少年プリズン

まさみ

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三十八話

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 「ブラックワーク『下』のお仕事は看守や囚人のリンチで死亡した囚人の死体を処理すること」
 ぴんと人さし指をたてたリョウが、話の内容とは裏腹に明るい声で言う。明日の天気でも話題にしてるかのような屈託ない口調に嫌悪感が増す。僕の表情が歪むのを愉快げに観察しつつ、リョウが一呼吸おく。
 「リンチやレイプが当たり前の日常と化した東京プリズンでは毎日死人がでる。かわいそうなイケニエの子羊たち。お尻に断罪の杭を打たれてめえめえ鳴いてる子羊さんたち。三階層に分かれてるブラックワークの中でも『下』が最も嫌われて忌まれてるのはこういうワケ。だれだって醜く顔が変形して腐臭をはなちはじめた死体をずるずる引きずってくのはいやでしょう」
 リュウホウはそれをしていた。
 弱い立場のリュウホウは文句も言えず、不平不満も言えず、逃げることは許されず。みっともなく泣きべそをかきながら、同じジープの荷台に揺られて東京プリズンに運ばれてきたダイスケの死体を引きずっていた。指の関節を白くこわばらせ、爪が剥がれかねない力をこめて、今にも萎えてくずれおちそうな膝を叱咤して、ひっそりとした深夜の刑務所を歩いていたのだ。
 リュウホウ。
 リュウホウはどこだ。
 自分の身の安全が保証された今になって、当初の目的を思い出す。そもそも僕が屋外にでたのは、死体運搬中のリュウホウを追ってきたからではないか。リュウホウをつかまえて誤解を解こうと、さっきのあれは現場の状況を俯瞰した先入観からくる思いこみでなにも本気でリュウホウがダイスケを殺したと思ったわけではないと弁解しなければ。
 ……まて、弁解?なんで僕がそんなみっともない真似をしなければならない?
 脳裏に疑問が過ぎる。そもそも僕がリュウホウに弁解する必要なんてこれっぽっちもないだろう。リュウホウは僕の友人でもなんでもないのだから、リュウホウがなにをどう誤解しようがあちらの勝手で自由裁量だ。なぜ僕がリュウホウに弁解をはからなければいけない?自分に関係のない他人がどうなろうが知ったことではないのに、たとえ僕の不用意な一言が原因で赤の他人が哀しい顔をしようが、それが恵でさえなければどうでもいいのに。
 苦々しい葛藤が胸にこみあげてくる。そうだ、なぜ僕が何の関係もないリュウホウのために深夜の刑務所を奔走しなければならない?馬鹿げている。自分の身をわざわざ危険にさらしてまで、なぜこうもリュウホウの誤解をとこうと躍起になってるんだ?自分で自分の行動原理が理解できない、不可解きわまりない。
 いや、それ以上に、不愉快だ。
 「大丈夫か?」
 その声からは、心配という響きが感じられなかった。
 ただ事実を確認しただけのようなぶっきらぼうの声の主は、僕の隣に立っていたサムライだった。リョウの説明の間、平板な横顔を向けて沈黙していたサムライが、腰の木刀に片手をおいて興味なさそうにこちらを見つめている。
 サムライに指摘され、瞼をおさえた五指の間から今だ血が滴っていることを思い出す。思考に沈んでいた間は忘れていたが、僕の指の間から滴り落ちた血痕は点々とコンクリートを叩いている。意外と傷が深かったのだろうか?失明の危険性はなさそうだが、とりあえず止血したほうがよさそうだ。しかし僕の手の中にあるのはリョウから投げ渡されたコンドームのみ、バンソウコウなどどこにも見当たらない。
 衣擦れの音。
 ふと顔をあげる。目の前にサムライがいた。僕よりかなり上背があるサムライが前に立つと見上げる格好になり、癇にさわる。前に立つなと声を荒げて抗議しようとして、口を開きかけ、止まる。
 サムライの指が虚空にのばされる。
