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九章
8、恋文【3】
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風呂から上がった俺は、寝間着の浴衣を着て文机に向かった。
手には万年筆。そして机の上には、あの押し花の便箋。
文机の側には盆が置いてあり、そこには麦酒の入ったグラスがある。
翠子さんは、縁側に腰を下ろして『少女画報』という雑誌を読んでいる。庭から吹き込む夜風が、彼女の黒髪をさらりとなびかせた。
雑誌の頁をめくる翠子さんが、なぜか前のめりになって雑誌を顔に近づけた。そしてぱたんと閉じると、夜空をあおいで満足そうなため息をつく。
いったい何を? と思いながら、万年筆を置いて翠子さんの近くへ進む。
翠子さんはまた雑誌を開いた。どうやら先ほどの頁を探しているらしい。
栞とか使わないんだろうか。
すぐに読み返すのなら、いちいち閉じなければいいのに。
息をひそめて見下ろしていると『大学生に恋文をもらって、逢引きしましたの。とても情熱的な方なんです。わたしのことを好きと言ってくださり、抱きしめられました』との文章が目に入った。
お嬢さま、あなたもしかして実録体験ものがお好きですね?
「『女学校の担任の先生が、わたくしの旦那さまになり、夜ごと愛して、抱いてくださいますの』という君の境遇の方が、刺激的だと俺は思うけどね」
「きゃあ!」
突然声をかけたから、翠子さんは驚いて飛び跳ねた。
「な、なんですか?」
「いやぁ、楽しそうだなと思って」
俺が揶揄うと、翠子さんは雑誌で顔を隠してしまった。雑誌を引っ張っても、どこにそんな力があるのか全然離してくれないし、顔を見せてもくれない。
こういう時だけ、力が強くなるんだからな。
俺は翠子さんの隣に腰を下ろして、うつむいたままの彼女の頭を撫でた。ちょうど風呂の時とは反対だ。
すると翠子さんは体の力を抜いて、俺の膝にぽすんと頭を預けた。
まさに膝枕だ。
「そうだよな。憧れるよな、恋文」
彼女の髪を撫でてやりながら、夜風の様に優しく囁く。俺は翠子さんを家に迎えることができた喜びで、早々に無茶なことをしたのだから。
普通は告白か恋文、それから逢引きだよな。
ようやく膝に頭をのせた翠子さんが、顔から『少女画報』を離した。
「よかった。可愛い顔を見せてくれて」
「雑誌の表紙の絵の方が、わたくしよりも何倍も可愛いです」
すねてはいるが、口はきいてくれる。
「ちゃんとあなたに宛てて恋文を書くから。許してくれないか?」
「怒っているわけではないんです。でも、わたくしの我儘で、旦那さまに無理なことをお願いしているのかもと思って。でも、文子さんも、雑誌の投稿者も恋文をもらっているんです。それが羨ましくて……こんな気持ちは、浅ましいですか?」
「いいや」と否定してあげながら、俺は翠子さんの頬を撫でた。
そうなんだよな。俺が短期間で育て上げてしまったから、翠子さんは妖艶な空気をまとう時があるが。
本質は素直で初心なお嬢さんだ。
激しく抱かれて乱れるよりも、指と指が触れ合ってどきどきする方が、元来の彼女には似合っているだろう。
翠子さんは、俺の腿の辺りに頭を擦りつけている。
俺は手近にあった団扇を取って、翠子さんをあおいでやった。
そよとした微風が、彼女の髪を揺らす。
いつしか翠子さんは眠ってしまった。俺は彼女を布団に寝かせてやった。
「さて、と。朝までに仕上げるか」
文机に向かったとき、襖の向こうから「旦那さま」と呼ぶ声が聞こえた。
銀司だ。もうとっくに帰宅の時間は過ぎているのに、いったい何時まで勤めているんだ? うちの労働環境を自ら悪くしてどうする。
「どうした。もう遅いぞ、また財布を落としたのか」
「いえ、お借りしていた本を読みふけっていたら、いつの間にかこんな時間に」
壁に掛かった時計を見ると、すでに十時半に近い。
銀司は、布団で眠っている翠子さんをちらっと見ると、安心したような笑顔を浮かべた。
そして俺が貸していた本を、文机の側に置いた。漢書だ。
黄河の治水事業に関する計算とか、事業についての利害が記されている部分だ。俺が高等学校の時に、使っていたものだ。
「えらいな。ちゃんと読み終わったんだな」
「難しかったです。えらく時間がかかりました」
「うん。でも銀司は投げ出さなかったろう」
「あの」と銀司は切りだした。
「なんでぼくに、こんな勉強をするように仰ったんですか?」
「銀司さえ良ければ、学校に通ってもらおうと思ってな。後見人は俺で、そうだな勉強の出来にもよるが、早い者で一年、長くでも三年くらいで卒業できるらしい」
「学校? ぼくが? 何のですか」
俺は立ち上がると、簡単な算術の本を棚から取り出して、銀司に手渡した。
女学校で、算術の基礎ができていない生徒への課題として使用しているものだ。
彼女たちは自尊心が高いから、簡単な算数の勉強に戻ることを相当に嫌がる。そのせいで基礎がおろそかになり、数学もできなくなっているのだが。それに気づく者は少ない。
「商業講習所だ。そこで事務の勉強をしてもらう」
「事務的なことは今もしてますけど」
「うん。簡単なことは銀司に任せてるな。だが、将来的に銀司にはうちの家令のような立場になってほしいんだ。まぁ、うちは翠子さんの家のような爵位はないから、家令というのは言い過ぎだが」
「家令……」
耳慣れない言葉に、銀司は首を傾げた。それもそうか。俺だって家令を雇ったことはない。執事とかも無縁だからな。
「つまり、銀司にはずっと家にいてもらいたいんだ。そのためにも、事務の一切を君に任せたい」
手には万年筆。そして机の上には、あの押し花の便箋。
文机の側には盆が置いてあり、そこには麦酒の入ったグラスがある。
翠子さんは、縁側に腰を下ろして『少女画報』という雑誌を読んでいる。庭から吹き込む夜風が、彼女の黒髪をさらりとなびかせた。
雑誌の頁をめくる翠子さんが、なぜか前のめりになって雑誌を顔に近づけた。そしてぱたんと閉じると、夜空をあおいで満足そうなため息をつく。
いったい何を? と思いながら、万年筆を置いて翠子さんの近くへ進む。
翠子さんはまた雑誌を開いた。どうやら先ほどの頁を探しているらしい。
栞とか使わないんだろうか。
すぐに読み返すのなら、いちいち閉じなければいいのに。
息をひそめて見下ろしていると『大学生に恋文をもらって、逢引きしましたの。とても情熱的な方なんです。わたしのことを好きと言ってくださり、抱きしめられました』との文章が目に入った。
お嬢さま、あなたもしかして実録体験ものがお好きですね?
