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八章
30、閑話 お帰りなさい ※銀司視点
昨夜ははらはらして、高瀬邸に泊まっても眠ることができなかった。
旦那さまから「翠子さんが、三條組の若い衆に拉致されるから。決して反抗しないように」なんて命じられて。実際にやばそうな男たちと、あとは翠子さんの叔父だという、いけ好かない野郎が上がりこんできて。
ああ、もう。きれいに掃除してあるのに、なんで土足で人ん家に入るんだ。
お前だよ、叔父とかいう奴。ヤクザさん達は、ちゃんと靴を脱いでるだろうがよ。
「若頭が言うとったんは、この女か」
ぎらつく目で翠子さまをねめつけられて、ぼくは思わず彼女を背中に隠した。
分かっている。翠子さまを渡さなければならないことも、離れた街の歓楽街で旦那さまが彼女を待っていることも。
でも……でも、嫌なんだ。
たとえ彼女が安全に、旦那さまの元に戻ることができたって、それまで心細くて恐ろしい思いをしないわけじゃない。
できることなら、ぼくが代わってやりたい。そう思って翠子さんに視線を向けると、彼女は気丈な瞳で叔父を睨みつけていた。
けど、近くにいるから分かるんだ。
翠子さまの握りしめた手が、小刻みに震えていることを。
「大丈夫です、銀司さん。わたくしは平気ですから」
かすれる声を力ずくで抑えるように、翠子さんはぼくに微笑んで見せた。
「ですが……」
「抵抗や手出しをなさったら、銀司さんが怪我をなさいます。そんなこと、わたくしも旦那さまも望みません」
きっぱりとした口調だった。
この人は、こんな強い人だったろうか? いや、違う。強く振る舞おうとしているんだ。
ヤクザは翠子さまの体を荒縄で縛り上げた。
浴衣の上からでも、彼女の体の形が強調される。
なんてことだ。翠子さまに無茶を強いる旦那さまでも、こんな酷いことはしないのに。
旦那さま以外に、翠子さんを縛める奴がいてはならないのに。
担ぎ上げられて屋敷から連れ去られる翠子さまを、俺とお清さんは見送ることしかできなかった。
◇◇◇
旦那さまも翠子さまもいない屋敷は、がらんとして、いつもよりも広く感じられる。
ぼくは朝から、お清さんに買い物を頼まれた。
さくらんぼと琥珀糖だ。
どっちも翠子さまの好物で「帰っていらしたら、すぐにお出ししたいから」とお清さんは言っていた。
うん、ぼくもそう思う。
八百屋で、店の主人にとびきり質のいいさくらんぼを選んでもらう。次に、開店したばかりの和菓子屋に向かうと、途中で湯気を立ててまんじゅうを吹かしている店があった。
そういえば旦那さまが、お土産に買ってくださったことがあったな。
甘いものが苦手な人なのに。あの時は嬉しくて。
そうだよ。あの家には旦那さまと翠子さまとお清さんと、そしてぼくがいなくちゃダメなんだ。
思ったよりも早く、午前中にお二人は戻ってきた。
旦那さまに寄り添われて、朗らかに微笑む翠子さまを見て、ぼくはたまらず彼女を思いっきり抱きしめた。もちろんお清さんもだ。
「く、苦しいです」
ぼくの腕の中で翠子さまがもがくので、それで初めてぼくは彼女を抱きしめていたのだと気づいた。
旦那さまは、困ったような表情でぼくを見ていた。注意することも叱ることもないし、からかうこともない。
この感情に、どんな名前を付ければいいのだろう。恋心ではないのは明白だ。主となる人なのに、まるで大事な妹のように思えてしまう。
旦那さまは、翠子さまを妹と間違われるのを、それはもうたいそう嫌がる。それは当たり前だ。
なぜならこの人は、旦那さまの妻となるのだから。
でも、ぼくは使用人としての関わりしか持てない。
男爵家の令嬢を、妹のように大事に感じるなんて。おこがましいのかもしれない。
名前を付けることのできないこの気持ちは、名無しであるからこそ、あなたの側にいることを許されるんだ。
その日、旦那さまは一日中、翠子さまをお離しにならなかった。
縁側に並んで座るお二人は、まるでこの世に自分たちだけであるかのように、閉じた世界にいらっしゃるように見えた。
庭の手入れをしていると、旦那さまが翠子さまに膝枕をしているのが、視界に入った。
まるで子猫にでもなったかのように、翠子さまも旦那さまの膝から離れない。
あ、旦那さまが屈みこんで。そして、翠子さまにくちづけた。とても優しく、何度も何度も。
浴衣の袖から覗く、翠子さまの白くたおやかな腕が、旦那さまの首にまわされる。
いつもは清楚な翠子さまだけど、旦那さまに愛される時は、まるで別人のように見えるんだ。
官能を身にまとい、花が匂い立つように思える。その密やかに咲く花を摘んでいいのは、旦那さまだけだ。
誰も彼女に触れてはいけないし、横恋慕もしてはならない。
翠子さまが旦那さまを呼ぶ、甘い声が聞こえた。そして、続いて微かな衣擦れの音。
