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八章

5、宵祭り【3】

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 旦那さまと琥太郎さんのお話は、すぐに済みました。なにやら茶封筒を旦那さまに渡して、琥太郎さんは「ほな、二人でゆっくりしてき」と去っていきます。

 新しそうですのに、妙にしわの入った封筒です。
 しかも土がついているのか、旦那さまは表面を軽く手で払いました。

 琥太郎さんが歩きはじめると、すぐに脇から強面で体格のいい男性が彼を取り囲みます。
 賑わっていた人たちが、左右に避けて自然と道ができます。そして参道に並ぶ夜店の主たちが、次々に現れて頭を下げました。
 彼が歩く場所だけ、まるで空気が硬く結晶したかのようです。

 あ、察しました。

 そういえば初めて旦那さまと引き合わされるときに、倶利伽羅紋々くりからもんもんを背負った方なのではないかと心配しましたが。
 琥太郎さんの背中には、昇り龍とか刻まれているのかもしれません。

「翠子さんが、置屋に売られるところだっただろう? その情報を教えてくれたのが、琥太郎兄さんなんだ」
「なぜ琥太郎さんが、わたくしのことを?」
「そりゃあ、幼馴染みだからな。俺が笠井男爵の娘の話を、昔からしていたからだろう。笠井男爵は翠子さんを遠くの花街に売ろうとしたようだが、まずは手始めに近場で情報を得ようとしたのではないか?」

 確かに、わたくしにいくらの値が相場であるのか、知る必要はあるでしょう。こんな言い方は嫌ですけど、お父さまにとってはわたくしが買い叩かれては困るでしょうから。

「琥太郎兄さんは仕事柄、歓楽街には詳しいからな。でもそのおかげで、翠子さんを救うことができた」

 けろりと仰いますが、わたくしは存じ上げないことです。
 どうしましょう。本来ならばお礼を言うべきなのに、わたくしはとても失礼な態度をとってしまいました。
 それにしても、インテリのヤ……いえ、やめておきましょう。人を色眼鏡で見てはいけません。

 琥太郎さんは旦那さまの幼馴染みで、わたくしの窮地を救ってくださった方なのです。

 参道に賑わいが戻った時、醤油の焦げる香ばしい匂いが鼻をかすめました。
 それだけではありません。ソースの匂いだってします。

「旦那さま、大変です。いい匂いしかしません」

 くぅとお腹が小さく鳴りました。今日はお夕飯を食べていません。お腹だって空きます。
 あたりを見れば、イカに醤油を塗って焼いたもの、イカ焼きと垂れ幕に記してあります。それに焼きトウモロコシ、ああ、ラジオ焼きなんてあるんですね。なんてハイカラなんでしょう。
 一銭洋食……なるほど、ソースを使うから洋食なのですね。

「翠子さんは何が食べたい?」
「目移りします」
「存分に悩みなさい」

 なぜか旦那さまは笑いを噛み殺しておられます。でも、そんなことはどうでもいいのです。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、目新しくて美味しそうなものばかりです。

「決めました。まずは焼きトウモロコシをいただきます。お野菜は大事ですからね」
「あれは野菜の範疇に入るのか?」
「それからイカ焼きです。その後にラジオ焼きをいただきます。メリケン粉で作ってあるようなので、パン代わりになりませんか?」
「なんでコース料理仕立てにしてるの? 君、やっぱり育ちがいいね」

 育ちは関係ありませんよ。食べるものが偏ってはいけませんからね。

「デザート代わりに綿菓子と、ベビーカステラを。あ、お清さんと銀司さんにも同じものをお土産で」

 旦那さまは、中折れ帽のつばの下でにやにやとわたくしを見ていらっしゃいます。
 はっ、もしかして調子に乗りすぎたでしょうか。こんなに食べては、お金もきっとかかりますよね。

「やはり、わたくしはラジオ焼きだけにします。でもお土産は、買って差し上げたいのです」
「どうしたんだ? 急にしおらしくなって。」
「いえ、なんでもないのです」

 旦那さまはわたくしと一緒に握っていた扇子を奪いました。そして扇子で、おでこをぴしっと叩かれます。
 なかなかに鋭い一撃で、じんじんと痛みます。

「何をなさるんですか、痛いじゃないですか」
「俺に遠慮は無用。ただし食べきれる量にするんだぞ」
「……はい」

 旦那さまはわたくしの頭を、わしわしと撫でました。

「浮かれていいんだよ。浮かれてくれた方が、俺も嬉しい。翠子さんは、縁日を楽しみにしていたんだろ?」

 はい、その通りです。
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