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九章
14、パラソル【3】
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同じ日傘に入っている旦那さまが、なにやら難しそうな表情を浮かべていらっしゃいます。
「どうかなさったんですか?」
「あぁ、いや。去年の翠子さんは俺のことを毛嫌いしていたのに。今ではこうして、何でも許してくれるよなって」
「だって、高瀬先生はすごく怖かったんですもの」
わたくしは風呂敷包みを、ぎゅっと握りしめました。
「でも、先生は川に落ちたわたくしの日傘を気にかけてくださいました。あの日からなんです。先生は、怖いだけの人ではなくて、本当は優しい方なんだって気づいたのは」
ふいに旦那さまは、驚いたように目を見開きました。
「あの後、廊下で声をかけてくださいましたよね。てっきり宿題のことで叱られるものだとばかり思っていたのですけど。違いました」
「だが、あなたは一緒に職員室に行くのを断ったぞ」
「知られるのが怖かったんです。当時、笠井の家には、もう新しい日傘を買ってほしいと言える余裕がなかったので。もし日傘を気にしていたら、なぜ買わないのだと尋ねられたら……うちの内情を先生にお話ししなければいけませんでしたから」
「だから逃げたのか……」
ぽつりと旦那さまは仰いました。なぜだか、少し安心しているように見受けられます。
「俺にも日傘にも興味がないわけではなかったんだな」
「……ありますよ」
「どれくらい?」
「意識しすぎて、ちゃんとお話しできないくらいには」
「今はもう怖くないか?」
「……怖いと思っている人に、膝枕なんてできません」
「それもそうか」と、旦那さまは小さく笑いました。
「そうだよな。恐ろしい相手に対して恋文を強要する少女なんて、いるはずないよな」
たまに怖い時もあるんですけど。それは言わないでおきましょう。
わたくしは旦那さまが差しかけてくださる日傘を、一緒に買いに行った日のことを思い出しました。
それはブーツを買っていただいたのと同じ、海岸通りの百貨店でした。
あの日の旦那さまは、怖かったです。
本人には言えませんけど。
◇◇◇
わたくしには日傘なんて勿体ないですから、とお断りしたのに。旦那さまは、どうしても必要だと仰います。
なぜだか一年前に、わたくしに日傘が川に落ちたことを気にしていらっしゃるご様子。
あれは旦那さまのせいではないのに、不思議です。
「なるべく日陰を歩きますよ」
「そういう問題じゃない。日傘は盾にもなるんだ」
でも傘の部分はただの布ですよ。むしろレースだの、フリルだのと防御力は弱そうですけど。
そして、この間のお休みの日にわたくしを伴って百貨店に向かったのでした。
明るく開けた海沿いの道を歩いていると、書店が目に入りました。
太陽光を避けるひさしの下に、きらきらした表紙の雑誌が並んでいます。わたくしは小走りに駆けて、書店に向かいました。
残念なことに『少女の友』も『少女画報』もまだ最新号は出ていません。『少女倶楽部』も人気なのですけど、こちらは少し対象年齢が低いんですよね。童話や時代物なども掲載されており、あまりロマンティックとはいえません。
「翠子さん。勿体ないというのなら、むしろ『少女の友』の購入をやめるべきなのではないか?」
心地よい海風に帽子のリボンが、ひらひらとなびいています。ですが、旦那さまは心地よくない言葉を口になさいました。
わたくしは慌てて、背後にいる旦那さまに向き直ります。
「そんな。楽しみにしているのに」
「いや、しかし教育的にどうかと思ってな。『少女画報』もだが、女学生の体験談の投稿を片っ端から作家先生が怒るのだろう? そういう窮屈な雑誌は、どうなんだろう」
旦那さまはお分かりにならないんです。女学校では赤裸々な恋の話なんて、できませんのに。
ええ、上級生のお姉さま方や、同じ学級でも華やいだ人たちは、いかに恋を楽しんでいるかを話していますけど。
正直、わたくしと高瀬先生の間のことは、美術の皆月先生と文子さんにはばれてしまいましたけど、それ以外の人には決して明かすことはできません。
身近で恋のお話が聞けない以上、雑誌に頼るのは仕方ありませんよね。
もちろん、連載されている少女小説だって、ちゃんと読んでいますよ。
「雑誌が無駄だと仰るなら、働きますから。その賃金で買ってもいいですか?」
「働くって、翠子さんが?」
旦那さまは意外そうな表情を浮かべます。
「はい。この海岸通りにはカフェーも多いですから。女給はいかがでしょう。もちろん学校がお休みの日に」
「駄目だ」
「なぜですか? 学業に支障が出ないようにしますよ」
「とにかく駄目なものは駄目だ」
けんもほろろです。取り付く島もないとはこのことです。
納得いかずにいるわたくしの手を握り、旦那さまは海岸通りを進んでいきました。
お目当ての百貨店を通り過ぎても、まだ歩いていらっしゃいます。
