【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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八章

28、帰宅【1】

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 車窓の外は、いつしか見慣れた海が広がっていた。
 海と山が接近している街なので風が強いのと、工業地帯ではないから空気が澄んでいる。そのせいで白い壁や煉瓦、それに赤い屋根の色がくっきりと明瞭に見える。

「呼吸がしやすいですね」
「空気がきれいだからな」

 だが、翠子さんは浴衣の裾を気にしながら、俺の前に小走りで進んで振り返った。華やいだ笑顔が、午前の清らかな太陽に照らされて。俺は思わず目を細めた。

「旦那さまが一緒にいてくださるから、息がしやすいんですよ」
「言うね。君も」
「ふふ。どきっとなさいました?」

 翠子さんの足取りが軽いのが嬉しい。柔らかに微笑んでいるのが嬉しい。俺に軽口をたたいてくれるのが嬉しい。
 
 俺の顔を見上げながら歩く翠子さんに、にやけているのを知られたくなくて。俺は手で口元を覆いながら進んだ。


 家に戻ると、お清と銀司が俺たちを迎えてくれた。
 いや、正確には翠子さんを待っていたようだ。

「お帰りなさいませ。翠子さん」
「ご無事でよかったです。翠子さま」

 お清と銀司に玄関先でぎゅううっと抱きつかれて、翠子さんは驚いて目を丸くしている。

「ただいま。お二人とも。でも、わたくしは大丈夫ですよ」
「いいや、大丈夫なもんか。三條組の若いヤクザに、縛り上げられていたじゃないですか」
「そうですよ。お清は生きた心地がしませんでした」

 うん。二人の気持ちは分かる。俺も緊縛された翠子さんが車から降ろされたのを見たとき、頭に血が上ったからな。

「とりあえず、翠子さんを休ませてあげたいんだが。中に入れてもらってもいいかな」

 俺の言葉に、お清と銀司は我に返ったらしく、ようやく翠子さんから離れた。

 俺たちの部屋に戻ると、お清が翠子さんに冷やしあめを持ってきてくれた。それに彼女の好物のさくらんぼと琥珀糖も添えてある。どうやら朝から銀司に買いに行かせたらしい。
 二人とも翠子さんのことが好きだよな。

 俺は冷茶を飲みながら、翠子さんを眺めていた。
 彼女は難しい顔をして、机に置かれた二つの皿を交互に見比べている。
 一つにはさくらんぼ。もう一つには琥珀糖が載っている。

「好きな方から食べたらいいじゃないか」
「どちらも好きなので、甲乙つけがたいです」
「誰も取らないから、存分に悩みなさい」

 彼女の言い分はこうだ。
 さくらんぼよりも琥珀糖の方が甘い。なので先に琥珀糖を食べてしまうと、さくらんぼの甘みが感じにくい。
 だが、さくらんぼはデザート的な意味合いもある。
 さくらんぼを後に食べたい気持ちを優先させたいが、そうなると甘みを犠牲にすることになる……と。

 頼むから、たまには数学の問題でそれくらい頭を使ってはくれまいか。
 最近は公式を当てはめる基本的な問題は、解けるようになってきたが。応用が入ると、翠子さんはとたんに教室で固まってしまう。

 俺もたまには部分点をあげるだけではなく、あなたの答案に美しい丸をつけてあげたいのだがな。
 これは、そんなにも難しい願いだろうか。

「翠子さん。これをお返ししようと思いましてね」

 お清が持ってきてくれたのは、かつて俺が翠子さんに与えたマフラーだった。確か箪笥の中にしまっているはずだったのに。どうしてお清がマフラーを?
 俺の疑問を察したのだろう。翠子さんが説明してくれた。

「昨夜、とても怖かったんです。いくら演技と知っていても、ヤクザがおじさまと乱入してくるんですもの。だから、せめて心を落ち着けるためにとマフラーを出して、抱きしめていたんです」
「翠子さん……」

「旦那さまが一緒でなくとも、マフラーがあれば落ち着けると思って。本当は車に乗せられる時も、このマフラーを握りしめていたかったんです。でも、わたくしは縛り上げられて自由がききませんでしたし、絶対に失くしたくない大事な物ですから。家に置いておくしかなくて」

 あの歓楽街で車から降ろされた翠子さんは、泣き喚いた様子もなくおとなしくしていた。
 俺の顔を見て緊張が解けて、大泣きしたのだから。とてつもない恐怖を堪えていたのは分かる。
 その我慢の原動力が、俺のマフラーだったとは。

 俺は、こんなにもあなたに愛されて。どうしたらいいんだろうな。
 本当に、俺は果報者すぎるだろ。
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