少年プリズン

まさみ

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二十話

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 だれかがピアノを弾いている。
 つっかえつっかえ一生懸命に、ひたむきに一心に、小さな指を鍵盤から鍵盤へと移ろわせている様子が瞼の裏側に浮かぶ。
 どこからか流れてきた音符を辿り、飴色に輝く廊下を歩く。隅々まで掃除が行き届き、塵ひとつ埃ひとつ落ちてない廊下。通いの家政婦は勤勉だ。病的に神経質で少なからず潔癖症の気がある主人の叱責を回避するために、手抜かりなく廊下の隅々まで掃き清めてワックスをかけている。
 光沢のある木材の床を歩いていた僕はひとつのドアの前で立ち止まる。音符はこの部屋から漏れてきた。ノブに指紋がついてないか確かめてから慎重にドアを開ける。我が家の家政婦は勤勉だ、雇い主とその息子が病的に神経質で潔癖な性質を有していると知っていて、絶対に指紋など残さぬよう念入りにノブを拭いている。彼女だってノブの指紋を見落とした咎で高給の職を失うのは嫌だろう。そんな感慨を覚えながら、ピアノを弾いている人物の集中力を妨げぬよう少しずつドアを開ける。
 
 ピアノがあるだけの殺風景な部屋だった。 

 木目調の美しい木材の床は飴色の光沢を纏い、天然の鏡のように艶々と輝いている。塵ひとつ見逃さずに掃除された床を四つ脚で踏んでいるのは、練習用のアップライトピアノ。床と同じく丁寧に磨かれたピアノの表面は眩く輝き、蓋を上げた鍵盤には整然と白と黒が配置されていた。美しく調和した黒鍵と白鍵の連なりをうつむき加減に見下ろしているのは幼い少女。こちらに背を向け、ひどく生真面目にピアノを弾いている少女の背後へと足音を忍ばせて歩み寄る。少女の手が跳ねる度に肩に垂らしたおさげが小気味よく揺れ、独特の拍子を刻む。小さな後頭部に続くのは色白のうなじ、うなじの下に連なる背中はノースリーブのワンピースに隠されているが、少女が半身をずらして遠くの鍵盤へと手を伸ばすたびに華奢な肩甲骨が上下する。
 演奏に没頭する少女を驚かせぬようその背後で立ち止まり、しばらくピアノ曲に耳を傾ける。
 少女の演奏はお世辞にも流暢とはいえなかった。バイエルを卒業したばかりの少女には、ずらりと左右に整列した鍵盤の数が手に余るのだ。それでも少女は一生懸命だった。見ているこちらがいじらしくなるほどに練習に練習を重ね、自分の技量を向上させようと努力していた。その努力が実を結び、最近でははっきりとその上達具合がわかるようになった。以前手つきは危なっかしいし自由自在に鍵盤を操れているとはとてもいえないが楽譜に打たれた音符を取りこぼすことは殆どなくなり、聞いている方も大分安心して音に身を任せられるようになった。
 