 よく鍛えられた、骨ばった指。日々の鍛錬と過酷な強制労働を耐え抜いてきた手は健康的に日焼けし、とても未成年のものとはおもえない強靭さを感じさせた。あちこちにこまかな傷がついた無骨な手が、患部を覆った手の上からそっと瞼に触れる。
 「!痛っ、」
 おもわず声がでた。不覚だ。
 サムライが素早く手をはなす。声を低め、淡々と言う。
 「傷は浅い、たいしたことはない。しばらく押さえていればそのうち止まる」
 そして僕が見ている前で、おもわぬ行動にでた。
 囚人服の片袖を口にくわえ、八重歯をおもいきり食いしばるサムライ。布が裂ける乾いた音。破けた袖の切れ端を手際よくしごき、即席の止血帯にして有無を言わせず僕の瞼にあてがう。
 払いのける暇もなかった。
 あぜんとしてサムライの横顔を見つめる。僕の方は向かずにサムライが呟く。
 「応急処置だ」
 「さっすがサムライ、切り傷の処置はお手のものってか」
 レイジが口笛を吹いて茶々をいれる。その言葉にサムライの手を見る。体の影になって見にくいが、サムライのてのひらには深々と刀傷が刻まれていた。
 僕は知っている。真剣を鞘から抜くとき、刀の扱いが初歩の段階にある者はてのひらを傷つけてしまうことがある。サムライのてのひらにある傷はおそらく幼少期、はじめて刀に触れた時の名残りだろう。
 凱の話に嘘はない。サムライはおそらく物心つく前から容赦なく肉を断ち骨を切る真剣を握らされていたのだ。
 「この場に手ぬぐいがあればよかったのだがな」
 ただそのほうが便利だったと、独り言に近い口吻で呟くサムライに先刻階段の踊り場で見た光景がフラッシュバックする。絶望に暮れた顔で僕から逃げ去るリュウホウ、その尻ポケットからぶらさがっていたのは……サムライから借りて僕がリュウホウに貸した、手ぬぐい。
 「どこ行くんだ、キーストア」 
 あくびまじりの気のない声でレイジが呼び止める。屋上に背を向けて歩きだした僕は、感情のない声で吐き捨てる。
 「リュウホウをさがしにいく」
 「リュウホウ?だれだそれ」
 答えをもとめるようにロンを見るが、レイジと顔を見合わせたロンは「さあな」とてのひらを返しただけ。怪訝そうな顔の一同を無視して歩き出した僕の脳裏には、泣き笑いに似たリュウホウの表情がはじけては結ぶ泡沫のように繰り返し浮かび上がっていた。
 僕がレイジとサーシャの決闘に巻き込まれたのは深夜ひとりで房を抜け出したサムライのせいであって、リュウホウのせいではない。リュウホウは職務に忠実に―否、自分の意志とは裏腹に強制的にブラックワークの職務に就かされていただけだ。彼に非はない。それにリュウホウは、僕のことを一度も「親殺し」とは呼ばなかった。おどおどした上目遣いでこちらを盗み見ることはあったが、ダイスケのように僕を口汚く罵ったりはしなかった。
 リュウホウは僕の友人ではないが、少なくともリュウホウは僕に友情めいたものか、それに近い感情を抱いているらしい。
 東京プリズンで唯一の友人と認識している僕に「ダイスケを殺した」と誤解され糾弾され、裏切られたと思いこんだリュウホウがどんな極端な行動にでるか―
 「明日にしたら?」
 頭の後ろで手を組みながら声をかけたのはリョウだ。
 振り向く。にこやかな笑みを絶やさずにリョウは続ける。
 「だいたいキミ、その―リュウホウだっけ―の房わかるの?」
 「…………………いや」
 「東棟だけで何個の房があると思ってんの?百は軽く超えるよ。それをひとつひとつ当たってゆくわけ、囚人がぐっすり寝静まったこの真夜中に。とんだ近所迷惑だね、僕なら枕なげて追い返すよ」
 悪戯っぽく含み笑ったリョウからレイジ、ロン、サムライへと視線を移す。
 「リョウの言うとおりだ」
 囚人服の胸にたれた十字架を褐色の指先で弄いながら、レイジが肩を竦める。
