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九章
13、パラソル【2】
話は少しさかのぼる。
俺は、翠子さんに日傘を買ってやろうと思いついた日のことを考えていた。
日差しはますます強くなるし、相も変わらず恋文を握り潰しつつ、翠子さんに突進してくる大学生がいる。
最近では、大学生を見れば翠子さんを自分の陰に入れるくせがついたほどだ。
最初から翠子さんに好意を抱いているのなら、まだしも。
奴らは、彼女が昼に咲く白い花だった頃にはまったく興味を示さなかったくせに、闇夜にひそやかに花をほころばせるようになってから、急に翠子さんに興味を持ち始めた。
これは何とかしないといけないな。
俺は考えた。というか、常に周囲に気を配って歩き続けるのは、正直疲弊する。
そうだ。日傘はどうだろう。
確か雨の日に、恋文を渡そうとした学生が、彼女の傘が邪魔でおろおろしていたことがある。
しかも日焼け防止にもなるし、何よりレースの日傘を差す翠子さんなんて、愛らしいじゃないか。
彼女に話したことはないが、実はうちに来てもらう前にも、途中まで登校が一緒だったことが何度かある。
これは翠子さんが三年生の時のことだ
笠井家は、うちとは川を挟んだ街にある。
翠子さんは川の対岸の通りを通学路としていたので、うちの近所で彼女を見かけることはなかった。
だが女学校が近くなると、当然橋を渡って同じ道を通ることになる。
その橋を通る女学生を待ち伏せして、恋文を渡す大学生もいる。美人と評判の上級生は、まるで銀幕のスタァでもあるかのように男達に取り囲まれていた。
花だの恋文だのをもらいつつ、誇らしげな上級生の側を、翠子さんは風呂敷包みを抱えて歩いていた。
笠井家がまだ華やかであった頃は、繊細なつくりの日傘を差していた。
だが、橋の上で上級生に群がる大学生は、翠子さんの日傘を邪魔に感じたのだろう。
男どもを避けながら静かに歩く翠子さんを、突き飛ばした奴がいた。
「大丈夫か、笠井さん」
俺は思わず駆けだしていた。たまたま彼女と同じ時間に居合わせたことが幸いした。
翠子さんの肩を掴んだから、彼女は転ばずに済んだが。日傘は川に落ちて、ぷかぷかと浮かびながら流れていった。
「ありがとうございます。高瀬先生」
「怪我はないな? だが、日傘が」
「いえ、いいんです」
翠子さんは川面に浮かぶ日傘を眺めていたが、しだいに布が水を吸ったのだろう。そのまま日傘は沈んでいった。
翠子さんは「失礼します」と言うと、学校へ向かって小走りに駆けていった。一緒に登校するなど、夢のまた夢だ。
俺は小さくなっていく翠子さんの背中を見送った。
橋の上では、まだ男どもが上級生に群がっている。その上級生も慣れたもので、いちいち恋文を断らない。
俺は学校関係者なので知っているが、その人は輿入れ先が決まっていた。だからどんなに恋文を渡そうが、実るはずのない恋だ。
卒業を待たずに、その華やかな上級生が中退した後、男どもは意気消沈していたが。
じきに次の女学生を見つけて、声をかけたりしていた。
変わり身が早すぎないか? もしあんな奴らと翠子さんが付き合うことになったら。
というか、翠子さんを押しのけるな。失礼だろ。
その日、廊下ですれ違った翠子さんに俺は再び声をかけた。
「笠井さん」
「え、あっ。はい、何でしょうか。宿題は提出したはずですけど」
「いや、そうじゃなくて」
「あの、出来が悪くて再提出なんでしょうか」
翠子さんは縮こまるように立ち尽くしている。いや、再提出させていたら、大多数の生徒がそれに該当するから。
「日傘のことだが」
彼女に声をかけてから、俺はいったい何を言おうとしているんだと、はっとした。
失われた日傘の代わりを買おうとでもいうのか? 授業でしか接点のないこの俺が?
