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シャボン玉
しおりを挟む古い四両編成の電車に乗り込んだ。
冬はやはり、日が暮れるのが早い。真っ赤な光が窓から射し込み、俺たちを照らす。
たった二駅の距離なのに、外の景色は病院に近づくにつれ、建物が減り、草木が増えてきた。遠くの方に、きらきらと輝かしい光を反射させた湖が見える。
「今日、どうだった? 楽しかった?」
眩しい赤色の世界を見つめながら、隣の彼女が聞いてきた。
「……楽しかった。疲れたのに、運動するなって言われたのに、やってしまったと思ったのに……後悔してない」
エリは「そっか」と嬉しそうに微笑んだ。
「あ、そういえば、これ」
俺は鞄の中から丁寧に畳まれたハンカチを取り出した。
「忘れてた! 洗濯してくれたんだ、ありがとう」
ハンカチをエリに渡す。その際、指先と指先が触れた。俺は咄嗟に手を引っ込める。彼女の手は、サラサラとして柔らかかった。
「ねえ……最後に付き合ってくれない?」
「え?」
椅子に座ったまま、彼女は俺の顔を覗き込んできた。ポニーテールが抵抗なく垂れ下がる。
意味がわからなくて、思考が停止した。瞬きもできずに、ただエリの瞳に吸い込まれる。
「湖にね、行きたいの。一緒に来てほしいな」
……まあ、そうだろうな。
そう思ってから、ようやく脳内に血が流れた気がした。
「いいけど」
エリは何も言わずに座り直す。
さっきの質問が恋愛的な意味だったなら、どう答えただろう。自分の口から出かかった言葉を探した。
恐らく、返した言葉と同じだ。俺は、『良い』と言ったと思う。
良いといったところで、今更何になるのか。
もうすぐ死ぬ俺に、これ以上大切なものを増やしたらいけないだろ。
椅子に置かれた、白い手を見下ろす。細くて、長くて、綺麗で。水泳をしている人によく見られる水かきが、人より少し発達しているように見られた。
日が傾いていてよかった。そうでなければ、きっと顔が火照っていることに気付かれただろう。
失いたくない大切なものなんて、これ以上増やしたくなかったのに。
もう遅い。隣に座っているこの人の存在が、今俺の心臓を激しく動かしていた。
駅から歩いて約十分。病院も通り過ぎ、小道を進んで湖についた。海風同様の冷たい風が、服の上から全身に突き刺さる。砂浜には赤くなった浅い波が、寄せては返してを繰り返していた。真っ赤な太陽が、もう少しで水に溶けていきそうだった。
「はい、聖夜くん」
そう言ってエリが手渡してきたのは、懐かしい手のひらサイズのボトルと、緑色の吹き棒。
「シャボン玉しよう?」
「……は?」
俺は、エリの考えていることがさっぱりわからなかった。
どうしてこの歳になってまで。しかもこんな時期に。というか、なんでこんなもの持ってんだよ。
そう思ったけれど、それは決してマイナスの意味でなく、行動の読めないエリが面白くて可愛かった。
彼女は何も言わずにボトルの蓋を開け、吹き荒れる風の中、シャボン玉を飛ばす。
「ここでシャボン玉を作るとね、風にのって病院まで届く時があるんだよ。窓から見えたことない?」
エリはまた、小さな泡を作り出す。でも、それのほとんどが、病院に届きもせず無念に消えていった。
「見たような見てないような。第一、ほとんど届いてなくね? すごい確率じゃん」
風向きが変わり、エリの吹いたシャボン玉が湖に向かって飛んでいく。ストローから空気の抜ける音、浅い波、まだ少しだけ葉が残っている木々が、音楽を奏でているように思えた。
「そう、すごい確率。だから、それが飛んだら、きっと誰かが元気になれるって思うの。無意味だとしても、もし見てくれた人が、ああ綺麗だなって思ってくれたらそれでいい」
今度はゆっくりと泡に空気を含ませた。少しずつ大きくなって、風によって飛ばされて、舞い上がって、われる。生き生きと光に照らされて輝いていたのに、呆気なく消えた。そうしてまた、同じような新しいシャボン玉が生まれる。
「……俺みたいだ」
エリが吹くのをやめた。ボトルにストローを戻し、こちらを向く。
「生まれてきて、少しずつ成長して、やっと少し自立したと思ったら、何も残せず簡単に死ぬ。そのうち俺のことなんて、みんな忘れてしまって、新しいものばかり見るんだ」
「違う」
大きくないのに、力強い声がシャボン玉の代わりに飛んできた。
「少し違うよ。確かに、生まれたら死ぬ。いずれ忘れてしまうのも、一理あるかもしれない。でも! ……シャボン玉はわれる時、霧吹きみたいに液体を落としていくでしょ? いずれ自分がいなくなったって……目に見えないほどの量だとしても、新しいものに繋がる何かを絶対に残してる。たとえ忘れられてしまったとしても、きっと心の中に何かが残ってる。その先に繋がる何かが……」
突然、強い風が吹いた。俺は風にあおられ、砂浜の上に尻もちをつく。エリが慌てて駆け寄ってきた。
「そうか。俺は……目に見えない何かを、残せるのかな」
砂の上に、膝を三角に曲げて座る。手の内にある、渡されたシャボン玉のボトルを見つめていると、エリも同じように隣に座ってきた。
「もう残してるよ。ちゃんと、私の心の中に」
顔を上げると、夕日がもうほとんど溶けおちていた。太陽の光が眩しくて目を閉じると、瞼の裏にいくつもの太陽が映っている。
また風が横から吹き、俺を倒す。それに抵抗せず、押されるがままエリの肩にもたれ掛かった。
少しだけピクリと肩が持ち上がる。柔軟剤と湖の香りが、俺の瞼をさらに重くした。
「なんか、エリといると安心する……かな」
人は安心したり癒されると眠くなるらしい。エリの存在に癒されているのだと、気づかぬ間にそれほど好きになっていたのだと知った。
冷たい風が二人を襲う。浅い波の音だけが子守唄のごとく響いていた。
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