 「おまえみたいに青白くてひょろひょろした奴が深夜にのこのこ訪ねてってみろ、貴重な眠りを邪魔されて頭にきてる囚人どもに押さえこまれてヤられるのがオチだぜ。一応東棟の王様として忠告しとく」
 「その『一応』は王様と忠告、どっちにかかってるんだ?」
 「どっちもだよ」
 ロンの的を射た指摘を食えない笑みではぐらかすレイジ。
 「俺もたのしく踊ったあとでいいかんじに眠たくなってきたし、そろそろ房に戻るとすっか」
 なれなれしくロンの肩を叩いて踵を返しかけたレイジだが、肩においた手を邪険に振り落とされて演技ではなく哀しそうな顔をする。世にも滑稽な顔をしたレイジをよそにぐるりを見回し、うんざりしたようにロンがため息をつく。 
 「こいつらはどうするんだ?」
 「ほうっとけよ」
 死屍累々と屋上に倒れ伏した北棟の少年たちをちらりと流し見て、あっけらかんとレイジが提案する。その楽天的な口調に猜疑心をかきたてられ、ロンが眉をひそめる。
 「凍死しちまったらどうする?」
 「凍死する前に見回りにきた看守が気付くだろうさ。で、俺たちはその頃には房でぐっすりトンズラってわけ」
 ごく軽い口調で冗談めかしてレイジが言い、見かけによらず常識人のロンがその語尾に噛みつこうとしたがくしゃみで潰える。派手にくしゃみしたロンを心配そうに見下ろし、レイジが訊く。
 「大丈夫?」
 「大丈夫じゃねえよ、砂漠の夜にシャツ一枚で放りだされてみろ。よくて風邪、運が悪けりゃ凍死だ」
 鳥肌だった二の腕をさすりながら恨めしげにロンが唸る。実質八つ当たりに近い抗議の目で睨まれてもレイジは動じず、自分の囚人服を脱ぐ。ぎょっとしたロンへとたった今脱いだ囚人服を投げる。おもわず手を前に突き出して上着を受け取ったロンに、並びの良い歯を覗かせて子供っぽく笑いかけるレイジ。 
 「着てろ。王様命令だ」
 「―お前の汗と体臭が染み付いたシャツなんてぞっとしねえな」
 「贅沢言うな」
 笑いながら釘をさしたレイジから顔を背け、それ以上の文句は言わずに上着に袖を通す。囚人服の上着を着終えたロンは、心なしばつが悪そうな顔で黙りこむ。
 レイジとロンの関係はまったく理解できない。ふたりの関係には興味が尽きない。
 ふと見回せばリョウの姿がなかった。レイジに気をとられてる間に屋上を後にしたものらしい。元を辿れば、僕の災難はサムライだけでなくリョウにも起因している。リョウがレイジ宛の手紙の運び屋に僕を任命しなければ今夜のような馬鹿騒ぎに巻きこまれることもなく、今頃は自分にあてがわれた房でぐっすり睡眠を貪っていられたはずなのだ。
 瞼の上の止血帯を押さえ、短く嘆息する。
 血は止まってきた。このぶんなら夜が明けるのを待って医務室に行くまでもないだろう。レイジもロンもサムライも多少のかすり傷は負っているようだが、僕と同様たいしたことはない。たいしたことがないというのは明日の強制労働を休んで医務室にかかるまでもない度合いの怪我だということだ。
 最も東京プリズンでは、右手の薬指にひびが入っても「たいしたことがない」と判をおされるらしいが。
 「…………」
 どうしようか逡巡する。僕は疲れていた。それ以上に眠たかった。今ベッドにもぐりこんでも睡眠時間は限られている。夜明けまで四時間、いや、三時間もないのだ。しかしこの足でリュウホウをさがしにいったところで、運良く彼をつかまえられる確証はどこにもない。クロロフォルムで意識を失わされていた僕にはリュウホウの行く先も彼が寝にかえる房の場所も皆目見当がつかないのだ。
 非効率的な行動で、明日の強制労働のために温存していた体力を浪費する愚は避けたい。
 無意識にサムライを仰ぐ。サムライはすぐそばにいる僕の存在など忘却したかのように屋上の闇を凝視していた。とりつくしまもないその様子に一気に徒労感が募る。心許ない気分で瞼にあてた袖の切れ端を押さえ、しぶしぶ結論する。
 「房に帰る」
 それしかないだろう。それ以外にどんな選択肢がある?