 演奏が終了した。
 同時に、僕は拍手をした。

 『!』
 おさげを振り回し、はじかれたように振り向く少女。子供らしい丸みをおびた頬がうっすらと上気しているのは演奏を終えた昂揚感のためか、それとも練習曲の一部始終を僕に聴かれた羞恥のためだろうか。おそらくそのどちらでもあるのだろう、僕を見た少女の顔がいたずらの現場をおさえられたお転婆娘のように気まずげになる。
 『いたのおにいちゃん』
 『曲が終了する一分二十五秒前からな』
 拍手をやめて少女の隣の椅子に腰掛ける。少女は拗ねたように口を尖らし、ぷいとそっぽを向いた。 
 『それなら声をかけてよ』
 『恵の演奏に余計な夾雑物をはさみこみたくなかった』
 『きょうざつぶつ?』
 恵がきょとんとする。リスに似た黒目がちの目が不思議そうに僕を見つめ、我知らず苦笑がこみあげる。
 『おにいちゃん、きょうざつぶつってなに?』
 『夾雑物とは端的に言えば「不要なもの」だ。恵の演奏に無粋な話し声や物音は要らないだろう?』
 『それより黙ってうしろで見てられるほうがはずかしいよ』
 鍵盤に手をおいた恵が今だ不満げに呟く。正面に掲げられた楽譜に目をやる。恵が弾いていたのはショパン作子犬のワルツだ。鍵盤の上で子犬がじゃれているような無邪気で軽やかな曲は恵によく似合う。恵は僕の方を見ようとはせず、落ち着かないしぐさで肩に垂れたおさげをいじくっていた。僕に演奏を聴かれていたのが相当恥ずかしかったようだ。
 正直、なにをそんなに恥ずかしがるのか理解できない。だから僕は話題を変えた。
 『ずいぶん上手くなったじゃないか、恵』
 『ほんとう?』
 おさげの穂先をしごきながら疑わしげまなざしで僕を見る恵に、力強く頷き返す。途端、恵の顔が明るく輝く。
 『おにいちゃん、うそついてない?恵、ほんとうに上手になった?』
 『なんで僕が嘘をつくんだ。誓って言うが、僕は恵以外の人間すべてを騙しても恵にだけは嘘をつかないぞ』
 本心から言ったのに、恵は完全には疑念を捨て切れてないようだ。兄に対するこの信用のなさはなんだ。正面に立てた楽譜を重ねて角をそろえながら、下目遣いの恵がぽつりと呟く。
 『………だっておにいちゃん、なんでもできるから』
 恵の言葉に虚を衝かれる。
 恵の横顔は意気消沈していた。白く強張った頬はあどけない笑みを頑なに封じこめ、下を向いた顎の線はひどく思いつめたように硬直していた。楽譜をそろえるのに集中する演技を続けながら、今にも消え入りそうな声で恵が続ける。 
 『なんでもできるから、なんにもできない恵のことかわいそうがってるんじゃないかって』
 一瞬、言葉に詰まった。
 『………そんな』
 そして、悔やむ。鍵屋崎直ともあろう者がなんたる失態。今の間は決定的なミスだった。案の定、僕の言葉に欺瞞の匂いを嗅ぎ取ったらしい恵が唇を噛み締めてだまりこむ。
 恵にこんな顔をさせた自分を殺したい。
 自分で自分の首を締めたくなるような後悔に苛まれがら、僕は恵の誤解を解こうとしてさらに墓穴を掘る。
 『なにを言ってるんだ恵、それは思い過ごしというか長子に対する次子コンプレックスの心理作用というか、その、つまり』
 『もういい』
 よくない。
 事実、恵は目を潤ませているじゃないか。楽譜をおさらいするフリをして涙をこらえる恵のいじらしい様子に胸が痛み、無力な言い訳を重ねようとした僕の目の前にスッと楽譜がさしだされる。
 物問いたげに目をあげる。椅子に座ったまま半身をこちらに傾けた恵が、いやに切羽詰った顔で僕を見つめている。
 『おにいちゃん、弾いてみて』
 おねがい、といよりは命令に近い頑固な口調だった。僕はどうやら本格的に恵の機嫌を損ねてしまったようだ。しかし、これは……どういうことだ?戸惑いつつも、恵のまなざしに促されるがままさしだされた楽譜を受け取る。手の中の楽譜を不審げに見下ろす僕の耳に静かな声が響く。
 『ピアノ、弾いてみて』
 恵の声は落ち着いていたが、その声の底でかすかに漣立っているのは不安定な揺らぎ。何が何だかわからぬまま、それでも恵をこれ以上不機嫌にさせるのが嫌でぎこちなく鍵盤に手をおく。恵がじっと僕の手元を見つめているのがわかるが、僕は鍵盤を見つめたまま硬直していた。膝の上に広げた楽譜と鍵盤を見比べた僕は、次の一言を発したものかどうか逡巡するが、さきほど恵の前で嘘はつけないと誓った手前素直に白状するしかないだろう。
 『……恵』
 『なあにおにいちゃん』
 『なにをどうしたらいいかわからない』
 内心忸怩たるものを感じながら、吐き捨てるように言う。知識と教養には自信がある僕も、ピアノに触れるのは今日がはじめてだ。実際恵に促されなければ一生ピアノに触れずに生涯を終えていただろう。そんな僕がすらすらとピアノを弾きこなさせるわけがない。自慢じゃないが楽譜に何が書いてあるのかさっぱりわからない。いや、誤解しないでくれ。それぞれの音楽記号が何を示すかは完璧に理解できるし説明することもできる。ピアノは弱く、メゾピアノはやや弱く、ピアニッシモはごく弱く、ピアニッシッシモはできるだけ弱く……
 『おにいちゃんにもできないことあったんだ』
 メゾピアノのささやきに振り向く。安心したように呟いた恵の顔には嬉しさを噛み殺すような笑みが浮かんでいた。
 『誤解するな恵、僕はピアノが弾けないわけじゃない。僕を世間の凡人どもと一緒にするな、練習すればすぐに……』
 『でも今は弾けないんでしょ?』
 『知ってるか恵、子犬のワルツの作曲者ショパンの本名はフレデリック・フランソワ・ショパン、1810年にポーランドで生まれた。ロマン派を代表する作曲家で39年の短い生涯のほとんどをピアノ曲の作曲に捧げ、その旋律の美しさから「ピアノの詩人」と呼ばれている。ほかにもワルツ第1番変ホ長調Op.18「華麗なる大円舞曲」やワルツ第2番変イ長調Op.34-1などの代表作が……』
 『弾けないんだね』
 恵は僕の話を聞いてないようだ。先刻までの落胆ぶりが嘘のように快活な様子でふたたびピアノを弾き始めた恵、肩にたらしたおさげを元気に振りながらはずむような口調で言う。
 『おにいちゃんにもできないことがあってよかった』
 できないんじゃない、今までやろうとしてこなかっただけだ。天才に不可能はない。
 心の中で反駁したが、はにかむように笑った恵に反論する気力も失せる。でも、恵の笑顔を見ているうちにどうでもよかった。恵の考えていることはよくわからないが、僕にもできないことがあると知った恵が安心感を得られるならそれに越したことはない。

