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第二夜 遅咲きの初陣(上)
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頬を撫でる夜風は優しく、欠けた三日月の微笑みに見守られながら、雪乃は逸(ハヤ)る心臓の音を抑えるように「はぁ」と深い息を吐いた。特別寒いわけでもないのに、緊張感に苛まされた指先はかじかんで冷たく変わり、心なしか小刻みに震えている。八香の名を持つ者として、いつかは訪れる使命。それが、志路家との交わり。
この乱世において、志路家は天下に一番近いと言われており、その志路家を代々裏で操ってきたのが八香家である以上、避けて通ることはできない宿命。
「志路家は明日、玖坂(クサカ)との戦を行う。ゆえに今宵、指揮をとる武将と戦前の床を共になさい」
母であり、頭首である野菊からの命を受け、雪乃は志路家の勝利を左右する寝所へと足を運んでいた。戦に勝利をもたらせるため、大事な局面を迎える場面で八香は武将の寝所に召喚される。
戦神の血を引くと言われる八香の娘。
彼女たちが床で行う秘密の儀式は、男の精気を高め、鋭気を養い、勝利へと導く手助けをするという。
「雪乃、忘れるでないぞ。八香家の務めとして幾人もの男と交わりを持つことは避けては通れぬ。くれぐれも、情を沸かして、欲に溺れぬように」
「わかっております」
「ならばよい」
先ほど、家を出る間際に母から言われた初陣の応援が頭から離れない。
情を沸かして、欲に溺れぬように。
八香家は淑化淫女(シュクカインニョ)の教えを元に栄えてきた一族。男と愛し合うためのただの技術ではない。幾月も鍛錬を積んできた技巧は、ときに武将を虜にし、またその武将からの恩恵と愛情を一心に受けることも容易にできる。そのために、戦意を喪失したものは少なくない。ただし、門外不出の八香家の技。戦神の血は内密に守られてきた。
ゆえに夜を支配し、床を味方につけることで生き残ってきた女たちが身を滅ぼすときはいつも同じ。
「お任せくださいませ。必ずや、八香家の勝利を」
男に人生を左右されるわけにはいかない。
「雪乃が参りました」
震える両手を悟られないように少し強めに重ね合わせ、雪乃は名も知らない武将が待つ寝所の前で膝をおる。頭を下げ、ふすまの向こうで控える姿は目にしていないのでわからないが、ざわざわと少し落ち着きのない気配が室内から零れ落ちてくる。
ここで心が折れるわけにはいかない。
相手も面識がないので緊張しているかもしれないが、これは八香の次期頭首として参戦した、雪乃の初陣と同義。
「明日の戦の勝利を祈願しに参りました」
幸い、声が震える前に喋り切った。
返事がないことが余計に神経を不安に掻き立てることなど、待たせる男にはわからないのかもしれない。
「いいか、雪乃」
ふいに、直江の声が記憶の奥から語り掛けてくる。
「主導権を最初から握ろうとするな。特に戦前は気が立っているからな、変に神経を煽ると後で痛い目を見るぞ」
こんな時ばかり、冷静な忠告が耳に届いて嫌になる。直江相手に主導権をとれたことなど一度もなく、ましてアレが今から起こるのかと思うと気が変になりそうになる。男女の交わりというよりも、獣としての交尾に近い。直江との実践は、口にするのもはばかられるほど、羞恥の極みともいえた。
「もうお休みになられたのかしら?」
雪乃が頭をさげ、ふすまの前で大人しく待っているのをいいことに、寝所にいるはずの男から承諾の声はかからない。時間だけが無情に重なっていく中で、雪乃は徐々に緊張が薄れていくのを感じていた。
このまま指をついたまま、夜明けを迎えるかもしれない。
その感覚は多少の焦りを雪乃に与えていたが、顔も声も名前も知らない男と肌を重ねる必要がないのであれば、それがいい。八香の名を背負う者として持ってはいけない考えだが、内心正直に自分の気持ちを雪乃は認識していた。
「そこは冷える。早く入っておいで」
「っ!?」
その声にまさかと思い、顔をあげて驚いた。
雪乃の指先を照らし出した部屋の灯り。思わず視線を流した雪乃の指先と室内の境界線上に、今夜の相手と思われる男の足が覗いていた。
「かっ兼景(カネカゲ)様!?」
