【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

文字の大きさ
183 / 247
十章

4、甘酸っぱいときめき【1】

「失礼いたします」

 職員室の入り口から声が聞こえて、俺は心臓が跳ねあがった。
 たとえ百人が一斉に喋ろうとも、決して聞き間違えることのない声。

 そうか。翠子さんは裁縫室を使うと言っていたが、鍵が開いていないのだな。

 振り返るくらい、いいよな。俺は担任だから、彼女に声をかける権利がある。
 ああ、鼓動が激しくなる。
 なんだよ、これは。まるで初恋の人に偶然出会ってしまった少年のようじゃないか。

 俺が椅子から立ち上がった時「あら、笠井さんに深山さん。そういえば裁縫室を使いたいと言っていたわね」という、たいそう好ましくない言葉を聞いた。
 彼女たちに声をかけたのは、もちろん裁縫の教師だ。事前に担当教室の利用許可を取っている以上、優先的に翠子さんに対応する権利がある。

 裁縫の先生は、壁に掛けられている鍵を手に取り、翠子さんに手渡した。
 
 翠子さん。数学の準備室とか使わないんだろうか。その宿題、数学の準備室でもできると思うのだが。

 徐々に上靴の音が近づいてくる。小さく肩に手を置かれて、俺は弾かれたように振り返った。
 
「おはようございます。高瀬先生」

 にっこりと微笑んでいるのは、もちろん翠子さんだ。
 そうか。わざわざ声をかけてくれるんだな。
 なんかもう、ときめきが止まらない。

 とりあえず、青春に関しては十代の内に経験して済ませておいた方がいい。三十を過ぎて、この甘酸っぱいときめきは体に良くない……と思う。

「こんな時間に登校して、暑かっただろう」
「ちゃんと日傘を差してきましたから、大丈夫ですよ」
「裁縫室の窓は、全部開け放っておくようにな。風が通るようにしておきなさい」
「はい」

 職員室に入ってきたのは、翠子さんだけだった。どうやら深山さんは入り口で待っているようだ。
 率先して物事を進めるのは深山さんの方なのに、珍しいことだ。

 入り口で一礼して去っていく翠子さんを、俺はドアの隙間がミリ単位になるまで見送った。

 ふいに、くっくと笑いを我慢する声が聞こえた。
 何事かと見ると、美術の皆月先生が口を押えて、肩を震わせている。

「よかったですね、高瀬先生」
「うるさいですよ」

「あら、何がよかったんですか?」と他の先生が尋ねてくるから、それをはぐらかすのが結構大変だった。
 まったく皆月先生はたちが悪い。

 まぁ、これで一分ごとに外を確認する必要もなくなった。
 あとはさっさと仕事を済ませて、翠子さんと昼食、それから帰宅も一緒になるようにしよう。

◇◇◇

 休暇中の学校は、とても静かです。登校している生徒はほとんどいないですし、先生方は職員室にいらっしゃるのですから、当たり前ですが。

 二人しか使用しない裁縫室は、いつもの何倍も広く感じられます。
 課題の型紙を切って、それを待ち針で布の上に留めていきます。布の端を輪にして、上下がずれないように気をつけて。
 簡単小児服なんて名前ですけど。それはお裁縫に慣れている人からしたら簡単なだけで、なかなか手ごわそうなんですけどね。

 でも、上手に作れたら将来子どもが生まれた時に、着せてもいいかもしれません。
 それに運針が上手くなれば、いずれ旦那さまの浴衣も縫うことができるかもしれません。そのために、お裁縫の課題である袋物も頑張りましたし、成績も上がったんですもの。
 
 文子さんは型紙を切り取っただけで、ぼうっと窓の外を眺めていらっしゃいます。
 二階にある裁縫室からは、水平線を望むことができます。湿度が高い地域なので空と水平線の境目は曖昧で、白い船がまるで止まっているかのようにゆっくりと進んでいます。

「三條組って、極道だって高瀬先生は仰っていたわよね」
「まぁ、否定はしませんけど」
「でも、翠子さんも先生も平気そうよね」

 旦那さまは、若頭と幼馴染みですから気になさらないでしょうけど。わたくしは、正直怖いですよ。

「……抗争に巻き込まれるのが怖いですよね」
「やっぱり危ないわよね」
「それも勿論ありますけど。好きになってしまった相手が、命を狙われる立場であるとか……そういうの、つらいと思います」

「そっか、そうだよね」と、文子さんはため息を洩らしました。
 文子さんの中では、琥太郎さんは文学的で風情を介する好青年として映っているのかもしれません。まだちゃんとお会いしていないから、余計にそう思うのでしょうけど。

 でも、二通目の恋文をいただいて、琥太郎さんに心が傾いていますよね。

「文子さん。もしかして初恋ですか?」
「は、初恋? え、これって、そうなの」

 わたくしは、こくりと頷きました。なんと、自覚がなかったのですね。
 
「いや、その。恋ってもっと甘くてふんわりと夢見心地になって、浮足立つものではないの?」
「うーん? どうなのでしょう」
「ちなみに翠子さんの初恋はいつ?」
「七歳の時ですよ」

「な……ななつで」と、文子さんは口をぽかんと開いた後「負けたわ」と仰いました。いえ、別に競っていませんから。
感想 10

あなたにおすすめの小説

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

女の子がほとんど産まれない国に転生しました。

さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。 100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳 そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。 当面は2日に1話更新予定!

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

お隣さんはヤのつくご職業

古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。 残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。 元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。 ……え、ちゃんとしたもん食え? ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!! ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ 建築基準法と物理法則なんて知りません 登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。 2020/5/26 完結

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end** ◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です! https://estar.jp/novels/26513389

「職場では隙のない完璧な先輩が、家ではゆるニットで甘えてくる。それでも彼女は、まだ俺の恋人じゃない」

まさき
恋愛
会社では完璧で、誰も近づけない先輩。 そんな彼女と、俺は同じ部屋で暮らしている。 「…おかえり」 ゆるニット姿の彼女は、家でだけ甘い声を出す。 近い。甘い。それでも―― 「ちゃんと付き合ってから」 彼女は知っている。自分が好きになりすぎることを。 嫌われるのが怖くて、迷惑になるのが怖くて。 だから一歩手前で、いつも笑って止まる。 最初から好きなくせに、言えない彼女と。 気づいているのに、待っている俺の話。