 リュウホウのことは気になるし彼を追いたい気持ちも捨てきれないが、僕は自分の睡眠時間を削ってまで赤の他人の消息を気に病むような偽善者でも愚か者でもない。結局僕は自分の身がかわいい。べつに恥じることではない、我が身の保身を最優先するのが原初から人間に備わった生き残るための本能ではないか。
 そうだ、恥じることではない。僕はこの場で最も合理的かつ効率的な判断をくだしたまでだ。
 自分に恥じるような行いはなにもしてない、なのに。 
 「顔色がすぐれないな」
 サムライに向き直る。
 相変わらず僕の方は見ず、きょとんとしたロンとレイジの方も見ず、ただ墨汁を流したような闇の一点だけを凝視している。
 「本当にそれでいいのか?」 
 「……いいもなにも」
 なんで。
 なんでこの男は、この場で最も聞きたくない台詞を平然と口にするんだ。
 無理を強いて唇の端をつりあげ、挑発的な笑みを形作る。自分で自分の顔を見ることは不可能だが、きっと今の僕は
 「他人がどうなろうが僕の知ったことじゃない。僕は自分と恵だけがかわいい、同じジープで運ばれてきただけのなれなれしい他人がどうなったところで―」
 リュウホウ。
 刑務所につれてこられた初日。別れる間際にうしろめたげに僕を振り返っていた。
 だだっ広い食堂の片隅で肩身が狭そうに身を縮こめ、凱たちに小突かれながらのろのろと箸を操っていたうしろ姿。
 エレベーターの中、扉が閉まる直前に僕へと向けた今にも泣き崩れそうな微妙な均衡の笑顔。
 そして。
 「同じジープでつれてこられただけの何の関わりもない赤の他人がリンチされようがレイプされようが首を吊ろうが」
 脱兎の如く逃げ去ってゆくリュウホウの尻ポケットではためく、白い手ぬぐい。
 「関係ない」
 「―そうか」
 サムライは頷きもしなかった。
 ただ、事実を事実として肯定しただけだ。それ以上は根掘り葉掘り詮索せず、無慈悲に背をひるがえして歩き出す。監視塔から降りる階段へと歩を向けたサムライに続き、のろのろと歩き出す。足が重たい。なぜだろう。当たり前のことを当たり前に言っただけなのに、なぜ自分に言い訳してるような気になるのだろう。
 両親を刺殺した時だって罪悪感を感じなかったこの僕が、なぜ、罪悪感に似た胸苦しさに苛まれているのだろう。
 暗闇に沈んだ階段に目を落としながら一段一段慎重に降りていた僕の正面に、サムライの背中がある。いつでもぴんと伸びた背筋、おのれに恥じることなどなにもないと宣言しているかのような。
 「サムライ」
 「なんだ」
 僕が房をでたそもそもの理由を思い出す。
 「なんで房にいなかったんだ?」
 サムライが隣のベッドにいなかったから、サムライが房を不在にしていたから、それが気になって僕は寝付けなかったというのに。
 問いをぶつけた当の本人は、あっさりとこう答えた。
 「お前が寝ていたからだ」
 「は?」
 口から間抜けな声が漏れた。
 「なぜ僕が寝ていたらきみが房を出なければいけない?明解な説明をもとめる」
 こちらを振り返りもしないサムライに小走りに追いつき、冷静沈着に取り澄ました横顔を睨みつける。サムライは日本人の典型たる切れ長の一重でちらりとこちらを見たが、すぐに興味なさそうに前を向き、付け足す。
 「お前の眠りを妨げては悪いと思い、外で稽古をしていた」
 「………………………………………………」
