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プロローグ

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 〈テスタメント〉開始から三ヶ月と少しの頃、ハンナの姿は拠点よりはるか遠くの平原にあった。山一つを見上げる彼女の周りには誰もいなく、何もなかった。いや、空では鳥のように羽ばたく存在があったが、ハンナは自身を孤独と定義していた。

 孤立無援、孤軍奮闘。
 そういった状況である自覚もあったし、事実そうであった。
「ここまで接近しても手は出さない、か」

 温厚な性格か、カウンタータイプか……。どちらにしても、向こうはすでにこちらに気づいているはずだ。
 うまく擬態はしているが、ハンナは目の前のそれを――山の正体を見抜いていた。
 西洋風の甲冑を鳴らしつつ、両手で握った大剣を振り上げる。

 ここでも反応なし。
 しかし、ハンナに躊躇はなかった。
 山を斬り裂く確かな手応え。裏腹に、彼女の手に伝わるのは、土をさらうそれでもなく、石を散らすそれでもなく――――
 ゼリーにスプーンを差し込んだようであった。

 自然色――緑や茶で彩られた山がぐらりと揺れる。みるみるうちに紫色となったそれは、もはや山とはいえなかった。
 これが、帝王カイザークラス……!
 正体を現した異形を見上げるハンナは、長い髪を揺らして身構える。呼応するように、何本もの鞭が彼女に殺到する。

 異形から伸びる紫のそれは、人間が蚊や蝿でも叩くように地面へ激突し、砂ぼこりを巻き上げた。直前で回避したハンナはその光景を見届けることなく、異形に大剣を突き立て、振り上げた。さっきもそうだが、これに動物特有の――肉を裂き骨を折る感触はない。まるで紙にカッターナイフを走らせるように、あっさりと刃が通る。

 暖簾に腕押しとはこのことか。
 ハンナは小さく舌を鳴らし、自身がたった今与えた斬撃の効果を確認した。水滴どうしが結合するように、簡単にもとに戻ってしまう。再生とは違う。そもそも、〝こいつ〟は損傷として成立させていないのだから。

 次の一手は――
 ――――無駄だ。
 ブンッ。大剣を横に振りかぶるハンナの脳裏に、言葉が走る。発声を必要としない、高度なコミュニケーション能力。

 ――――どうやってもその剣では不可能だ。斬撃が浅すぎる。
「…………」
 ――――体内に突入し、中枢を破壊するか。その有効性に答えは出さないが、それでも脱出や討伐より、こちらの吸収が勝る。

 読心能力まで持っているらしい。ハンナの浮かべた戦術のことごとくが察知されている。
 ――――正直、こちらに敵意はない。もちろん降りかかる火の粉は払うが、それまでだ。貴様が手を引くなら、その背には何もしない。

「だったらあんたが逃げなさいよ」
 こちらにもプライドがある。情けをかけられて尻尾を巻いて逃げるなど……
 ――――残念ながら、ここは我らの約束の地だ。譲ることはできない。守護の責を担う我もまた。

 ハンナは跳躍を繰り返し、その異形の頂上に着地した。
「っ」
 そこから見える向こう側に、息を呑む。〝こいつ〟と同種の――階級はバラバラであるが――異形が、そこら中にいた。そしてその中心にある存在を認め、意図せず呟く。

女王クイーン級……!」
 一体の帝王級でさえこれだ。さらに女王級を相手するとなると……
 ――――彼我の差は歴然だ。

「ちっ」
 不機嫌丸出しのハンナは口笛を吹く。すると、空に舞っていた影が、一直線にこちらへ急降下。そのまま『V』を描き、ハンナを拾い上げた。
 ――――いい判断だ。

 ドラゴンの背から、遠ざかる異形を見下ろしたハンナは、
「言いなりになってるようで、やっぱスッキリしない!」
 その場で槍投げの構えをし、
「死ねえ!」
 持っていた大剣――唯一の武器を放り投げた。

 ハンナの力で加速した乾坤一擲は、重力と重量、慣性の加護を受け、超高速の飛翔体と化す。数秒で空気の壁を突き破った刃は、そのまま異形へと直撃した。激突した箇所ゆえ、視界を遮る煙はない。さらに言えば、通常ならば伝わるであろう衝撃もなかった。すべて、吸収されてしまったようだ。

 深々と突き刺さりはしたが、途中で停止しているのがよく見えた。その穴もすぐにふさがり、元通り。
「アルファゲルかよ」
 のこのこ回収するのも癪なので、ハンナは下僕たるドラゴンに命じ、本拠地へ向かわせる。残りの一二本はもう、ここに来るまでの戦闘でボロボロだ。一度帰って、あいつに鍛え直してもらおう。

「それにしても」
 顔を叩く風を気にせず、ハンナは青く大きく広がる空を見上げる。
 あの子達は、今何をやっているのだろう。
 あれから会っていない家族の行方に、想いを馳せた。
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