「ハンコ押せと言った夫へ ― 40年の結婚、最後の逆転」

「ハンコ押せと言った夫へ ― 40年の結婚、最後の逆転」

四十年という時間は
静かな川のように流れていた

朝の味噌汁の湯気
干した洗濯物の匂い
子どもの笑い声

それらの中に
あなたはいつもいた

若い日のあなたは
夢を語り
大きな手で未来を描いていた

でもある日
その手は震えていた

借金という重さに
押し潰されそうになりながら
畳に額をこすりつけ
涙を落としていた

あの日
私の父が言った言葉を
あなたは覚えていますか

「娘を泣かせるな」

あのとき
私は信じていた

人は
やり直せるのだと

四十年

長かったようで
短かったようで

あなたの弁当を作り
あなたの母を送り
子どもを育て

私はただ
静かに
妻でい続けた

でもある日
病室の白い光の中で

あなたは言った

「ハンコ押せ」

まるで
古い書類でも捨てるように

「下の世話なんてゴメンだ」

その言葉は
冬の風のように
胸を通り抜けていった

驚きよりも
悲しみよりも

ただ
静かな終わりの音がした

思い出は
消えないけれど

約束は
消えてしまったのですね

父の言葉も
あの日の涙も

あなたの中では
遠い昔になっていた

だから私は
やっと気づいたのです

四十年は
我慢の時間ではなく

歩いてきた
私の人生だったのだと

あなたが
終わりを選ぶなら

私は
はじまりを選びます

あの日
あなたが差し出した
一枚の紙

けれど

最後に
ハンコを押すのは

あなたではなく

きっと
私の方でしょう。

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