「気にかけてくださってありがとうございます。でも、日傘などなくても平気ですから」
「だが」
「あの橋は狭いですから。日傘は邪魔になりますよね」
翠子さんは寂しそうに微笑んだ。
そうじゃないだろ。通行人を優先させずに、男どもが群がっている方がおかしいだろ。
そう主張したかったが、俺に慣れていない翠子さんは、そわそわと左右の指を弄んでいた。
きっと俺との話が早く終わらないかと、考えているのだろう。
正直、面白くなかった。
かつて子どもだったあなたは、俺にあんなにも甘えていたじゃないか。覚えていないからといって、なぜそんなにも冷たい態度をとるんだ。
まるで他人に対するように。
いや……赤の他人だよな。今は数学の授業でしか接点がないのだから。
「どこへ行くんだ?」
「あの、職員室に。担任の先生に御用があって」
「それなら行く先が同じだし、一緒に行くか?」
「えっ?」
俺の提案に、翠子さんは固まってしまった。この廊下から職員室までは、階段を下りて、少し歩く。それでも時間にして僅か一分ほどだ。
それすらもあなたは拒否するのか。
俺とともに歩くことが嫌なのか。
「何か不満でも?」
「……いえ」
翠子さんはうつむいて、しかも声が上ずっている。これ以上、強引に誘ったら泣かれてしまいそうだ。
「分かった、時間の無駄だ。もう行きなさい」
俺から解放された翠子さんは、頭を下げてまた小走りに去っていった。
あなたは常に俺から走って逃げたいのか?
頭に浮かんだ考えは、俺の心をいたく傷つけた。
今にして思えば、あの頃の俺は、いけなかった。
もし過去に戻れるのなら「もっと笑顔を浮かべろ。笑顔に慣れていないのなら、鏡の前で練習しろ。『何か不満でも?』って、翠子さんに脅しをかけてどうする。相手は十五も下の少女なんだぞ」と、自分を叱りつけてやりたい。
俺は、翠子さんに日傘を買ってやろうと思いついた日のことを考えていた。
日差しはますます強くなるし、相も変わらず恋文を握り潰しつつ、翠子さんに突進してくる大学生がいる。
最近では、大学生を見れば翠子さんを自分の陰に入れるくせがついたほどだ。
最初から翠子さんに好意を抱いているのなら、まだしも。
奴らは、彼女が昼に咲く白い花だった頃にはまったく興味を示さなかったくせに、闇夜にひそやかに花をほころばせるようになってから、急に翠子さんに興味を持ち始めた。
これは何とかしないといけないな。
俺は考えた。というか、常に周囲に気を配って歩き続けるのは、正直疲弊する。
そうだ。日傘はどうだろう。
確か雨の日に、恋文を渡そうとした学生が、彼女の傘が邪魔でおろおろしていたことがある。
しかも日焼け防止にもなるし、何よりレースの日傘を差す翠子さんなんて、愛らしいじゃないか。
彼女に話したことはないが、実はうちに来てもらう前にも、途中まで登校が一緒だったことが何度かある。
これは翠子さんが三年生の時のことだ
笠井家は、うちとは川を挟んだ街にある。
翠子さんは川の対岸の通りを通学路としていたので、うちの近所で彼女を見かけることはなかった。
だが女学校が近くなると、当然橋を渡って同じ道を通ることになる。
その橋を通る女学生を待ち伏せして、恋文を渡す大学生もいる。美人と評判の上級生は、まるで銀幕のスタァでもあるかのように男達に取り囲まれていた。
花だの恋文だのをもらいつつ、誇らしげな上級生の側を、翠子さんは風呂敷包みを抱えて歩いていた。
笠井家がまだ華やかであった頃は、繊細なつくりの日傘を差していた。
だが、橋の上で上級生に群がる大学生は、翠子さんの日傘を邪魔に感じたのだろう。
男どもを避けながら静かに歩く翠子さんを、突き飛ばした奴がいた。
「大丈夫か、笠井さん」
