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十章
2、出勤【2】
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俺は一人で学校までの二十分の距離を歩いていた。
遠いな。暑いな。あー、面倒くさい。
授業があるわけでもないのに、家に仕事を持ち帰っちゃいけないのか。
生徒がいないので、いつもよりも早く家を出る必要がない。そのせいだろうか、雲一つない空からは強烈な日差しが容赦なく降り注いでいる。
少し歩くだけで、汗が滲むほどだ。
ああ、翠子さんは出かけるときに忘れずに日傘を持って出るだろうか。お清が声をかけてくれるといいが。
そういえば翠子さんが家に来る以前も、長期休暇が苦手だった。たとえ担任でなかったとしても、数学の授業がない日でも、その気になれば校内で翠子さんの姿を見かけることはできたから。
「まぁ、昼に学校に来ると言っていたからな。それまでは仕事を頑張るか」
大通りへの角を曲がったところで、俺は深山文子さんと遭遇した。いつものような袴姿ではない。肩よりも短く切り揃えた髪に、つばの大きな帽子をかぶり、しかも洋装だから、すぐには彼女と気づかなかった。
「た、高瀬先生っ」
深山さんは、これまた愛らしい封筒を手に俺に突進してきた。
君、たまに熱烈になるね。いつもは俺のことを「怖い」といって避けているくせに。
「深山さん。今日は翠子さんと約束があるんじゃなかったのか?」
「時間はまだ大丈夫なんです。でも……」
俺に突きつけてきたのは、花の描かれた封筒だ。押し花ではなく水彩画だろう。透明感のある柔らかで優しい色合いだ。
翠子さんなら、何の花か分かるのだろうが。あいにく高山植物ではないから、俺には分からない。
「また三條組から手紙が来たのか?」
「なぜ、分かるんですか?」
「いや、簡単だろ。君が花柄の封筒を握りしめて、三條組の近くをうろついていたら、それ以外の答えは導き出せないだろ」
どうやら、三條組の近くまで来たのはいいが、やはり相手は極道。恐ろしくて、屋敷に近づくことはできないようだ。
「先生は、この三條さんとお知り合いなんですよね。恐ろしい方なんですか? お付き合いを断ったら、わたし、海に沈められちゃいます?」
「……いや、それならわざわざ恋文を出さないんじゃないかな」
単に自分の女にしたくて、しかも言うことを聞かないのなら、拉致して監禁するだろう。その筋の人ならば。
「怖いなら、俺から断ってやろうか?」
「断るのも怖いですけど、お受けするのも怖いんです」
「それは難儀だな。だがまぁ、自分の人生だ。ちゃんと考えて返事しなさい」
立ち去ろうとする俺のシャツを、深山さんががしっと掴んだ。
「見捨てないで、高瀬先生。担任でしょ」
「俺は担任だが、生徒の恋愛に口を挟む立場にはないぞ」
「挟んでー」
「なんだ、それ?」
道行く人たちが、俺と深山さんのやりとりを怪訝そうに眺めている。
あのな、女学生が大人の男に「挟んでー」って、おかしすぎるだろ。何を挟むんだ、いったい。
「じゃあ、こうしましょう。翠子さん情報をあげるから」
「君に教えてもらわなくても結構」
そう。俺は翠子さんに関しては、たいそう詳しいと自負心がある。雑誌は『少女画報』と『少女の友』が好き。『少女倶楽部』は幼いので好みではない。
茄子とさくらんぼは別格。炭酸の入ったジュースを好む。
そして俺のことが、とてもとても大好きだ。
うわぁ、自分で考えていて恥ずかしくなってきた。
「先生。なんで照れてるんですか?」
「いや、気にしないでくれたまえ」
まぁ、困ったように封筒を握りしめている深山さんを放っておくわけにもいかないよな。後で学校に来るらしいから、話くらいは聞いてやるか。
背中を押すことはできないが。彼女の決断を見守るくらいはできるだろう。
「あの、この三條さんって方は恐ろしいんですか? 鬼の形相で、倶利伽羅紋々を背負ってらっしゃるの?」
はて? と俺は首を傾げた。
琥太兄の背中に彫り物はあったっけ? 見覚えがないな。下宿先で一緒に風呂に入ったこともあるが、覚えていないということは彫ってないんだろう。
意外と組長などの大物でも、墨を入れてない人もいるからな。
下っ端は見るからに極道というか、派手な彫り物をしていたり、ドスの利いた声で脅したりするが。
琥太兄も、組長である父親の蒼一郎さんも穏やかなもんだ。
たまに目つきが酷寒の氷原を思わせはするが、基本的には紳士っぽいよな。
「入れ墨はなかったな。むしろ俺の方が、見た目は怖いかもな」
「あ、やっぱり?」
「君、とことん失礼だね」
俺は教師である前に人であり、そしてとてつもなく心が狭いので。
