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十章

3、恋わずらいですか?

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 わたくしと文子さんは、一緒に布地を買いにお店へと向かいました。
 そのまま学校へ行くのですが、授業はないので、今日はブラウスとスカートという格好です。

 夏休みのお裁縫の宿題が「簡単小児服」を作ることなので、お裁縫室を借りる予定なんです。

 でも、宿題が子どもの服だなんて不思議ですよね。中退して輿入れなさった方はともかく、学校に通っている生徒は誰一人として子どもはおりませんのに。

「輿入れ前に、作り方を覚えなさいってことなんでしょうね」

 文子さんは気もそぞろなのか、女の子用のワンピースを作るのに、なぜか浴衣用の縮緬の生地を見ています。
 難しいと思いますよ、その生地は。

「文子さん。また和歌の手紙でももらったんですか?」
「なんで? あの後、高瀬先生ってば家に帰ったの? 時間がなさそうにしていたのに」

 はい?
 文子さんが手にした反物を落としそうになったので、わたくしは慌てて両手で受け止めました。ナイスキャッチです。
 
 わたくしは自分の布地と、文子さんの分も一緒に選びました。
 でないと、きっと夕方までかかっても文子さんは必要な物を買うことすらできません。

「……もしかして、恋わずらいですか?」

 わたくしが尋ねると、文子さんは手にしていた物差しを落としてしまいました。これも受け止めましたけど。もし裁ち鋏だったら、危険極まりないですよ。

「こ、ここ、恋? だって、わたしは手紙の主に会ったこともないのよ」
「そうでしょうか?」

 簡単小児服につけるボタンを選ぶため、わたくしは棚に並んだ箱を引き出します。
 見本のボタンが紙の箱の前面につけてあり、自分で箱から必要な個数を、小さなざるに入れていくのです。

「そう、ボタンね。ボタン」
「文子さん。それ、金ボタンですよ。学生服でも作るんですか?」
「やだ。間違えちゃったわね」

 次に文子さんが手に取ったのは、舶来物の目が飛び出るようなお値段の細工ボタンでした。
 
「あのー、どうしてもそれが欲しいのでしたら止めませんけど。お裁縫の課題に使うには高額すぎないかしら」
「うわ、何これ。たっか」

 文子さんは、慌てて箱を棚にしまいます。
 これはもう、わたくしが全部選んだ方がよさそうです。深山家のお財布の為にも。
 これ以上、お店の迷惑になってはいけません。
 お会計を済ませて、それぞれの布を紙で包んでもらい学校へと向かいます。

 普段、登校するよりも随分と時間が遅いので、太陽は高い位置に昇っています。もちろん、旦那さまに買っていただいた日傘を差しつつ、歩きます。
 日傘が陽射しで温められて、木綿の香りがしました。

 どこかのお家の朝顔は、すでにしょんぼりといった風情で花弁の縁がしおれはじめています。しおれた部分はさらに青が鮮やかに凝縮されて見えます。

 ご自分の日傘に入った文子さんは、ぼんやりと空を見上げていました。

「ねぇ、翠子さん。会ったこともない人に、恋わずらいなんてできると思う?」
「さぁ、どうでしょうか。でも、わたくしは琥太郎さんとは、顔見知り程度ですけど。知らない相手に恋文を送るような方には、見えませんでしたけど」

 むしろ、知らない相手からの恋文をもらうタイプというべきでしょうか。
 それは、文子さんにお伝えすることではないので、口にはしませんが。

「文子さんが覚えていないだけで、どこかで会っているのではないかしら」
「覚えていないくらい、地味で印象が薄い人なの?」
「いえ。一度見たら、忘れませんよ」
「そういう人なら、さすがに覚えていないってことはないわね。そこまで記憶力は悪くないわ」

 うっ。何気ない言葉が心に刺さります。
 わたくしは、旦那さまのことをきれいさっぱり忘れておりました。
 一緒に暮らして、四六時中行動を共にして、それでも初恋の君である旦那さまを思い出しもしなかったのですから。
 たいそう冷淡と思われても、仕方ありません。

◇◇◇

 俺は職員室の自分の席から、窓へと視線を向けた。
 多分、一分ごとに見ているんじゃないかな。だが大丈夫。二秒で校門を確認して、残りの五十八秒で仕事を進めているのだから。
 意外と、リズムが整って悪くないんじゃないか?

 何度目の確認だっただろう。校門を入ってくる二つの日傘が視界に入った。
 翠子さんだ。
 思わず顔がにやけてしまいそうになり、手で口元を押さえる。
 いかん、いかん。ここは職員室だ。

 約束は昼だったから、残念だがそれまでは仕事に集中しよう。彼女も、宿題をしなければならないからな。
 すぐに席を立って、翠子さんの元へ向かわないとは。俺は本当に忍耐力があると思う。
 そう、大人だから我慢ができるのだ。

「高瀬先生。どうしてさっきからそわそわなさっているんですか?」
「は? 何も。いたって冷静ですよ」

 国語科の教師に声をかけられたが、奇妙なことを言う人だ。
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