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八章
2、宵祭りの回想
俺は二十以上年も前のことを思い出していた。
二十数年ほど昔か。まだ翠子さんは生まれてもいないな。遠い過去のことだ。
あの時、俺は一つ年上の琥太郎兄さんと一緒にこの神社の宵祭りに来ていた。兄さんと呼んではいるが、血は繋がっていない。いわゆる幼馴染みだ。
俺は夏になれば虫捕り、近くの浜へ海水浴、さらには山登りと、ほとんど家にいることがなかった。
この街は海と山が近く、汽車やらケーブルカーの便がいいので、子どもでも行動範囲が広いのだ。
たとえ平日であっても、毎日が土曜日の午後のような解放感と、避暑地や避寒地に暮らしているような楽しさがある。
なのに琥太兄は、あまり外出を好まない少年だった。
俺が遊びに行っても、結局室内で一緒に本を読んで過ごすことが多い。
体が弱いわけではない。ただ、ぞろぞろとお付きの者がついてくるから、嫌なんだそうだ。
どれだけ高貴な身分だよと思うだろうが。そうではない。
ああ、いや。身分が高いといえば高いのか? よく知らないが。
うちよりも大きな門には、うちの表札よりも何倍も大きい木の板が掛けられている。墨で書かれたその文字は『三條組』
学校の教室でもないのになんで『組』なんて足してあるんだろう、と少しばかり不思議に思っていた。
だって仕方ないだろう? 琥太兄の家に強面の男たちがいっぱいいるのも、物心つく前から見慣れてしまっているんだから。
極道で顔が怖い人たちといっても、俺は組長のお坊ちゃんの友達だから。皆、俺には優しくしてくれた。
トンボを追いかけていたら、捕まえてくれた人もいる。
しかも子どもの憧れ、ギンヤンマとオニヤンマだ。
その人は顔にひどい傷痕があったけど。それでも翅がもげないように、そっとトンボを捕まえる仕草は穏やかで。
だから、知らぬ内に慣れてしまったんだな。町内にヤクザがいる情景に。
「なぁ、欧之丞。今日、宵祭りっていうのがあるんやって。一緒に行かへん?」
「行きたい。俺、お清としか行ったことがないんだ」
「じゃあ、二人で行こか。皆には内緒やで」
難しそうな本を読んでいた琥太郎兄さんは、晴れやかな笑顔を浮かべた。
子どもだけで夜に出かける。それは、きらきらと輝く提案だ。
夜の八時に家を抜け出して、宵祭りのある神社で待ち合わせをしようと約束した。
暗いといっても祭りで人出はあるし、そもそも神社は近所だ。
何も問題ないと思っていた。
俺も琥太兄も、まだ子どもだったからな。
約束の時間に俺は神社の石段に座って待っていた。けど、琥太兄は来ない。浴衣姿の親子連れが、楽しそうに缶を手に石段を下りていく。
あれは多分、金魚すくいだ。缶に水を入れて、取った金魚を持ち帰っているんだ。
「高瀬のお坊ちゃん」
突然、低い声で話しかけられて俺は顔を上げた。
無数の提灯に火が入り、明るく華やいだ祭りの会場で、そこだけが異質に闇に沈んでいた。
黒い背広やら、着流しやら。とにかく黒っぽくて厳めしい男たちが、壁の様に立っている。
闇が塊となって、移動してきたように見えた。
「ご、ごめん。欧之丞」
「琥太兄」
「家を出ようとしたら、見つかってしもて」
男たちの壁の間から、半泣きの琥太郎兄さんが顔を出した。
「駄目ですよ、琥太郎さま。我々をお連れ下さらないと」
「頭に俺らが叱られてしまいます。指一本で済めばいいのですが」
「高瀬の坊ちゃん。まさか琥太郎さまをそそのかしたんと、ちゃいますよね」
俺は、ぶんぶんと首を振った。まるで高速で首が飛んでいくんじゃないかというほどに。
「ちゃう。欧之丞やない。ぼくが誘ったんや。二人だけで出かけたかったんや」
琥太郎兄さんは必死で食い下がったけど。結局、宵祭りにはぞろぞろとヤクザがついて歩くことになった。
露店の店主は、次々と出てきては三條組の人たちに頭を下げるし。親子連れや普通の参拝客は、異質な集団を遠巻きに避けるし。
子ども二人で楽しく遊ぼうと思っていたのに。実際は真逆というか。いっそ帰りたいと思ったが「次期組長として、ちゃんと挨拶せんとあきません」と命じられて、琥太郎兄さんは連れまわされていた。
しかも、絶対に逃がさないという決意で、琥太郎兄さんは俺の腕をしっかりと握りしめて。
「三條組はお坊ちゃんが二人なんですか?」と尋ねられるたびに、俺は「違います」と首を振り。あの時は、一生分の首を振った気がする。
あれ以来、一度として宵祭りには来たことがない。
逆に蒼一郎おじさん……琥太郎兄さんの父親に話を通していたら、何も問題なかっただろうに。