見間違いではないかと、雪乃は驚愕の眼差しを室内から現れた男へと向ける。
見上げた先には、記憶の中では幼いままの志路兼景。対面するのは実に十数年ぶりかも知れないが、昔の面影が垣間見える兼景の風貌に雪乃の緊張が解けていく。
「やっぱり、兼景様だ」
母も人が悪い。
兼景だと知っていれば無駄な緊張をせずにすんだというのに、無精ひげを生やした中年の男を思い描いていた雪乃は、ほっと胸を撫でおろした。
「知らなかったのか?」
「はい。まったく知らされていなかったので、今とても安堵しております」
「そうか」
くすくすと柔らかな声で笑う姿は昔のまま。差し出された手を無防備に受け取った雪乃は、その力強さに引き上げられて足を立たせる。
「ッ!?」
近くで見て、その成長がよくわかる。幼少期より顔馴染みの者であっても兼景は志路家の武将。長男であり次期城主である兼景がどのような鍛錬を積んできたのかはわからないが、端整な顔と鋭い視線を持つ好青年に変貌を遂げていたのだから無理もない。
「緊張しているみたいだな」
兼景の手が握る雪乃の手のひらをもむ。思わず反応してしまったのは内緒にしたい。それでも年上の顔馴染み相手にその心境は隠し通せなかった。
「安堵したと言わなかったか?」
静かな声に吸い込まれてしまいそうだった。
まるで琴線に触れるような洗練された美しい声に、雪乃の体がビクリとこわばる。
「まあ、そう緊張せずともよい」
そうは言われても、勝手に心臓が早鐘をうっていくのだから仕方がない。
「どんな顔をしてやってくるのかと思えば」
「なっ、なにがでしょう?」
「雪乃が昔と変わっていないことに、少しばかり喜んでいた」
「それは、子供っぽいと言いたいのですか?」
「いや、正室として迎え入れたい気持ちは昔から変わらない」
「まっ、また」
昔から兼景は、歯の浮くような言葉を当然のように使いこなしてくるから気が抜けない。至近距離で微笑まれるその威力を本人がどう認識しているのかは知らないが、きっとこの年になるまでに何人もの女が泣いてきたことだろう。
そうでなくても錯覚しそうになる。
「俺は今夜をずっと待っていた」
「か…っ…兼景様?」
「雪乃、よく来た」
唇が触れそうなほど間近に迫る兼景の瞳の中で、ごくりと緊張の息を飲み込んだ雪乃がうつる。室内を染めるわずかな光に揺られているのか、心臓までもがドクドクと不整脈を起こしたように息切れを起こし始めていた。
志路家を担う歴代の武将の中でも、とりわけ民からの人気が高いと言われるだけのことはある。生まれながらに色気漂う雰囲気は、会得しようとしてもできるものではないだけに、雪乃は自分自身が八香であることを忘れてしまいそうだった。
「すまない。少し意地が悪かったな」
兼景の匂いに抱き寄せられるようにして、ゆっくりと室内に招かれた体が、息をすることを覚えたように深い空気を吐き出していく。相手が兼景だと知って安堵したのは本当のことなのに、何故か今は、別の緊張が雪乃を襲っている。
鳴りやまない鼓動。
記憶の中よりも素敵な成長を遂げていた年上の幼馴染み相手に平常心は難しい。それでなくてもこれは初陣。雪乃にとって里以外の男と交わる初めての夜。
「俺が相手では気も乗らないだろうが、明日は玖坂との戦。志路家として負けるわけにはいかない大事な戦だ。今夜はよろしく頼むぞ」
「いっいえ、あ…っ…はい」
「ん?」
八香の娘として、懐柔対象である男にほだされてはいけない。それは鉄則で、雪乃自身もその教育は受けている。受けているはずなのに、こんなにも顔がほてるのは何故だろう。
例えば直江に対して抱く感情を言葉で表すなら、年の離れた兄が近い。実際に十歳近く離れていることもあるが、負けたくない相手であり、心許せる存在であり、すべてを教えてくれた恩師でもある。家族と言ってもいいかもしれない。それに対して、幼いころ何度か顔を合わせたことのある目の前の相手は、直江に対する感情のどれにも当てはまらない。それなのに、懐かしい感情は直江のそれととても良く似ていた。
「雪乃」
兼景の声は落ち着きを与えてくれると同時に、変な緊張感を連れてくる。
「さあ、こっちにおいで」
赤くなった顔を見つけられる前に兼景が離れてくれてよかった。