「『女学校の担任の先生が、わたくしの旦那さまになり、夜ごと愛して、抱いてくださいますの』という君の境遇の方が、刺激的だと俺は思うけどね」
「きゃあ!」
突然声をかけたから、翠子さんは驚いて飛び跳ねた。
「な、なんですか?」
「いやぁ、楽しそうだなと思って」
俺が揶揄うと、翠子さんは雑誌で顔を隠してしまった。雑誌を引っ張っても、どこにそんな力があるのか全然離してくれないし、顔を見せてもくれない。
こういう時だけ、力が強くなるんだからな。
俺は翠子さんの隣に腰を下ろして、うつむいたままの彼女の頭を撫でた。ちょうど風呂の時とは反対だ。
すると翠子さんは体の力を抜いて、俺の膝にぽすんと頭を預けた。
まさに膝枕だ。
「そうだよな。憧れるよな、恋文」
彼女の髪を撫でてやりながら、夜風の様に優しく囁く。俺は翠子さんを家に迎えることができた喜びで、早々に無茶なことをしたのだから。
普通は告白か恋文、それから逢引きだよな。
ようやく膝に頭をのせた翠子さんが、顔から『少女画報』を離した。
「よかった。可愛い顔を見せてくれて」
「雑誌の表紙の絵の方が、わたくしよりも何倍も可愛いです」
すねてはいるが、口はきいてくれる。
「ちゃんとあなたに宛てて恋文を書くから。許してくれないか?」
「怒っているわけではないんです。でも、わたくしの我儘で、旦那さまに無理なことをお願いしているのかもと思って。でも、文子さんも、雑誌の投稿者も恋文をもらっているんです。それが羨ましくて……こんな気持ちは、浅ましいですか?」
「いいや」と否定してあげながら、俺は翠子さんの頬を撫でた。
そうなんだよな。俺が短期間で育て上げてしまったから、翠子さんは妖艶な空気をまとう時があるが。
本質は素直で初心なお嬢さんだ。
激しく抱かれて乱れるよりも、指と指が触れ合ってどきどきする方が、元来の彼女には似合っているだろう。
翠子さんは、俺の腿の辺りに頭を擦りつけている。
俺は手近にあった団扇を取って、翠子さんをあおいでやった。
そよとした微風が、彼女の髪を揺らす。
いつしか翠子さんは眠ってしまった。俺は彼女を布団に寝かせてやった。
「さて、と。朝までに仕上げるか」
文机に向かったとき、襖の向こうから「旦那さま」と呼ぶ声が聞こえた。
銀司だ。もうとっくに帰宅の時間は過ぎているのに、いったい何時まで勤めているんだ? うちの労働環境を自ら悪くしてどうする。
「どうした。もう遅いぞ、また財布を落としたのか」
「いえ、お借りしていた本を読みふけっていたら、いつの間にかこんな時間に」
壁に掛かった時計を見ると、すでに十時半に近い。
銀司は、布団で眠っている翠子さんをちらっと見ると、安心したような笑顔を浮かべた。
そして俺が貸していた本を、文机の側に置いた。漢書だ。
黄河の治水事業に関する計算とか、事業についての利害が記されている部分だ。俺が高等学校の時に、使っていたものだ。
「えらいな。ちゃんと読み終わったんだな」
「難しかったです。えらく時間がかかりました」
「うん。でも銀司は投げ出さなかったろう」
「あの」と銀司は切りだした。
「なんでぼくに、こんな勉強をするように仰ったんですか?」
「銀司さえ良ければ、学校に通ってもらおうと思ってな。後見人は俺で、そうだな勉強の出来にもよるが、早い者で一年、長くでも三年くらいで卒業できるらしい」
「学校? ぼくが? 何のですか」
俺は立ち上がると、簡単な算術の本を棚から取り出して、銀司に手渡した。
女学校で、算術の基礎ができていない生徒への課題として使用しているものだ。
彼女たちは自尊心が高いから、簡単な算数の勉強に戻ることを相当に嫌がる。そのせいで基礎がおろそかになり、数学もできなくなっているのだが。それに気づく者は少ない。
「商業講習所だ。そこで事務の勉強をしてもらう」
「事務的なことは今もしてますけど」
「うん。簡単なことは銀司に任せてるな。だが、将来的に銀司にはうちの家令のような立場になってほしいんだ。まぁ、うちは翠子さんの家のような爵位はないから、家令というのは言い過ぎだが」
「家令……」
耳慣れない言葉に、銀司は首を傾げた。それもそうか。俺だって家令を雇ったことはない。執事とかも無縁だからな。
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