俺は思わず駆けだしていた。たまたま彼女と同じ時間に居合わせたことが幸いした。
翠子さんの肩を掴んだから、彼女は転ばずに済んだが。日傘は川に落ちて、ぷかぷかと浮かびながら流れていった。
「ありがとうございます。高瀬先生」
「怪我はないな? だが、日傘が」
「いえ、いいんです」
翠子さんは川面に浮かぶ日傘を眺めていたが、しだいに布が水を吸ったのだろう。そのまま日傘は沈んでいった。
翠子さんは「失礼します」と言うと、学校へ向かって小走りに駆けていった。一緒に登校するなど、夢のまた夢だ。
俺は小さくなっていく翠子さんの背中を見送った。
橋の上では、まだ男どもが上級生に群がっている。その上級生も慣れたもので、いちいち恋文を断らない。
俺は学校関係者なので知っているが、その人は輿入れ先が決まっていた。だからどんなに恋文を渡そうが、実るはずのない恋だ。
卒業を待たずに、その華やかな上級生が中退した後、男どもは意気消沈していたが。
じきに次の女学生を見つけて、声をかけたりしていた。
変わり身が早すぎないか? もしあんな奴らと翠子さんが付き合うことになったら。
というか、翠子さんを押しのけるな。失礼だろ。
その日、廊下ですれ違った翠子さんに俺は再び声をかけた。
「笠井さん」
「え、あっ。はい、何でしょうか。宿題は提出したはずですけど」
「いや、そうじゃなくて」
「あの、出来が悪くて再提出なんでしょうか」
翠子さんは縮こまるように立ち尽くしている。いや、再提出させていたら、大多数の生徒がそれに該当するから。
「日傘のことだが」
彼女に声をかけてから、俺はいったい何を言おうとしているんだと、はっとした。
失われた日傘の代わりを買おうとでもいうのか? 授業でしか接点のないこの俺が?
「気にかけてくださってありがとうございます。でも、日傘などなくても平気ですから」
「だが」
「あの橋は狭いですから。日傘は邪魔になりますよね」
翠子さんは寂しそうに微笑んだ。
そうじゃないだろ。通行人を優先させずに、男どもが群がっている方がおかしいだろ。
そう主張したかったが、俺に慣れていない翠子さんは、そわそわと左右の指を弄んでいた。
きっと俺との話が早く終わらないかと、考えているのだろう。
正直、面白くなかった。
かつて子どもだったあなたは、俺にあんなにも甘えていたじゃないか。覚えていないからといって、なぜそんなにも冷たい態度をとるんだ。
まるで他人に対するように。
いや……赤の他人だよな。今は数学の授業でしか接点がないのだから。
「どこへ行くんだ?」
「あの、職員室に。担任の先生に御用があって」
「それなら行く先が同じだし、一緒に行くか?」
「えっ?」
俺の提案に、翠子さんは固まってしまった。この廊下から職員室までは、階段を下りて、少し歩く。それでも時間にして僅か一分ほどだ。
それすらもあなたは拒否するのか。
俺とともに歩くことが嫌なのか。
「何か不満でも?」
「……いえ」
翠子さんはうつむいて、しかも声が上ずっている。これ以上、強引に誘ったら泣かれてしまいそうだ。
「分かった、時間の無駄だ。もう行きなさい」
俺から解放された翠子さんは、頭を下げてまた小走りに去っていった。
あなたは常に俺から走って逃げたいのか?
頭に浮かんだ考えは、俺の心をいたく傷つけた。
今にして思えば、あの頃の俺は、いけなかった。
もし過去に戻れるのなら「もっと笑顔を浮かべろ。笑顔に慣れていないのなら、鏡の前で練習しろ。『何か不満でも?』って、翠子さんに脅しをかけてどうする。相手は十五も下の少女なんだぞ」と、自分を叱りつけてやりたい。
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