「あの、どちらに行かれるんですか?」
「カフェーに連れて行ってやる」
「この間、連れて行ってくださいました」
「別な所だ」
「どうかなさったんですか?」
「あぁ、いや。去年の翠子さんは俺のことを毛嫌いしていたのに。今ではこうして、何でも許してくれるよなって」
「だって、高瀬先生はすごく怖かったんですもの」
わたくしは風呂敷包みを、ぎゅっと握りしめました。
「でも、先生は川に落ちたわたくしの日傘を気にかけてくださいました。あの日からなんです。先生は、怖いだけの人ではなくて、本当は優しい方なんだって気づいたのは」
ふいに旦那さまは、驚いたように目を見開きました。
「あの後、廊下で声をかけてくださいましたよね。てっきり宿題のことで叱られるものだとばかり思っていたのですけど。違いました」
「だが、あなたは一緒に職員室に行くのを断ったぞ」
「知られるのが怖かったんです。当時、笠井の家には、もう新しい日傘を買ってほしいと言える余裕がなかったので。もし日傘を気にしていたら、なぜ買わないのだと尋ねられたら……うちの内情を先生にお話ししなければいけませんでしたから」
「だから逃げたのか……」
ぽつりと旦那さまは仰いました。なぜだか、少し安心しているように見受けられます。
「俺にも日傘にも興味がないわけではなかったんだな」
「……ありますよ」
「どれくらい?」
「意識しすぎて、ちゃんとお話しできないくらいには」
「今はもう怖くないか?」
「……怖いと思っている人に、膝枕なんてできません」
「それもそうか」と、旦那さまは小さく笑いました。
「そうだよな。恐ろしい相手に対して恋文を強要する少女なんて、いるはずないよな」
たまに怖い時もあるんですけど。それは言わないでおきましょう。
わたくしは旦那さまが差しかけてくださる日傘を、一緒に買いに行った日のことを思い出しました。
それはブーツを買っていただいたのと同じ、海岸通りの百貨店でした。
あの日の旦那さまは、怖かったです。
本人には言えませんけど。
◇◇◇
わたくしには日傘なんて勿体ないですから、とお断りしたのに。旦那さまは、どうしても必要だと仰います。
なぜだか一年前に、わたくしに日傘が川に落ちたことを気にしていらっしゃるご様子。
あれは旦那さまのせいではないのに、不思議です。
「なるべく日陰を歩きますよ」
「そういう問題じゃない。日傘は盾にもなるんだ」
でも傘の部分はただの布ですよ。むしろレースだの、フリルだのと防御力は弱そうですけど。
そして、この間のお休みの日にわたくしを伴って百貨店に向かったのでした。
明るく開けた海沿いの道を歩いていると、書店が目に入りました。
太陽光を避けるひさしの下に、きらきらした表紙の雑誌が並んでいます。わたくしは小走りに駆けて、書店に向かいました。
残念なことに『少女の友』も『少女画報』もまだ最新号は出ていません。『少女倶楽部』も人気なのですけど、こちらは少し対象年齢が低いんですよね。童話や時代物なども掲載されており、あまりロマンティックとはいえません。
「翠子さん。勿体ないというのなら、むしろ『少女の友』の購入をやめるべきなのではないか?」
心地よい海風に帽子のリボンが、ひらひらとなびいています。ですが、旦那さまは心地よくない言葉を口になさいました。
わたくしは慌てて、背後にいる旦那さまに向き直ります。
「そんな。楽しみにしているのに」
「いや、しかし教育的にどうかと思ってな。『少女画報』もだが、女学生の体験談の投稿を片っ端から作家先生が怒るのだろう? そういう窮屈な雑誌は、どうなんだろう」
旦那さまはお分かりにならないんです。女学校では赤裸々な恋の話なんて、できませんのに。
ええ、上級生のお姉さま方や、同じ学級でも華やいだ人たちは、いかに恋を楽しんでいるかを話していますけど。
正直、わたくしと高瀬先生の間のことは、美術の皆月先生と文子さんにはばれてしまいましたけど、それ以外の人には決して明かすことはできません。
身近で恋のお話が聞けない以上、雑誌に頼るのは仕方ありませんよね。
もちろん、連載されている少女小説だって、ちゃんと読んでいますよ。
「雑誌が無駄だと仰るなら、働きますから。その賃金で買ってもいいですか?」
「働くって、翠子さんが?」
旦那さまは意外そうな表情を浮かべます。
「はい。この海岸通りにはカフェーも多いですから。女給はいかがでしょう。もちろん学校がお休みの日に」
「駄目だ」
「なぜですか? 学業に支障が出ないようにしますよ」
「とにかく駄目なものは駄目だ」
けんもほろろです。取り付く島もないとはこのことです。
納得いかずにいるわたくしの手を握り、旦那さまは海岸通りを進んでいきました。
お目当ての百貨店を通り過ぎても、まだ歩いていらっしゃいます。
「あの、どちらに行かれるんですか?」
「カフェーに連れて行ってやる」
「この間、連れて行ってくださいました」
「別な所だ」
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