雪乃は人知れずホッと肩の力を抜きながら、兼景に言われるがままに室内の奥へと足を運んだ。灯りを廊下にこぼしていた部屋のふすまが閉じられ、室内には橙色の穏やかな雰囲気が満ちていく。同時に、室内に鼻腔をくすぐる微香が漂っていることにも気がついた。
この乱世において、志路家は天下に一番近いと言われており、その志路家を代々裏で操ってきたのが八香家である以上、避けて通ることはできない宿命。
「志路家は明日、玖坂(クサカ)との戦を行う。ゆえに今宵、指揮をとる武将と戦前の床を共になさい」
母であり、頭首である野菊からの命を受け、雪乃は志路家の勝利を左右する寝所へと足を運んでいた。戦に勝利をもたらせるため、大事な局面を迎える場面で八香は武将の寝所に召喚される。
戦神の血を引くと言われる八香の娘。
彼女たちが床で行う秘密の儀式は、男の精気を高め、鋭気を養い、勝利へと導く手助けをするという。
「雪乃、忘れるでないぞ。八香家の務めとして幾人もの男と交わりを持つことは避けては通れぬ。くれぐれも、情を沸かして、欲に溺れぬように」
「わかっております」
「ならばよい」
先ほど、家を出る間際に母から言われた初陣の応援が頭から離れない。
情を沸かして、欲に溺れぬように。
八香家は淑化淫女(シュクカインニョ)の教えを元に栄えてきた一族。男と愛し合うためのただの技術ではない。幾月も鍛錬を積んできた技巧は、ときに武将を虜にし、またその武将からの恩恵と愛情を一心に受けることも容易にできる。そのために、戦意を喪失したものは少なくない。ただし、門外不出の八香家の技。戦神の血は内密に守られてきた。
ゆえに夜を支配し、床を味方につけることで生き残ってきた女たちが身を滅ぼすときはいつも同じ。
「お任せくださいませ。必ずや、八香家の勝利を」
男に人生を左右されるわけにはいかない。
「雪乃が参りました」
震える両手を悟られないように少し強めに重ね合わせ、雪乃は名も知らない武将が待つ寝所の前で膝をおる。頭を下げ、ふすまの向こうで控える姿は目にしていないのでわからないが、ざわざわと少し落ち着きのない気配が室内から零れ落ちてくる。
ここで心が折れるわけにはいかない。
相手も面識がないので緊張しているかもしれないが、これは八香の次期頭首として参戦した、雪乃の初陣と同義。
「明日の戦の勝利を祈願しに参りました」
幸い、声が震える前に喋り切った。
返事がないことが余計に神経を不安に掻き立てることなど、待たせる男にはわからないのかもしれない。
「いいか、雪乃」
ふいに、直江の声が記憶の奥から語り掛けてくる。
「主導権を最初から握ろうとするな。特に戦前は気が立っているからな、変に神経を煽ると後で痛い目を見るぞ」
こんな時ばかり、冷静な忠告が耳に届いて嫌になる。直江相手に主導権をとれたことなど一度もなく、ましてアレが今から起こるのかと思うと気が変になりそうになる。男女の交わりというよりも、獣としての交尾に近い。直江との実践は、口にするのもはばかられるほど、羞恥の極みともいえた。
「もうお休みになられたのかしら?」
雪乃が頭をさげ、ふすまの前で大人しく待っているのをいいことに、寝所にいるはずの男から承諾の声はかからない。時間だけが無情に重なっていく中で、雪乃は徐々に緊張が薄れていくのを感じていた。
このまま指をついたまま、夜明けを迎えるかもしれない。
その感覚は多少の焦りを雪乃に与えていたが、顔も声も名前も知らない男と肌を重ねる必要がないのであれば、それがいい。八香の名を背負う者として持ってはいけない考えだが、内心正直に自分の気持ちを雪乃は認識していた。
「そこは冷える。早く入っておいで」
「っ!?」
その声にまさかと思い、顔をあげて驚いた。
雪乃の指先を照らし出した部屋の灯り。思わず視線を流した雪乃の指先と室内の境界線上に、今夜の相手と思われる男の足が覗いていた。
「かっ兼景(カネカゲ)様!?」
見間違いではないかと、雪乃は驚愕の眼差しを室内から現れた男へと向ける。
見上げた先には、記憶の中では幼いままの志路兼景。対面するのは実に十数年ぶりかも知れないが、昔の面影が垣間見える兼景の風貌に雪乃の緊張が解けていく。
「やっぱり、兼景様だ」
母も人が悪い。
