【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

文字の大きさ
145 / 247
八章

29、帰宅【2】

しおりを挟む
 俺はお清からマフラーを受け取ると、翠子さんの首と顔の下半分をぐるぐる巻きにした。

「あ、暑いですよ」

 彼女の抗議をさらりと無視して、マフラーごと翠子さんを抱きしめる。最初はもぞもぞと俺の腕から逃れようとしていたが、ついに観念したのか翠子さんはおとなしくなった。

「ああ、済まない。さくらんぼが食べたいんだったよな」
「そうですけど」

 翠子さんから手を離そうとすると、彼女の腕が俺の背にまわされた。
 今度は俺が、ぎゅっと抱きしめられる。

「さくらんぼは逃げません」
「……俺も逃げないよ」
「でも、お出かけすることはおありです」
「じゃあ、俺を閉じ込めたい?」

 俺に抱きついたままで、ふるふると翠子さんは首をふった。
 そして俺を見上げて小さな声で呟く。

「大事な人を閉じ込めるなんて、そんなひどいことできません。翠子は寂しくても我慢できます」

 どうやら 俺>さくらんぼ というありがたい地位をいただいたようだ。
 茄子と比べたら、どうだろう。圧勝できればいいのだが。

 だがこの世には、果物と甘味が多すぎる。
 あいつらがこぞって翠子さんを誘惑したら。果たして俺は圧勝できるだろうか。
 自信がない。
 いや、茄子は野菜だったな。まったくもって強敵が多すぎるぞ。

「旦那さま?」
「俺は駄目だな。こんなことを言うと引かれるかもしれないが。あなたを閉じ込めてしまいたい欲求に駆られることがある」

 俺は翠子さんの肩に顔を埋めて、頼りないほどのか細い声で呟いた。他の誰にも、こんな弱い部分は見せない。
 あなたにだけだ。
 その情けない声は、マフラーに吸い込まれていった。
 
「でも、翠子を閉じ込めたりはなさいません」
「うん。俺の傍にいるのに、あなたの笑顔が失われるのが一番怖いんだ」

 なんという矛盾だろうな。愛する人の手を少し離さなければ、その笑顔は消え失せてしまうだなんて。

 頬にくすぐったい感触を覚えた。
 見れば、翠子さんが自分の髪の毛で俺の頬を撫でている。

「朝、目が覚めると、まっさきに旦那さまのお顔が見えるんです」
「あ、ああ」

 それは俺が翠子さんに腕枕をしていることが多いからだ。
 本人は気づいていないだろうが。そうしないと、この人はどこまでも転がって行ってしまう。
 そう、気持ちよくころころと。そして蚊帳に絡まって、網にかかった魚……いや、人魚のようになってしまうのだ。

 まぁ、それは今関係のないことだが。

「わたくし、それがとても嬉しいんです。それにね、学校で旦那さま……先生の姿が見えないかと、つい探してしまうんですよ」

「君もか」と言いかけて、俺は口をつぐんだ。
 翠子さんの嬉しい言葉をもっと欲しかったからだ。俺はなんと欲張りなのだろうな。

 首に巻かれたマフラーを外すと、翠子さんはそれを丁寧に畳んだ。やはり夏にマフラーは暑かったのか、頬がうっすらと上気している。
 その様子は湯上りを思わせた。

「旦那さまは、翠子の心を閉じ込めておいでですよ。だって他の殿方を好きと思ったことはありませんもの」
「翠子さん……」

 翠子さんは、ふふっと軽やかに笑った。

「旦那さまの檻は、扉が開いていて出入りは自由なのです。でもね、出ていこうとすると、看守さんがそれはそれは寂しそうなお顔をなさるの。だから翠子はお花を摘んで、看守さんの元に戻ってきてしまうんです」
「……例えとして、いいのかどうか迷うが」

「でも、野原でお花を摘んでいる間も、翠子は看守さんのことばかりを考えてしまうの。どうすれば笑顔になってくれるのかしら、って。ですから花束を見せたくて、また戻ってくるんです」

 俺が戸惑っていると、翠子さんはマフラーをまるで愛しい人から花束のように、胸に抱きしめた。
 うん、そうだよ。分かっている。
 そのマフラーは、あなたにとってとてつもない価値があることを。そして、あなたのその想いこそが、俺にとっても宝物なんだ。

「看守さんが大好きで、自ら檻に帰ってくるのは、間違ってないでしょう?」

 ああ、翠子さんの笑顔が滲んでしまう。
 もっとはっきりと、あなたの柔らかな表情が見たいのに。

 しきりに瞬きをしていたからか、翠子さんは「どうかなさったのですか?」と心配そうに問いかけてくる

「目にゴミが入ったみたいだ」
「まぁ、大変。洗面所に行きましょう。洗い流した方がいいですよ」

 離れようとする翠子さんの腕を掴んで、しっかりと抱き寄せる。
 そう、顔を上げる隙間もないほどに密着させて。こうすれば、みっともない顔を見られることもない。

「旦那さま?」
「大丈夫。すぐに治る」

 涙腺は、自分の意志ではどうにもならないものなのだな。せめて涙声にはならないように気をつけよう。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

最後の女

蒲公英
恋愛
若すぎる妻を娶ったおっさんと、おっさんに嫁いだ若すぎる妻。夫婦らしくなるまでを、あれこれと。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

虚弱なヤクザの駆け込み寺

菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。 「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」 「脅してる場合ですか?」 ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。 ※なろう、カクヨムでも投稿

お隣さんはヤのつくご職業

古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。 残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。 元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。 ……え、ちゃんとしたもん食え? ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!! ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ 建築基準法と物理法則なんて知りません 登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。 2020/5/26 完結

【完結】女当主は義弟の手で花開く

はるみさ
恋愛
シャノンは若干25歳でありながら、プレスコット伯爵家の女当主。男勝りな彼女は、由緒ある伯爵家の当主として男性と互角に渡り合っていた。しかし、そんな彼女には結婚という大きな悩みが。伯爵家の血筋を残すためにも結婚しなくてはと思うが、全く相手が見つからない。途方に暮れていたその時……「義姉さん、それ僕でいいんじゃない?」昔拾ってあげた血の繋がりのない美しく成長した義弟からまさかの提案……!? 恋に臆病な姉と、一途に義姉を想い続けてきた義弟の大人の恋物語。 ※他サイトにも掲載しています。

鬼隊長は元お隣女子には敵わない~猪はひよこを愛でる~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「ひなちゃん。 俺と結婚、しよ?」 兄の結婚式で昔、お隣に住んでいた憧れのお兄ちゃん・猪狩に再会した雛乃。 昔話をしているうちに結婚を迫られ、冗談だと思ったものの。 それから猪狩の猛追撃が!? 相変わらず格好いい猪狩に次第に惹かれていく雛乃。 でも、彼のとある事情で結婚には踏み切れない。 そんな折り、雛乃の勤めている銀行で事件が……。 愛川雛乃 あいかわひなの 26 ごく普通の地方銀行員 某着せ替え人形のような見た目で可愛い おかげで女性からは恨みを買いがちなのが悩み 真面目で努力家なのに、 なぜかよくない噂を立てられる苦労人 × 岡藤猪狩 おかふじいかり 36 警察官でSIT所属のエリート 泣く子も黙る突入部隊の鬼隊長 でも、雛乃には……?

処理中です...