『車椅子の航海記 ―40年目の嘘と、凪の海―』老々介護

『凪に沈む、最後の嘘』

潮は、やけにやさしかった
四十年分の声を知っているくせに
なにも聞かなかったふりをして

錆びた手すりの匂いと
油を差したばかりの車輪の匂いが
夕暮れに溶けていく

押してきた距離は
道ではなく、歳月だった
春の沈丁花、
夏のくちなし、
秋に折れかけたコスモス、
そして冬の、名前のない沈黙

あなたはいつも
花の匂いで季節を当てたね

「今日は、やさしい匂いがする」

そう言って笑った顔を
私はまだ、忘れていない

――綺麗ね

そのひとことが
四十年を貫いて
いま、海に触れようとしている

言わなければならない言葉が
喉の奥で錆びていく
真実は、冷たすぎるから

だから私は
最後にひとつだけ
嘘を磨いた

手のひらで
何度も、何度も

――散歩の続きだよ

凪いだ海は
なにも拒まない
なにも赦さない

ただ
受け入れるだけだ

水しぶきの音が
やけに軽くて
それがいちばん
残酷だった

あなたは
怖がらなかっただろうか

いや
きっと、信じていたのだろう
最後の一歩まで

私の嘘を

夜が降りる
花の匂いはもうしない

それでもどこかで
白いカサブランカが
静かに開いている気がする

強すぎる香りで
忘れるな、と言うように

――また明日ね

あのとき
言ってはいけなかった言葉が
いまも胸の奥で
ゆっくりと、咲き続けている

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