 腰の木刀に目をやる。歳月の酷使に耐え、手垢が染みこむほどに鍛え抜かれた一振りの木刀。たしかにこの木刀を就寝中に振り回されては、風切り音や衣擦れの音やサムライが息を乱す音やらでたまったものではないだろう。 
 いや……戦闘中も息ひとつ乱さなかったサムライなら、一挙手一投足にともなう生活音も最小限におさえられるだろうが。
 一応彼なりに同居人の眠りに配慮してくれたのだろうが、そんな紛らわしい配慮はいらない。
 「………これからは何も言わずにいなくなるなよ」
 檻から逃げ出したモルモットをさがしあぐねて、息を乱して駈けずりまわるのはこりごりだ。
 声を低めて念を押した僕に相変わらず涼しげな横顔を向けたまま、サムライは言った。
 「心得た」
 
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 昨夜はいろいろなことがあった。ありすぎた。
 心身ともに極限まで疲労していたせいか、寝つきはよかった。三時間にも満たない短い睡眠だが悪夢も見ずにぐっすり眠れた気がする。房に帰り着いてベッドに倒れこんでからの記憶が綺麗さっぱりとんでいる。こんなによく眠れたのは東京プリズンにきてから初めてかもしれない。 
 毛羽立った毛布を畳み、ベッドから抜け出す。サムライは既に房を留守にしていた。洗顔を終え、一足先に食堂に行ったのだろう。僕だっていつもサムライと行動を共にしているわけじゃない。
 昨夜の一件を思い出す。今朝起きてサムライと顔をあわせるのは気まずかったから、彼が先に房をでていてちょうどよかったかもしれない。……待て、なぜなにも悪いことをしてない僕が気まずい思いを味わなければいけない?もとはといえばあのやることなすこと紛らわしい男が余計な気をきかせたのが昨夜のトラブルの原因なのに。
 蛇口を締める。
 洗顔を終えた僕はさっぱりした気分で房を出る。今ここにいないサムライに対する不満の数々は排水口にすいこまれてゆく水と一緒に洗い流したことにする。洗い流したいといえば、昨夜の僕がレイジにセクシャルなものを感じた忌まわしい記憶も抹消したい。あれは一時の気の迷いだ。極度の緊張状態における前頭葉の錯乱、アドレナリンの大量分泌による異常な興奮状態が誘発したニセの感情、幻覚で錯覚だ。だいたい恵以外の人間に興味がない僕が赤の他人の、それもあろうことか同性に性的興奮をおぼえるはずがない。
 ―よし、忘れた。
 記憶の一部消去が完了した僕は、起きぬけの囚人でごったがえした早朝の廊下をひとりで歩く。仲間と連れ立って食堂へと向かう囚人も多いが、中には一足先に食事を終えて強制労働開始までのわずかな時間を雑談に興じる者もいる。僕みたいにひとりで歩いてる囚人は少ない―僕もサムライと一緒に食堂へ行くことが多い。べつに好き好んで彼と行動をともにしているわけではないが、同房のため必然的に起床時間が重なり、それ故日常生活における行動のあらゆる面が重なってしまうのだ。
 黒と白の人ごみを避けて歩きながら、昨夜、別れ際に目撃したリュウホウの顔を思い浮かべる。 
 リュウホウは食堂にいるだろうか。先にテーブルに着いて朝食をとっているだろうか。 くだらない話に時間を割きながら他人と食事をとるのはうっとうしいが、今日だけは別だ。食堂でリュウホウを見つけ次第、話さなければならない。彼の誤解をとかなければならない。
 そう決意して廊下の角を曲がった僕の目にとびこんできたのは、黒山の人だかり。
