【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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八章

29、帰宅【2】

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 俺はお清からマフラーを受け取ると、翠子さんの首と顔の下半分をぐるぐる巻きにした。

「あ、暑いですよ」

 彼女の抗議をさらりと無視して、マフラーごと翠子さんを抱きしめる。最初はもぞもぞと俺の腕から逃れようとしていたが、ついに観念したのか翠子さんはおとなしくなった。

「ああ、済まない。さくらんぼが食べたいんだったよな」
「そうですけど」

 翠子さんから手を離そうとすると、彼女の腕が俺の背にまわされた。
 今度は俺が、ぎゅっと抱きしめられる。

「さくらんぼは逃げません」
「……俺も逃げないよ」
「でも、お出かけすることはおありです」
「じゃあ、俺を閉じ込めたい?」

 俺に抱きついたままで、ふるふると翠子さんは首をふった。
 そして俺を見上げて小さな声で呟く。

「大事な人を閉じ込めるなんて、そんなひどいことできません。翠子は寂しくても我慢できます」

 どうやら 俺>さくらんぼ というありがたい地位をいただいたようだ。
 茄子と比べたら、どうだろう。圧勝できればいいのだが。

 だがこの世には、果物と甘味が多すぎる。
 あいつらがこぞって翠子さんを誘惑したら。果たして俺は圧勝できるだろうか。
 自信がない。
 いや、茄子は野菜だったな。まったくもって強敵が多すぎるぞ。

「旦那さま?」
「俺は駄目だな。こんなことを言うと引かれるかもしれないが。あなたを閉じ込めてしまいたい欲求に駆られることがある」

 俺は翠子さんの肩に顔を埋めて、頼りないほどのか細い声で呟いた。他の誰にも、こんな弱い部分は見せない。
 あなたにだけだ。
 その情けない声は、マフラーに吸い込まれていった。
 
「でも、翠子を閉じ込めたりはなさいません」
「うん。俺の傍にいるのに、あなたの笑顔が失われるのが一番怖いんだ」

 なんという矛盾だろうな。愛する人の手を少し離さなければ、その笑顔は消え失せてしまうだなんて。

 頬にくすぐったい感触を覚えた。
 見れば、翠子さんが自分の髪の毛で俺の頬を撫でている。

「朝、目が覚めると、まっさきに旦那さまのお顔が見えるんです」
「あ、ああ」

 それは俺が翠子さんに腕枕をしていることが多いからだ。
 本人は気づいていないだろうが。そうしないと、この人はどこまでも転がって行ってしまう。
 そう、気持ちよくころころと。そして蚊帳に絡まって、網にかかった魚……いや、人魚のようになってしまうのだ。

 まぁ、それは今関係のないことだが。

「わたくし、それがとても嬉しいんです。それにね、学校で旦那さま……先生の姿が見えないかと、つい探してしまうんですよ」

「君もか」と言いかけて、俺は口をつぐんだ。
 翠子さんの嬉しい言葉をもっと欲しかったからだ。俺はなんと欲張りなのだろうな。

 首に巻かれたマフラーを外すと、翠子さんはそれを丁寧に畳んだ。やはり夏にマフラーは暑かったのか、頬がうっすらと上気している。
 その様子は湯上りを思わせた。

「旦那さまは、翠子の心を閉じ込めておいでですよ。だって他の殿方を好きと思ったことはありませんもの」
「翠子さん……」

 翠子さんは、ふふっと軽やかに笑った。

「旦那さまの檻は、扉が開いていて出入りは自由なのです。でもね、出ていこうとすると、看守さんがそれはそれは寂しそうなお顔をなさるの。だから翠子はお花を摘んで、看守さんの元に戻ってきてしまうんです」
「……例えとして、いいのかどうか迷うが」

「でも、野原でお花を摘んでいる間も、翠子は看守さんのことばかりを考えてしまうの。どうすれば笑顔になってくれるのかしら、って。ですから花束を見せたくて、また戻ってくるんです」

 俺が戸惑っていると、翠子さんはマフラーをまるで愛しい人から花束のように、胸に抱きしめた。
 うん、そうだよ。分かっている。
 そのマフラーは、あなたにとってとてつもない価値があることを。そして、あなたのその想いこそが、俺にとっても宝物なんだ。

「看守さんが大好きで、自ら檻に帰ってくるのは、間違ってないでしょう?」

 ああ、翠子さんの笑顔が滲んでしまう。
 もっとはっきりと、あなたの柔らかな表情が見たいのに。

 しきりに瞬きをしていたからか、翠子さんは「どうかなさったのですか?」と心配そうに問いかけてくる

「目にゴミが入ったみたいだ」
「まぁ、大変。洗面所に行きましょう。洗い流した方がいいですよ」

 離れようとする翠子さんの腕を掴んで、しっかりと抱き寄せる。
 そう、顔を上げる隙間もないほどに密着させて。こうすれば、みっともない顔を見られることもない。

「旦那さま?」
「大丈夫。すぐに治る」

 涙腺は、自分の意志ではどうにもならないものなのだな。せめて涙声にはならないように気をつけよう。
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