 恵が嬉しいなら僕も嬉しい。
 恵が喜ぶなら僕も喜ぶ。
 僕には恵しかいないのだから、恵がしあわせなら僕もしあわせだ。

 この上なく充足した気持ちで恵の演奏に耳傾けていた僕は、リラックスしすぎたせいで足音の接近に反応するのが遅れた。廊下を蹴るような勢いで近づいてきた苛立たしげな足音が僕たちがいる部屋の前に到達し、乱暴にドアを開け放つ。
 ―『静かにしろ!』―
 恵の演奏をぶち壊しにした無粋きわまる張本人の正体は、認めたくはないが……僕の父親だった。
 『!』 
 恵がびくりとする。鍵盤においた手が硬直する。恵の演奏を妨害した男は足音荒く部屋の中に踏み入ると、威圧的な歩幅でこちらへと接近してきた。恵を庇うように位置を移動した僕は、不機嫌も絶頂の男と面と向き合う形となる。
 虐げられた小動物の目をした恵が僕の背に隠れて男を盗み見る。男は憎々しげにピアノを一瞥すると、ついで僕の肩越しに恵を睨みつける。
 『私は今、次の学界で発表する資料を整理しているところなんだ。雑音が侵入してくると集中力が乱れる。演奏はやめなさい』

