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十章

4、甘酸っぱいときめき【1】

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「失礼いたします」

 職員室の入り口から声が聞こえて、俺は心臓が跳ねあがった。
 たとえ百人が一斉に喋ろうとも、決して聞き間違えることのない声。

 そうか。翠子さんは裁縫室を使うと言っていたが、鍵が開いていないのだな。

 振り返るくらい、いいよな。俺は担任だから、彼女に声をかける権利がある。
 ああ、鼓動が激しくなる。
 なんだよ、これは。まるで初恋の人に偶然出会ってしまった少年のようじゃないか。

 俺が椅子から立ち上がった時「あら、笠井さんに深山さん。そういえば裁縫室を使いたいと言っていたわね」という、たいそう好ましくない言葉を聞いた。
 彼女たちに声をかけたのは、もちろん裁縫の教師だ。事前に担当教室の利用許可を取っている以上、優先的に翠子さんに対応する権利がある。

 裁縫の先生は、壁に掛けられている鍵を手に取り、翠子さんに手渡した。
 
 翠子さん。数学の準備室とか使わないんだろうか。その宿題、数学の準備室でもできると思うのだが。

 徐々に上靴の音が近づいてくる。小さく肩に手を置かれて、俺は弾かれたように振り返った。
 
「おはようございます。高瀬先生」

 にっこりと微笑んでいるのは、もちろん翠子さんだ。
 そうか。わざわざ声をかけてくれるんだな。
 なんかもう、ときめきが止まらない。

 とりあえず、青春に関しては十代の内に経験して済ませておいた方がいい。三十を過ぎて、この甘酸っぱいときめきは体に良くない……と思う。

「こんな時間に登校して、暑かっただろう」
「ちゃんと日傘を差してきましたから、大丈夫ですよ」
「裁縫室の窓は、全部開け放っておくようにな。風が通るようにしておきなさい」
「はい」

 職員室に入ってきたのは、翠子さんだけだった。どうやら深山さんは入り口で待っているようだ。
 率先して物事を進めるのは深山さんの方なのに、珍しいことだ。

 入り口で一礼して去っていく翠子さんを、俺はドアの隙間がミリ単位になるまで見送った。

 ふいに、くっくと笑いを我慢する声が聞こえた。
 何事かと見ると、美術の皆月先生が口を押えて、肩を震わせている。

「よかったですね、高瀬先生」
「うるさいですよ」

「あら、何がよかったんですか?」と他の先生が尋ねてくるから、それをはぐらかすのが結構大変だった。
 まったく皆月先生はたちが悪い。

 まぁ、これで一分ごとに外を確認する必要もなくなった。
 あとはさっさと仕事を済ませて、翠子さんと昼食、それから帰宅も一緒になるようにしよう。

◇◇◇

 休暇中の学校は、とても静かです。登校している生徒はほとんどいないですし、先生方は職員室にいらっしゃるのですから、当たり前ですが。

 二人しか使用しない裁縫室は、いつもの何倍も広く感じられます。
 課題の型紙を切って、それを待ち針で布の上に留めていきます。布の端を輪にして、上下がずれないように気をつけて。
 簡単小児服なんて名前ですけど。それはお裁縫に慣れている人からしたら簡単なだけで、なかなか手ごわそうなんですけどね。

 でも、上手に作れたら将来子どもが生まれた時に、着せてもいいかもしれません。
 それに運針が上手くなれば、いずれ旦那さまの浴衣も縫うことができるかもしれません。そのために、お裁縫の課題である袋物も頑張りましたし、成績も上がったんですもの。
 
 文子さんは型紙を切り取っただけで、ぼうっと窓の外を眺めていらっしゃいます。
 二階にある裁縫室からは、水平線を望むことができます。湿度が高い地域なので空と水平線の境目は曖昧で、白い船がまるで止まっているかのようにゆっくりと進んでいます。

「三條組って、極道だって高瀬先生は仰っていたわよね」
「まぁ、否定はしませんけど」
「でも、翠子さんも先生も平気そうよね」

 旦那さまは、若頭と幼馴染みですから気になさらないでしょうけど。わたくしは、正直怖いですよ。

「……抗争に巻き込まれるのが怖いですよね」
「やっぱり危ないわよね」
「それも勿論ありますけど。好きになってしまった相手が、命を狙われる立場であるとか……そういうの、つらいと思います」

「そっか、そうだよね」と、文子さんはため息を洩らしました。
 文子さんの中では、琥太郎さんは文学的で風情を介する好青年として映っているのかもしれません。まだちゃんとお会いしていないから、余計にそう思うのでしょうけど。

 でも、二通目の恋文をいただいて、琥太郎さんに心が傾いていますよね。

「文子さん。もしかして初恋ですか?」
「は、初恋? え、これって、そうなの」

 わたくしは、こくりと頷きました。なんと、自覚がなかったのですね。
 
「いや、その。恋ってもっと甘くてふんわりと夢見心地になって、浮足立つものではないの?」
「うーん? どうなのでしょう」
「ちなみに翠子さんの初恋はいつ?」
「七歳の時ですよ」

「な……ななつで」と、文子さんは口をぽかんと開いた後「負けたわ」と仰いました。いえ、別に競っていませんから。
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