兼景だと知っていれば無駄な緊張をせずにすんだというのに、無精ひげを生やした中年の男を思い描いていた雪乃は、ほっと胸を撫でおろした。
「知らなかったのか?」
「はい。まったく知らされていなかったので、今とても安堵しております」
「そうか」
くすくすと柔らかな声で笑う姿は昔のまま。差し出された手を無防備に受け取った雪乃は、その力強さに引き上げられて足を立たせる。
「ッ!?」
近くで見て、その成長がよくわかる。幼少期より顔馴染みの者であっても兼景は志路家の武将。長男であり次期城主である兼景がどのような鍛錬を積んできたのかはわからないが、端整な顔と鋭い視線を持つ好青年に変貌を遂げていたのだから無理もない。
「緊張しているみたいだな」
兼景の手が握る雪乃の手のひらをもむ。思わず反応してしまったのは内緒にしたい。それでも年上の顔馴染み相手にその心境は隠し通せなかった。
「安堵したと言わなかったか?」
静かな声に吸い込まれてしまいそうだった。
まるで琴線に触れるような洗練された美しい声に、雪乃の体がビクリとこわばる。
「まあ、そう緊張せずともよい」
そうは言われても、勝手に心臓が早鐘をうっていくのだから仕方がない。
「どんな顔をしてやってくるのかと思えば」
「なっ、なにがでしょう?」
「雪乃が昔と変わっていないことに、少しばかり喜んでいた」
「それは、子供っぽいと言いたいのですか?」
「いや、正室として迎え入れたい気持ちは昔から変わらない」
「まっ、また」
昔から兼景は、歯の浮くような言葉を当然のように使いこなしてくるから気が抜けない。至近距離で微笑まれるその威力を本人がどう認識しているのかは知らないが、きっとこの年になるまでに何人もの女が泣いてきたことだろう。
そうでなくても錯覚しそうになる。
「俺は今夜をずっと待っていた」
「か…っ…兼景様?」
「雪乃、よく来た」
唇が触れそうなほど間近に迫る兼景の瞳の中で、ごくりと緊張の息を飲み込んだ雪乃がうつる。室内を染めるわずかな光に揺られているのか、心臓までもがドクドクと不整脈を起こしたように息切れを起こし始めていた。
志路家を担う歴代の武将の中でも、とりわけ民からの人気が高いと言われるだけのことはある。生まれながらに色気漂う雰囲気は、会得しようとしてもできるものではないだけに、雪乃は自分自身が八香であることを忘れてしまいそうだった。
「すまない。少し意地が悪かったな」
兼景の匂いに抱き寄せられるようにして、ゆっくりと室内に招かれた体が、息をすることを覚えたように深い空気を吐き出していく。相手が兼景だと知って安堵したのは本当のことなのに、何故か今は、別の緊張が雪乃を襲っている。
鳴りやまない鼓動。
記憶の中よりも素敵な成長を遂げていた年上の幼馴染み相手に平常心は難しい。それでなくてもこれは初陣。雪乃にとって里以外の男と交わる初めての夜。
「俺が相手では気も乗らないだろうが、明日は玖坂との戦。志路家として負けるわけにはいかない大事な戦だ。今夜はよろしく頼むぞ」
「いっいえ、あ…っ…はい」
「ん?」
八香の娘として、懐柔対象である男にほだされてはいけない。それは鉄則で、雪乃自身もその教育は受けている。受けているはずなのに、こんなにも顔がほてるのは何故だろう。
例えば直江に対して抱く感情を言葉で表すなら、年の離れた兄が近い。実際に十歳近く離れていることもあるが、負けたくない相手であり、心許せる存在であり、すべてを教えてくれた恩師でもある。家族と言ってもいいかもしれない。それに対して、幼いころ何度か顔を合わせたことのある目の前の相手は、直江に対する感情のどれにも当てはまらない。それなのに、懐かしい感情は直江のそれととても良く似ていた。
「雪乃」
兼景の声は落ち着きを与えてくれると同時に、変な緊張感を連れてくる。
「さあ、こっちにおいで」
赤くなった顔を見つけられる前に兼景が離れてくれてよかった。
雪乃は人知れずホッと肩の力を抜きながら、兼景に言われるがままに室内の奥へと足を運んだ。灯りを廊下にこぼしていた部屋のふすまが閉じられ、室内には橙色の穏やかな雰囲気が満ちていく。同時に、室内に鼻腔をくすぐる微香が漂っていることにも気がついた。
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