お二人の時間の邪魔をしちゃいけない。
ぼくは、庭仕事を一旦切り上げた。
旦那さまから「翠子さんが、三條組の若い衆に拉致されるから。決して反抗しないように」なんて命じられて。実際にやばそうな男たちと、あとは翠子さんの叔父だという、いけ好かない野郎が上がりこんできて。
ああ、もう。きれいに掃除してあるのに、なんで土足で人ん家に入るんだ。
お前だよ、叔父とかいう奴。ヤクザさん達は、ちゃんと靴を脱いでるだろうがよ。
「若頭が言うとったんは、この女か」
ぎらつく目で翠子さまをねめつけられて、ぼくは思わず彼女を背中に隠した。
分かっている。翠子さまを渡さなければならないことも、離れた街の歓楽街で旦那さまが彼女を待っていることも。
でも……でも、嫌なんだ。
たとえ彼女が安全に、旦那さまの元に戻ることができたって、それまで心細くて恐ろしい思いをしないわけじゃない。
できることなら、ぼくが代わってやりたい。そう思って翠子さんに視線を向けると、彼女は気丈な瞳で叔父を睨みつけていた。
けど、近くにいるから分かるんだ。
翠子さまの握りしめた手が、小刻みに震えていることを。
「大丈夫です、銀司さん。わたくしは平気ですから」
かすれる声を力ずくで抑えるように、翠子さんはぼくに微笑んで見せた。
「ですが……」
「抵抗や手出しをなさったら、銀司さんが怪我をなさいます。そんなこと、わたくしも旦那さまも望みません」
きっぱりとした口調だった。
この人は、こんな強い人だったろうか? いや、違う。強く振る舞おうとしているんだ。
ヤクザは翠子さまの体を荒縄で縛り上げた。
浴衣の上からでも、彼女の体の形が強調される。
なんてことだ。翠子さまに無茶を強いる旦那さまでも、こんな酷いことはしないのに。
旦那さま以外に、翠子さんを縛める奴がいてはならないのに。
担ぎ上げられて屋敷から連れ去られる翠子さまを、俺とお清さんは見送ることしかできなかった。
◇◇◇
旦那さまも翠子さまもいない屋敷は、がらんとして、いつもよりも広く感じられる。
ぼくは朝から、お清さんに買い物を頼まれた。
さくらんぼと琥珀糖だ。
どっちも翠子さまの好物で「帰っていらしたら、すぐにお出ししたいから」とお清さんは言っていた。
うん、ぼくもそう思う。
八百屋で、店の主人にとびきり質のいいさくらんぼを選んでもらう。次に、開店したばかりの和菓子屋に向かうと、途中で湯気を立ててまんじゅうを吹かしている店があった。
そういえば旦那さまが、お土産に買ってくださったことがあったな。
甘いものが苦手な人なのに。あの時は嬉しくて。
そうだよ。あの家には旦那さまと翠子さまとお清さんと、そしてぼくがいなくちゃダメなんだ。
思ったよりも早く、午前中にお二人は戻ってきた。
旦那さまに寄り添われて、朗らかに微笑む翠子さまを見て、ぼくはたまらず彼女を思いっきり抱きしめた。もちろんお清さんもだ。
「く、苦しいです」
ぼくの腕の中で翠子さまがもがくので、それで初めてぼくは彼女を抱きしめていたのだと気づいた。
旦那さまは、困ったような表情でぼくを見ていた。注意することも叱ることもないし、からかうこともない。
この感情に、どんな名前を付ければいいのだろう。恋心ではないのは明白だ。主となる人なのに、まるで大事な妹のように思えてしまう。
旦那さまは、翠子さまを妹と間違われるのを、それはもうたいそう嫌がる。それは当たり前だ。
なぜならこの人は、旦那さまの妻となるのだから。
でも、ぼくは使用人としての関わりしか持てない。
男爵家の令嬢を、妹のように大事に感じるなんて。おこがましいのかもしれない。
名前を付けることのできないこの気持ちは、名無しであるからこそ、あなたの側にいることを許されるんだ。
その日、旦那さまは一日中、翠子さまをお離しにならなかった。
縁側に並んで座るお二人は、まるでこの世に自分たちだけであるかのように、閉じた世界にいらっしゃるように見えた。
庭の手入れをしていると、旦那さまが翠子さまに膝枕をしているのが、視界に入った。
まるで子猫にでもなったかのように、翠子さまも旦那さまの膝から離れない。
あ、旦那さまが屈みこんで。そして、翠子さまにくちづけた。とても優しく、何度も何度も。
浴衣の袖から覗く、翠子さまの白くたおやかな腕が、旦那さまの首にまわされる。
いつもは清楚な翠子さまだけど、旦那さまに愛される時は、まるで別人のように見えるんだ。
官能を身にまとい、花が匂い立つように思える。その密やかに咲く花を摘んでいいのは、旦那さまだけだ。
誰も彼女に触れてはいけないし、横恋慕もしてはならない。
翠子さまが旦那さまを呼ぶ、甘い声が聞こえた。そして、続いて微かな衣擦れの音。
お二人の時間の邪魔をしちゃいけない。
ぼくは、庭仕事を一旦切り上げた。
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