もう少しで、深山さんに追加の数学の課題を出しそうになった。それも夏休み中、毎日取り組んでも決して終わらなさそうな量を思い浮かべながら。
遠いな。暑いな。あー、面倒くさい。
授業があるわけでもないのに、家に仕事を持ち帰っちゃいけないのか。
生徒がいないので、いつもよりも早く家を出る必要がない。そのせいだろうか、雲一つない空からは強烈な日差しが容赦なく降り注いでいる。
少し歩くだけで、汗が滲むほどだ。
ああ、翠子さんは出かけるときに忘れずに日傘を持って出るだろうか。お清が声をかけてくれるといいが。
そういえば翠子さんが家に来る以前も、長期休暇が苦手だった。たとえ担任でなかったとしても、数学の授業がない日でも、その気になれば校内で翠子さんの姿を見かけることはできたから。
「まぁ、昼に学校に来ると言っていたからな。それまでは仕事を頑張るか」
大通りへの角を曲がったところで、俺は深山文子さんと遭遇した。いつものような袴姿ではない。肩よりも短く切り揃えた髪に、つばの大きな帽子をかぶり、しかも洋装だから、すぐには彼女と気づかなかった。
「た、高瀬先生っ」
深山さんは、これまた愛らしい封筒を手に俺に突進してきた。
君、たまに熱烈になるね。いつもは俺のことを「怖い」といって避けているくせに。
「深山さん。今日は翠子さんと約束があるんじゃなかったのか?」
「時間はまだ大丈夫なんです。でも……」
俺に突きつけてきたのは、花の描かれた封筒だ。押し花ではなく水彩画だろう。透明感のある柔らかで優しい色合いだ。
翠子さんなら、何の花か分かるのだろうが。あいにく高山植物ではないから、俺には分からない。
「また三條組から手紙が来たのか?」
「なぜ、分かるんですか?」
「いや、簡単だろ。君が花柄の封筒を握りしめて、三條組の近くをうろついていたら、それ以外の答えは導き出せないだろ」
どうやら、三條組の近くまで来たのはいいが、やはり相手は極道。恐ろしくて、屋敷に近づくことはできないようだ。
「先生は、この三條さんとお知り合いなんですよね。恐ろしい方なんですか? お付き合いを断ったら、わたし、海に沈められちゃいます?」
「……いや、それならわざわざ恋文を出さないんじゃないかな」
単に自分の女にしたくて、しかも言うことを聞かないのなら、拉致して監禁するだろう。その筋の人ならば。
「怖いなら、俺から断ってやろうか?」
「断るのも怖いですけど、お受けするのも怖いんです」
「それは難儀だな。だがまぁ、自分の人生だ。ちゃんと考えて返事しなさい」
立ち去ろうとする俺のシャツを、深山さんががしっと掴んだ。
「見捨てないで、高瀬先生。担任でしょ」
「俺は担任だが、生徒の恋愛に口を挟む立場にはないぞ」
「挟んでー」
「なんだ、それ?」
道行く人たちが、俺と深山さんのやりとりを怪訝そうに眺めている。
あのな、女学生が大人の男に「挟んでー」って、おかしすぎるだろ。何を挟むんだ、いったい。
「じゃあ、こうしましょう。翠子さん情報をあげるから」
「君に教えてもらわなくても結構」
そう。俺は翠子さんに関しては、たいそう詳しいと自負心がある。雑誌は『少女画報』と『少女の友』が好き。『少女倶楽部』は幼いので好みではない。
茄子とさくらんぼは別格。炭酸の入ったジュースを好む。
そして俺のことが、とてもとても大好きだ。
うわぁ、自分で考えていて恥ずかしくなってきた。
「先生。なんで照れてるんですか?」
「いや、気にしないでくれたまえ」
まぁ、困ったように封筒を握りしめている深山さんを放っておくわけにもいかないよな。後で学校に来るらしいから、話くらいは聞いてやるか。
背中を押すことはできないが。彼女の決断を見守るくらいはできるだろう。
「あの、この三條さんって方は恐ろしいんですか? 鬼の形相で、倶利伽羅紋々を背負ってらっしゃるの?」
はて? と俺は首を傾げた。
琥太兄の背中に彫り物はあったっけ? 見覚えがないな。下宿先で一緒に風呂に入ったこともあるが、覚えていないということは彫ってないんだろう。
意外と組長などの大物でも、墨を入れてない人もいるからな。
下っ端は見るからに極道というか、派手な彫り物をしていたり、ドスの利いた声で脅したりするが。
琥太兄も、組長である父親の蒼一郎さんも穏やかなもんだ。
たまに目つきが酷寒の氷原を思わせはするが、基本的には紳士っぽいよな。
「入れ墨はなかったな。むしろ俺の方が、見た目は怖いかもな」
「あ、やっぱり?」
「君、とことん失礼だね」
俺は教師である前に人であり、そしてとてつもなく心が狭いので。
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