 「?」
 廊下の前方が騒がしい。等間隔に壁に並んだ無個性な鉄扉のひとつが開け放たれ、その周囲に押しかけた囚人たちが二重三重の垣根を作っているのだ。好奇心に負け、物見高い野次馬たちの最後列から房の中を覗きこむ。
 よく見えない。上背の高い囚人が視界をさえぎっているのだ。まったくこれだから、本来脳にまわすべき栄養分を体にまわしてる低脳どもは手におえない。うんざりしつつ、その場から立ち去ろうとした僕を矢のような単語が刺し貫く。
 「クビツリ?」
 「またかよ。今度はだれだ」
 「このまえきた新入りの、リュウなんとかってやつ」
 「知ってる、ブラックワークにまわされたやつだ」
 「中、下?」 
 「下だよ、下」
 「ああ、蝿がたかって蛆の沸いた死体をずるずる引きずって死体運搬用トラックまで持ってくやつ」
 「そんな仕事続けてたらそりゃ死にたくなるよなあ」
 「まともな神経なら一ヶ月ももたねえよ」
 瞬間、僕は我を忘れて視界を阻む囚人を突き飛ばしていた。
 「痛だっ、なにするんだてめえ!?」
 背後で炸裂した怒声も聞こえない、耳に届かない。壮絶に嫌な予感は一歩足を進めるごとに確信に変わりつつある。野次馬の囚人を片端から突き飛ばしどけてゆく。力押しで野次馬の包囲網を抜けた僕は、たたらを踏んで最前列にまろびでる。
 喉が鳴った。
 「…………」
 僕の目の前に、縊死死体がある。
 天井の中央に設置された豆電球、その豆電球が吊られた鉤に細長い手ぬぐいを巻きつけ、手ぬぐいの輪の中に首をつっこんで絶命している死体。
 興奮したざわめきに背を向け、野次馬たちの注視に背を向け―
 猫背気味に丸まった背中を開け放たれた出口に向け、つま先を宙にたらして揺れているのは。
 「………………う」
 りゅうほう。
 りゅうほう―リュウホウ?
 鉤に結びつけた手ぬぐいが軋み、天井からぶらさがった死体がゆっくりとこちらを向く。宙にたらしたつま先が弧を描き、房の奥をむいていた体が百八十度回転してくる。
 口の端から泡を噴き、細首に手ぬぐいを巻きつけたその顔は紛れもなくリュウホウだった。
 その時になり、はじめて房内に耐え難い悪臭がたちこめているのを嗅覚がとらえた。知っている。首吊り自殺をはかった場合、首を締められた衝撃で括約筋が弛緩し、脱糞するのだ。
 排泄物の悪臭が芬芬とたちこめた息苦しい房の中央で、リュウホウの体は揺れていた。首に手ぬぐいを巻きつけたまま。
 昨夜、リュウホウの尻ポケットではためいていた手ぬぐい。涙を拭うようにとエレベーターの中で僕が貸し、リュウホウに感謝されたあの手ぬぐい。

 あれは。  
 あの手ぬぐいは、僕が貸したものだ。

 『ありがとう』
 あの時は最後まで聞き取れなかったリュウホウの礼が、今頃になって鼓膜で再生される。
 瞼の裏側に浮かび上がったリュウホウは、晴れやかな笑顔を浮かべていた。東京プリズンにきてからこのかた、いや、砂漠を走るジープの荷台でだって僕が目にしたこともないような何の苦悩もない幸福そうな笑顔。
 この世の地獄から解放され、あらゆる苦しみから解放され、無防備に安心しきった笑顔。

 膝から力が抜けてゆく。
 リュウホウの首に巻きつき、その命を奪った手ぬぐいの白さが目に焼きつく。

 僕は……僕は「また」、人を殺したのか。
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