子どもには、その辺りの事情が分からないものなんだ。
二十数年ほど昔か。まだ翠子さんは生まれてもいないな。遠い過去のことだ。
あの時、俺は一つ年上の琥太郎兄さんと一緒にこの神社の宵祭りに来ていた。兄さんと呼んではいるが、血は繋がっていない。いわゆる幼馴染みだ。
俺は夏になれば虫捕り、近くの浜へ海水浴、さらには山登りと、ほとんど家にいることがなかった。
この街は海と山が近く、汽車やらケーブルカーの便がいいので、子どもでも行動範囲が広いのだ。
たとえ平日であっても、毎日が土曜日の午後のような解放感と、避暑地や避寒地に暮らしているような楽しさがある。
なのに琥太兄は、あまり外出を好まない少年だった。
俺が遊びに行っても、結局室内で一緒に本を読んで過ごすことが多い。
体が弱いわけではない。ただ、ぞろぞろとお付きの者がついてくるから、嫌なんだそうだ。
どれだけ高貴な身分だよと思うだろうが。そうではない。
ああ、いや。身分が高いといえば高いのか? よく知らないが。
うちよりも大きな門には、うちの表札よりも何倍も大きい木の板が掛けられている。墨で書かれたその文字は『三條組』
学校の教室でもないのになんで『組』なんて足してあるんだろう、と少しばかり不思議に思っていた。
だって仕方ないだろう? 琥太兄の家に強面の男たちがいっぱいいるのも、物心つく前から見慣れてしまっているんだから。
極道で顔が怖い人たちといっても、俺は組長のお坊ちゃんの友達だから。皆、俺には優しくしてくれた。
トンボを追いかけていたら、捕まえてくれた人もいる。
しかも子どもの憧れ、ギンヤンマとオニヤンマだ。
その人は顔にひどい傷痕があったけど。それでも翅がもげないように、そっとトンボを捕まえる仕草は穏やかで。
だから、知らぬ内に慣れてしまったんだな。町内にヤクザがいる情景に。
「なぁ、欧之丞。今日、宵祭りっていうのがあるんやって。一緒に行かへん?」
「行きたい。俺、お清としか行ったことがないんだ」
「じゃあ、二人で行こか。皆には内緒やで」
難しそうな本を読んでいた琥太郎兄さんは、晴れやかな笑顔を浮かべた。
子どもだけで夜に出かける。それは、きらきらと輝く提案だ。
夜の八時に家を抜け出して、宵祭りのある神社で待ち合わせをしようと約束した。
暗いといっても祭りで人出はあるし、そもそも神社は近所だ。
何も問題ないと思っていた。
俺も琥太兄も、まだ子どもだったからな。
約束の時間に俺は神社の石段に座って待っていた。けど、琥太兄は来ない。浴衣姿の親子連れが、楽しそうに缶を手に石段を下りていく。
あれは多分、金魚すくいだ。缶に水を入れて、取った金魚を持ち帰っているんだ。
「高瀬のお坊ちゃん」
突然、低い声で話しかけられて俺は顔を上げた。
無数の提灯に火が入り、明るく華やいだ祭りの会場で、そこだけが異質に闇に沈んでいた。
黒い背広やら、着流しやら。とにかく黒っぽくて厳めしい男たちが、壁の様に立っている。
闇が塊となって、移動してきたように見えた。
「ご、ごめん。欧之丞」
「琥太兄」
「家を出ようとしたら、見つかってしもて」
男たちの壁の間から、半泣きの琥太郎兄さんが顔を出した。
「駄目ですよ、琥太郎さま。我々をお連れ下さらないと」
「頭に俺らが叱られてしまいます。指一本で済めばいいのですが」
「高瀬の坊ちゃん。まさか琥太郎さまをそそのかしたんと、ちゃいますよね」
俺は、ぶんぶんと首を振った。まるで高速で首が飛んでいくんじゃないかというほどに。
「ちゃう。欧之丞やない。ぼくが誘ったんや。二人だけで出かけたかったんや」
琥太郎兄さんは必死で食い下がったけど。結局、宵祭りにはぞろぞろとヤクザがついて歩くことになった。
露店の店主は、次々と出てきては三條組の人たちに頭を下げるし。親子連れや普通の参拝客は、異質な集団を遠巻きに避けるし。
子ども二人で楽しく遊ぼうと思っていたのに。実際は真逆というか。いっそ帰りたいと思ったが「次期組長として、ちゃんと挨拶せんとあきません」と命じられて、琥太郎兄さんは連れまわされていた。
しかも、絶対に逃がさないという決意で、琥太郎兄さんは俺の腕をしっかりと握りしめて。
「三條組はお坊ちゃんが二人なんですか?」と尋ねられるたびに、俺は「違います」と首を振り。あの時は、一生分の首を振った気がする。
あれ以来、一度として宵祭りには来たことがない。
逆に蒼一郎おじさん……琥太郎兄さんの父親に話を通していたら、何も問題なかっただろうに。
子どもには、その辺りの事情が分からないものなんだ。
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