろうが、銀司も愛想がなく口が重いからな。なかなかよそで仕事が続かなくてね」

 まったく褒めてはいらっしゃらないのに。旦那さまの瞳はとても優しくて、手の中にあるのが燐寸の箱ではなく、花野で摘んだばかりの愛らしい小花を見つめていらっしゃるように思えました。

 旦那さまと銀司さんの大事が、きっとその小さな箱に詰まっているのでしょう。
感想 10

あなたにおすすめの小説

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

女の子がほとんど産まれない国に転生しました。

さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。 100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳 そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。 当面は2日に1話更新予定!

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

お隣さんはヤのつくご職業

古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。 残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。 元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。 ……え、ちゃんとしたもん食え? ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!! ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ 建築基準法と物理法則なんて知りません 登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。 2020/5/26 完結

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end** ◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です! https://estar.jp/novels/26513389

「職場では隙のない完璧な先輩が、家ではゆるニットで甘えてくる。それでも彼女は、まだ俺の恋人じゃない」

まさき
恋愛
会社では完璧で、誰も近づけない先輩。 そんな彼女と、俺は同じ部屋で暮らしている。 「…おかえり」 ゆるニット姿の彼女は、家でだけ甘い声を出す。 近い。甘い。それでも―― 「ちゃんと付き合ってから」 彼女は知っている。自分が好きになりすぎることを。 嫌われるのが怖くて、迷惑になるのが怖くて。 だから一歩手前で、いつも笑って止まる。 最初から好きなくせに、言えない彼女と。 気づいているのに、待っている俺の話。