 「雑音」。
 この男はたしかにそう言った。吐き捨てるように、軽蔑するように。

 『……………』
 恵の目にみるみる大粒の涙が盛り上がる。僕の背中のシャツを握り締めてうつむいた恵に憐憫の情をもよおすでもなく、僕の顔へと目を転じた男が感情のこもらぬ声で告げる。
 『直、お前はどうしてここにいる?お前に頼んでいた資料の収集は終わったのか』
 『とっくに終わらせて貴方の机の上に置いておきましたよ』
 『そうか……お前は仕事が早くて助かる。カナダの研究室から届いた論文には目を通しておいたか?』
 『いえ、まだ。モンゴロイドの遺伝的近縁性についての研究論文ですよね。幾つか疑問点を挙げておいたから後でもう一度まとめなおして、カナダの大学にメールします』
 『頼んだぞ』
 満足げに首肯した男が最後にちらりと娘を一瞥し、苦渋と揶揄が等分に滲んだ口調で独りごちる。
 『おなじ兄妹でどうしてこうも違うんだろうな』
 『…………』
 僕のシャツを掴む手に握力がこめられるのがわかる。指が軋むほどにシャツを握り締め、僕の肩へと顔を埋めた恵からかすかな震えが伝わってきて、それまで黙って聞き流していた僕の理性は瞬間的に蒸発した。
 体ごと男へと向き直った僕は、頬を皮肉げに歪めて挑発的な笑みを形作る。
 『当たり前じゃないですか。僕は貴方がたにそう「作られた」んだから』
 痛烈な皮肉を投げつけられても男は動じない。そればかりか、僕の言うことが最もだとばかり寛容な笑みを湛えてみせる。
 『私たちの設計図に狂いはなかったようだな』
 物分りのいい慈父の演技にでも酔っているのだろうか、この俗物は。
 興醒めした僕に背を向けて部屋をでてゆく男に白けた一瞥をくれ、恵へと向き直る。ドアが閉まる音を背中で聞きながら、恵は依然僕のシャツを握り締めていた。静脈が浮き上がるほどに力がこめられた手を見下ろし、恵の様子がおかしいことに気付く。
 『恵……?』
 『ずるい』
 僕の肩に顔をうつむけた恵が、聞き取りにくい、陰にこもった声で呟く。恵の言葉を一語一句聞き逃すことなく拾い上げようと、彼女の頬に頬を近づける。頬に生えた産毛の感触がくすぐったい。
 恵の口元へと耳を近づけた僕に聞こえてのは、吐息に紛れて消えそうな震え声。
 『おにいちゃんは「てんさい」なんだから、恵よりよくできてあたりまえじゃない』
 返す言葉がなかった。
 恵をかばおうとしたつもりが逆に恵を傷つけてしまったらしい僕は、救いようなく愚かな自分を噛み締めて暗澹たる気持ちになる。恵は僕のシャツを掴んだまま、目にためた涙がこぼれないようけなげに唇を食いしばっている。このぶんでは表面張力の均衡が弾けて涙が頬を伝うまで二秒とかからないだろう。
 妹を泣かせたら兄として失格だ。
 人間失格なら別にかまわないが、恵の兄たる自分に失格の烙印をおされるのはプライドが許さない。
 数瞬の逡巡の末に決断した僕は、顔をあげてピアノと向き合う。我ながらぎこちない手つきで左右の鍵盤に手をおき、膝に広げた楽譜と見比べる。

 深呼吸。そして、不協和音。

 『!?』
 おもわず両手で耳を塞いだ恵が、驚きと狼狽を全面におしだして僕を凝視する。びっくりしたように目を見張った恵の存在を背中越しに意識しつつ、僕は衝動が赴くままに手を動かした。―早い話が思いつくまま、無茶苦茶に弾いた。事実に即して言えば無茶苦茶にしか弾けなかったというのが正解だ。楽譜と鍵盤を見比べながらなんとか恵が先刻弾いていた「子犬のワルツ」を再現しようと最善を尽くしたが、とうとう無理だった。
 音楽記号が読めてもピアノが弾けるとは限らない。
 認めたくはないが、自分で体現してしまった事実なら真摯に受け止めざるを得ないだろう。
 『恵、ここだけの話だが』 
 大きく息を吐いて鍵盤から手を退けた僕は、膝の上の楽譜をトントンと整理してから恵に返す。反射的に楽譜を受け取った恵は、瞬きするのも忘れて僕の顔を見つめている。恵に楽譜を手渡した僕は、喉の奥にこみあげてくる苦汁を飲み下そうと努力しながら口を開く。
 『僕がなんでもできるというのは大きな勘違いだ。実は僕はピアノが弾けない』
 それを聞いた恵はじっと僕の顔の中心を見つめていたが、やがて白黒の鍵盤をさらしたままのピアノへと目を転じる。胸に楽譜を抱いた恵は何か言いたげにピアノを見つめていたが、改めて僕へと向き直ると、とっておきの秘密を打ち明けられたとでもいうように優越感に満ちた笑みを昇らせる。
 恵の笑顔を前にすると、僕の口はごく自然に動いた。
 『恵はピアノが弾けてすごいな』
 心からの賞賛だった。たとえそれが妹でも、僕が心から他人を賞賛するのは生まれて初めてだった。ピアノの正面に楽譜をおいた恵が背筋を伸ばして椅子に座りなおし、ふたたび鍵盤と向き合う。そのどこまでも一途で真剣なまなざしに圧倒される。すうと深呼吸し、最初の一音を押しこむ。耳に心地よい音の連なりに身を委ねながら、僕はこの時がずっと続けばいいのにと思っていた。
 正直な所恵の演奏は稚拙だったが、僕はどんな高尚な天才が弾くピアノよりも恵の弾く曲が好きだった。
 
 恵のピアノが聞けなくなった今でも、それは変わらない。
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